CODE;7 Confession
フロリアンに戻るのは、三ヶ月振りだった。
あの日、フィアスティックが反乱を起こして、ゴンサレス研究所の所有地であるアズナヴール半島はあっという間に壊滅状態になった。
火蓋を切って落としたのは、ゴンサレス研究所ではなく、北の大陸<ユスティディア>最西端の地、リッケンバッカーにいた何者かだ。
かつてその地にいたことがある筈のエマヌエルにも、はっきりとした自覚がなかったが、そこがノワールの本拠地だという。
巨大鳥の言ったことを総括して判断すると、そこから全てが始まったのだろうが、詳細は今以て分からない。
けれど、フィアスティック達の侵食は、リッケンバッカーとフロリアンから始まって、三ヶ月でユスティディアをほぼ全土制圧してしまった。
世界で一番治安の悪い大陸として知られるユスティディアの住人と言えば、殆どが後ろ暗いことをして生計を立てる者だ。但し、本人達には、自分達がやっていることが後ろ暗いことだという自覚は一ミリもない。割合にして裏社会関係者が八割、残りの二割は軍事大国の幹部か、それに虐げられる一般人だ。しかし、反乱を起こしたのは、肉体そのものが戦う為だけに作られた兵器だった。それを扱うだけの――『兵器』を取り上げられれば丸腰の人間には為す術がなかったのだろう。たとえ、荒事に長けたならず者であっても、だ。
但し、それらの事実は、エマヌエルの耳には入って来なかった。そもそも、情報収集をする為のネットが、最初にフィアスティックに押さえられてしまったのだから。
状況が判らないことにもどかしい思いを抱えながらも、エマヌエルはこの三ヶ月、ユスティディアの東部に釘付けになっていた。
発端は、ウィルヘルムを助けたこと。
セカンド・ラボのあるリーフェンの手前まで来て、既にそこにもフィアスティックの手が伸びているのを悟り、エマヌエルはウィルヘルムにはそこからどこへなりと自力で避難するよう促した。だが、眼鏡をどこかへなくしたらしいウィルヘルムに、セカンド・ラボに予備の眼鏡を取りに行くからボディガードして欲しいと頼まれ、断り切れなかったのがエマヌエルの運の尽きだった。
気絶していたアスラー以下四名が起き出してくるのを待っていたことが、そもそも間違いだったと今になれば思える。人がいい(?)のも大概にしておけ、と自分を罵倒したい気分だった。
目を覚ましたなら好きに逃げてくれ、とウィルヘルムだけを伴ってリーフェンへ向かおうとしたエマヌエルを(と言うより、ウィルヘルムを)引き留めて、意識を回復したアスラーは何があったか聞きたがった。
立場が逆ならエマヌエルでもそうしただろうから、責めるに責められないジレンマがある。しかし、それを無視して歩を進めれば、アスラーを含む四人がぞろぞろついてきたので、結局そこまで乗ってきた車へ引き返した。
敷地の五百メートルほど手前まで来て、ウィルヘルムを伴って降りようとしたら、アスラーがいいとも言わないのにくっついてきた。他の三人がどうしたか、ここでしっかりと確認を取っておかなかったことを、後に盛大に後悔する羽目になるのだが、この時点では訊く必要性を感じなかったのだから言っても仕方がない。
車中でウィルヘルムが、自身が見たことを掻い摘んで話していたから(エマヌエルは黙りを押し通した)、とにかく非常事態なのは解っただろう。そう思って、データの入った小型パソコンのある部屋までついて来るのを放置しておいた。しかし、これがまた失敗だった。
『人間』は建物の外へ避難し、スィンセティック達はそれを追って行ったのか、ラボの中はほぼ蛻の殻で、建物内に侵入するのは案外簡単だった。
時折、出遅れたスィンセティックに出会しはしたが、エマヌエルが右肩背部に刻まれた識別ナンバーを示すことでそれが免罪符となって、ウィルヘルムとアスラーはスィンセティックか否かを特に追及されることはなかった。
ウィルヘルムが使っていた部屋まで来て、データを手渡して貰う段になると、アスラーが「それを君はどうする気だ」と追及し始めた。
それも、彼の職務からすれば至極当然の行動だった。だがエマヌエルは、問答無用で彼の鳩尾に拳を叩き込みたい衝動を、なけなしの理性を総動員して堪えなければならなかった。
『第一、取り調べとかしてる状況だと思ってんのか? おっさん、ドクターの説明聞いてたんだろ?』
『ああ、聞いたとも。但し、君がそんな非常事態にも関わらず、よからぬことを企んでいるのだとすれば話は別だ。おれはどんな状況だろうと目の前で行われる悪事は見逃さない』
『へぇ』
エマヌエルは、それを聞いて面白そうに唇の端を吊り上げた。
『悪事は見逃さない、ねぇ。それにしちゃあ、自分の「娘」の「悪事」は見逃しちゃうんだ』
『何のことだ』
『トボケんなよ。知ってるんだぜ? お宅のお嬢さんを、CCAに所属させる為の交換条件』
そう口にした途端、アスラーの追及の言葉はピタリと止んだ。だが、今まで散々取り調べられた意趣返しとばかり、エマヌエルは更に畳み掛ける。
『お嬢さんの「復讐劇」は傍観するクセに、やってるコトは同じなのに、俺のは見逃してくれないわけだ。勝手だねぇ。そーゆーの依怙贔屓って言うんじゃねぇの』
『そこまでにしとけ』
見兼ねたのか、ウィルヘルムの柔らかなテノールが、静かに割って入った。彼は彼で、捜し物を見つけたのか、その顔には既に眼鏡が以前通り定位置に鎮座している。
『これで、あんたの用も済んだ訳だな。後は自分で脱出してくれって言いたいとこだけど』
『せめて、車のあった場所まで一緒に来てくれると助かるな』
『車はない』
『は?』
アスラーの意外な言葉に、エマヌエルとウィルヘルムの間抜けな声がハモった。
『他の部下に、リーフェンを迂回してレムエまで戻って状況を詳しく探るように言い付けたからな。ここまで使った車は彼らが今運転している』
暫し部屋には沈黙が落ちた。
『……おっさん、アホじゃねぇの?』
開いた口が塞がらない体で言葉を失っていたエマヌエルとウィルヘルムだったが、先に言葉を取り戻したのはエマヌエルの方だった。
『んっとに状況解ってやってんのか?』
『解らないから調べにやったんだろう』
『で? 結果報告はどうやって受けるんだ? まさかと思うけど、携帯でとか言わねぇよな。通信網全部やられてるのに』
アスラーは答えなかった。それこそが答えだったらしい。口こそ閉じて沈黙しているものの、その表情ときたら、痛いところをピンポイントで突かれて、返す言葉もないのがまた悔しいと、デカデカと書いてあった。
いくら彼が歴戦の警察官と言えども、相手は前提として自分と同じ能力を持つ人間であり、且つライフラインは通常通りというのが、考えるまでもなく当たり前だった。
犯罪大陸と呼ばれる北の大陸<ユスティディア>を管轄下に置くレムエ支部の長とは言え、こんな事態は正しく想定外だったのだろう。冷静に見えても、頭の中はパニック状態かフリーズ状態なのかも知れない。
『あーあ、やってらんねー。本っ当に面倒見切れねぇ。後は自分らで何とかしてくれや』
『悪ぶるのも時と場合を弁えてからにした方がいいと思うぜー』
侮蔑を隠しもせずに言うと、透かさずウィルヘルムが冷水を浴びせるような言葉を投げた。
『……何だって?』
普段、十六歳の少年が発するものとしては高めの声音が、オクターブ低くなってその場に落ちる。
エマヌエルは、その青の瞳に冷たい光を浮かべてウィルヘルムを見据えた。だが、ウィルヘルムのダーク・ブラウンの瞳はビクともしない。
『何だかんだ言って、お前はここまでおれ達をガードしてくれてた。口で言うようにここでおれ達を捨ててくとは思えねーんだけどな』
『はっ、あんたも大概めでたいな。別に俺はあんた達をガードしてた訳じゃない。あんたにはデータの場所を教えて貰わなきゃなんなかったし、そっちのおっさんは勝手についてきただけだろ』
『でも、関係ないって連中に突き出すコトはできたよな』
『何の話だよ』
『さっき、他のスィンセティックと行き合った時の話』
咄嗟に言い返すことができなかった。
『……別に。……わざわざ「コイツらただの人間です」って言うコトじゃねぇだろ』
それでもどうにか言葉を絞り出すが、一度勝機を見出したウィルヘルムは容赦がない。
『本当にお前さんがその気なら、その前にだっていくらでも機会はあったぜ。例えば、おれがおっさんを起こすから待っててくれって頼んだ時とかな』
『~~っ……それは』
その後であんたらが死んだんじゃねぇかとか、気にしてたらやるべきコトに集中できないから。見殺しにしたら後味が悪いから。
言い返すべきことを端から頭に浮かべていくが、どれもこれも、口に出したが最後、墓穴の底で更に墓穴を深くする結果しか招かない気がした。
他に何か巧い言い回しがないかと言葉を探して、必然的に沈黙してしまったエマヌエルに、勝利を確信したのか、ウィルヘルムが肩に腕を回してくる。
『ていうワケだから、当分ボディガードしてくれると有り難いんだけどな。勿論、こっちの借りにちゃーんとツケとくから』
借りが増えたという割に、ウィルヘルムはどこか楽しそうだった。語尾に八分音符が付いているように感じたのは気の所為ではない。絶対に。
瞬間、出し抜けにエマヌエルは悟った。
この男に、口で喧嘩を仕掛けてはいけなかったのだ。
悟ったところで既に遅い。実際の殴り合いで言えば、今のエマヌエルは、マグネタイン製の拘束具で拘束された上で地面に捩じ伏せられて、頭部に銃を突き付けられている状態に等しい。要するに勝ち目はない。
腕力に訴えるのは勿論可能だった。けれども、研究所やノワール、人身売買組織の連中に比べれば、恨みなどはない(アスラーに対しては、あるにはあるが、殺して胸が痛まないほどではない)。
また自分で言ったように、この能力は恨みも何もない、ましてや体術などの心得のない人間に向けるものではない。
逡巡するまでもなく答えは出ていた。
かくして、エマヌエルがぐうの音も出せなくなった時をまるで狙ったようにその人物(いや、動物?)は現れた。
『私でよければ足になるぞ』
エマヌエルだけでなく、恐らくウィルヘルムもアスラーも、いきなり声を掛けられたことで、心臓が引っ繰り返り掛けた。もっとも、エマヌエルの体内にあるのは、造りもののそれだが。
声のした方に、計ったように三人が同時に振り向くと、視線の先には、規格外に巨大な姿をした鳥が、首を屈めて入り口に顔だけを覗かせていた。
『あっ!』
『お前っ……!』
昼間、フロリアンの近くで別れた、あの巨大鳥だった。ウィルヘルムも見覚えがあるのか、一緒になって声を上げる。
『何でここに』
『貴殿の後を追ってきた』
『はぁ?』
『いやー、モテモテだねぇ、エマヌエル君。鳥もストーカーしたくなる美貌って中々ないよ?』
『はり倒されたいか』
ウィルヘルムの茶々入れに、半ば本気で凄むと、彼は肩を窄めるようにして口を噤んだ。
『理由は』
『先刻、貴殿に言われたことを考えていたのだ。以前も今も、我々は誰かの命に何の疑問もなく従っていた。けれど、貴殿に言われた通り、それは私の意思ではない。「人間」というだけで、無関係の者を屠るのでは、それはただの殺戮だ』
『それで?』
『そのことに気付かせてくれた貴殿に恩返しがしたいと思って追ってきたのだ。空からだから、気付かなかっただろうが』
確かに気付かなかった。それは、空からだからというより、やはり気配を絶つことが習慣になっているスィンセティックだからだろう。
『後はあんたの好きにすりゃいいじゃねーか、って言いたいとこだけど、この際有り難いや。で、お兄様方はどこへ行かれるおつもりなんですかね』
ウィルヘルムの方を見ると、彼は答えを伺うようにアスラーに視線を向けた。
『……取り敢えず、レムエへ戻る。全てはそれからだ』
アスラーは、こんな化け鳥に手を借りるのは心底不本意だという顔をしていたが、足がないのも事実だった。苦渋の決断です、という表情を隠しもせず、絞り出すような低い声で唸るように言った。
『ってワケだから、コイツらちゃっちゃっとレムエまで乗っけて飛んでやってくれる?』
『その後は?』
『それこそ自分で考えてくれ。俺はあんたの上官じゃねぇからな』
『お前はどうするんだ』
ウィルヘルムが口を挟む。
『俺はここに残ってやるコトがある。そっちのおやっさんがうるせぇから詳しくは言わないけど』
『ま、まさか、我々だけでその鳥に乗れと!?』
意外にもアスラーが取り乱したように絶叫した。エマヌエルが言った『やるコト』よりも、そちらの方が彼には重要だったらしい。
エマヌエルは、ウィルヘルムと揃って目を丸くした後、おもむろにウィルヘルムに視線を向けた。
『何か、問題あるのか?』
『さあ?』
『しっ、信用できないぞ! 聞けば、その鳥もスィンセティックの……いや、今回の騒動を起こしたフィアスティックとやらの一味なんだろう! 空に上がった途端、地上に落とされるかも知れん!』
『……遂に本音吐きやがったな』
ウィルヘルムが殆ど目を点のようにしている横で、エマヌエルは軽蔑するように青の双眸を細めた。
『よーするに、ヒトの言葉を話すけど、話は通じない化け物だって言いたいんだな。俺も含めて』
『そうは言ってない! しかし、その鳥は……!』
『……その鳥は? 何?』
さっきまで敵だったんじゃないのか。何であっさり信用するんだ。
顔全体でそう言いながらも(この時になってエマヌエルは、こいつ意外に表情豊かなおっさんだったんだなと的外れな感心をしていた)、実際にそれを口に出したが最後、更に自分を不利な場所へ追いやることも解っていたらしい。
陸へ打ち上げられた魚よろしく口をパクパクさせていたが、最終的には押し黙ってしまった。
『話は纏まったかな』
そのタイミングを待っていたように、巨大鳥が口を開いた。
『纏まっちゃいないけど、納得はしたんじゃねぇか』
『だな。じゃあ、行くか。えーと……』
エマヌエルの言葉尻を引き取ったウィルヘルムが、言い淀んで巨大鳥の顔を見上げた。
『何かな』
『あー、悪い。お前、名前は?』
『FA1546だが』
『そいつは識別ナンバーだろ』
エマヌエルがやや眉根を顰めて言うと、FA1546と名乗った巨大鳥はこちらに視線を向けた。
『ヒトが呼び合うような名前は持っていないのでな』
『じゃあ、ディルクでどうだ』
『ディルク?』
『お前の名前だよ。イヤならまた考えてやる』
『いや、それでいい。貴殿の名は?』
『エマヌエルだ。こっちはウィルヘルム。で、向こうのオヤジがアスラー警部』
次から次へと起こる非常事態に、そろそろヒトとして年季の入り始めたアスラーだけがついて来られなかったようだった。呆然とする彼を半ば置き去りにする形で、エマヌエルとウィルヘルム、そしてたった今名を持った巨大鳥――ディルクの間だけで淡々と話は纏まってしまった。
しかし、尚も往生際悪くアスラーが騒いだので、結局一応の『保険』という形で、エマヌエルもレムエまで同行させられる羽目になったのだ(ディルクが『恩人』と見なすエマヌエルが一緒なら、途中で叩き落とされる心配もないだろうから、というのがアスラーの弁だった)。
レムエ支部のあるツァンガー・シティまで、リーフェンからおよそ千五百七十六キロの距離があったが、ディルクの飛行速度では一日あれば充分だった。
レムエ国内もその時、既にネット上の侵食は始まっており、支部はパニック状態だった。
しかし、そのパニックを納めるのを手伝う義務は、それこそエマヌエルにはない。こんな事態にも関わらず、エマヌエルをそのまま拘束したがるアスラーを振り切って、急ぎ取って返したのは言うまでもない。勿論、ディルクの背に乗せて貰って、である。
その後、ディルクは誰かに拾って欲しがる捨て犬のようにエマヌエルの後をついて回った。一度、別に自分に付き合う必要はないと言ったが、「私の好きにすればいいと言ったのは、貴殿だろう」と返されたので放置している。
本格的にセカンド・ラボでの活動を開始したのは、そういう訳で、リーフェン入りから二日も経ってからだった。
ウィルヘルムの持っていた小型パソコンごとデータを手に入れたエマヌエルは、セカンド・ラボに駐留していた裏研究スタッフを端から探して始末していった。と言っても、フィアスティックの反乱が起きてラボが瓦礫になった上、更に二日を無駄に費やした後だった所為か、街には正しく『後始末』と呼べる程の人数しか生き残っていなかった。
それでも、見逃す訳にはいかない。一人も逃さない。
仮設の救護所にまで潜り込んで脳に叩き込んだデータを頼りに一人一人確認していたら、セカンド・ラボのチェックをあらかた終えた頃には三ヶ月が経っていた。
***
おこした火が、乾いた音を立てて爆ぜる。
エマヌエルは、瓦礫の上に器用に寝そべったディルクの身体に凭れて、半壊した建物を見上げた。夜の帳が降りたその場所で、炎に下から照らされた建物は、まるでライトアップされているように見える。
エマヌエルがここを半壊させたのは、今からだとおよそ四ヶ月半ほど前のことだが、もう遙か遠い日の記憶のように思えた。隣には、泣き疲れたのか、ぼんやりとした表情のヴァルカがいる。空いた右隣には、昼間出会ったばかりの幼子が、エマヌエルにしがみつくようにして既に寝息を立てていた。
火の上に掛けたポットも、今ヴァルカが持っているブリキのカップも、建物の残骸から適当に探し出したものだ。
自分とヴァルカだけなら、食事は明日でも良かったし、暗がりでも見えるから火をおこす必要もなかった。ただ、見たところ、少女らしい幼子は普通の人間だ。暗いと心細いだろうし、腹も減っているだろう。残念ながら、固形の食べ物は見当たらなかったが、湯を沸かすことだけはできた。
お湯を飲んだだけでは腹は満たされないだろうに、少女は文句も言わずに飲み干し、やがてエマヌエルに抱き付いて眠りに落ちてしまった。名前は知らないが、この先面倒を見るつもりもないので構わない。
ヴァルカの話では、近くに防空壕のような隠れ場所があるらしいから、明るくなったら探して送り届けてやればいい。
この辺りの裏スタッフは皆、既にフィアスティックや彼らに従うヒューマノティック、ゴーレムによって殺されてしまっているだろうことは、想像に難くなかった。それでも、見落としがあってはならない。
確認の為にここまで戻って来たら、ゴーレムかヒューマノティックか、区別が付かないスィンセティックに囲まれたヴァルカと、この少女がいたのだ。
ヴァルカは相変わらずぼんやりしている。外からでは何を考えているのか解らないのは以前と変わらないが、今は所謂ポーカーフェイスのそれではない。放心状態と言った方が近いような気がした。
泣き腫らした瞼が、ひどく痛々しく見える。
『お願い、ラスを……ラスを、殺さないで』
泣き出しそうな顔でそう言った声が不意に蘇って、エマヌエルは彼女の横顔に向けていた視線を反らすように目を伏せた。
あんなに、必死な顔ができる女だったのだと、初めて知った。それも、彼女自身以外の人間の為に。
最終的には、あんなにも殺さないで欲しいとエマヌエルに向かって懇願していた、生きて欲しいと願っていたその相手を、彼女は自分の手で撃ち殺してしまった。他でもない、エマヌエルを助ける為に。
やり切れない。それが、正直な気持ちだった。
何かの枷が外れたように泣き叫ぶヴァルカを、その涙が止まるまで黙って抱き締めていた。そうすることしかできなかった。
あんなにも泣ける女だったのだということも、今日初めて知った。失礼な話だが、出会ってから今まで、ヴァルカのことを感情の揺れ動きなどない、無感動な女性だと思っていたのだ。
『……初恋の、男性だったの。多分』
ポツリと漏らした一言が、ひどく印象的だった。まるで懺悔するように、彼女が涙声でポツポツと語ったところによると、彼は裏研究班に所属していたスタッフだったという。
『でも、殺されたわ。研究所に』
その後、彼女は洗脳プログラムの搭載されたICチップ移植手術を経て、再調教に。彼の遺体は恐らく、ゴーレム蘇生手術へと回されたのだろうとヴァルカは言った。
「……ごめん」
またポツリと漏れた呟きが現実に紡がれた言葉であることに気付いて、エマヌエルは反射的に伏せていた目を上げた。
ヴァルカは相変わらずぼんやりしたような表情で視線を落としている。
「……みっともないもの、見られちゃったわね」
自嘲気味に落ちる声音はまだ涙の気配をはらんでいる気がして、エマヌエルは彼女の横顔から再び視線を反らした。
「あの女のコト、言えやしないわね。こっちの身が危ないのに何でわざわざ敵を庇うんだろうって思ってたけど……同じコトしてれば世話ないわ」
「……止めろよ、そういう言い方」
思わず口を挟む。
何を言えばいいのか分からなかった筈なのに、自虐的な独白は聞いていられなかった。
「だって、彼はとっくに死んでるのよ。だのに、彼の身体だからって……彼と同じ顔をしてるってだけで動けなくなるなんて……バカみたい。彼が生き返った訳じゃないのに」
「止めろって」
尚も自身を傷つけるような言葉を続けようとする彼女を止めようと、大きな声を出し掛けて息を呑む。確認するように慌てて落とした視線の先には、腕の中で眠る少女がいた。眠りを遮断され掛けた幼子は、むずかるように眉根を寄せたが、程なく再び夢の中へ戻ったようだった。
ホッと安堵の息を吐きながら、元通り目を伏せる。
「……仕方、ねぇだろ。感情があるんだから」
「……え?」
続けられた言葉が自分に向けられたものだと一瞬分からなかったらしく、ヴァルカの反応には僅かに間があった。
「理性で分かってたって感情がついていかないってコトがあるだろ。俺達は機械じゃないし、道具でもない」
研究者達が意図する通りの殺戮兵器でもない。今更『人間』だと言い張るつもりも、エマヌエル個人としては毛頭ないけれど、それでも。
「それに……もし、俺がソイツだったら」
視界の端で、ヴァルカが俯けていた視線をこちらへ向けたのが分かる。けれど、エマヌエルは目を伏せたままで続けた。
「勿論、俺はあんたの元彼じゃねぇし、ソイツの心全部が解るなんて言うつもりもねぇ。ソイツが生きてる間に会ったコトもねぇしな。けど、もし俺がソイツの立場なら多分……あんたに撃たれて良かったって思うだろうぜ」
「……良かった……?」
「死体になってまであちこち弄くり回されて感情も全部殺されて、それでも身体だけが殺人マシンとして人を殺してるんなら、誰かに止めて欲しい。止める方法が二度目の死しかないなら、そうして欲しいと思う。あいつらに良いように利用され続けるくらいならな。その時、止めを刺してくれる相手が生きてた頃大事に思ってた人間なら……本望なんじゃねぇか。上手く言えねぇけど」
ああ、本当に上手く言えない。
エマヌエルは、空いた方の掌で前髪を掻き上げる。かつて孤児院にいた頃も、決して言葉を上手く操れた方ではないけれど、研究所に引き取られて人とコミュニケーションを取らなかった所為か、口下手に磨きが掛かった気がする。
「……悪い。余計なコト……」
「……ホントよ、バカ」
またも鼻に掛かったような涙声が返って来て、エマヌエルはギョッとそちらへ目を向けた。
「……で、優しく、するのよっ……」
ヴァルカはこちらを見てはいなかったが、口元を押さえてボロボロと涙をこぼしていた。
「や、さしく、……いでよ……今、優しい、言葉、…たら、……たし、」
その言葉に甘える。あんたの腕に甘えて、あれで良かったんだと思ってしまう。自分を許してしまう。
嗚咽に途切れさせながら言うヴァルカの震える肩がひどく頼りなげで、エマヌエルは無意識に空いた手を伸ばしていた。
「エ、マ……?」
「答えなんか、出ないだろ」
唐突に抱き寄せられて目を丸くしているだろうヴァルカの顔を想像しながら、エマヌエルは耳元で呟く。
「そうやってあんたが自分を責め続けても、正解なんて判らない。あのままあいつが『生きて』動いていたって、その後『あいつ』が『あいつ』自身に戻る方法なんかなかったんじゃねぇのか」
言いながら、エマヌエルは自分がヴァルカの立場ならどうしただろうと考えていた。自分には、異性として意識した人間がまだいない。だから、例えばエレミヤがゴーレムとして改造されて自分に刃を向けたら、と思ってみる。
生まれる前から一緒にいた、双子の姉。彼女と別れて、もう随分経つ。
久し振りに会う彼女が、ガラス玉のような目をして人を殺し、自分を殺そうと向かって来たら、恐らく必死で呼び掛けるだろう。正気に戻ってくれ、と。そんな手段がないのが判り切っていたとしても、自分の手で殺すことなんかできやしないのだから。
挙げ句どうなるかは、エマヌエルにも判らなかった。
今回、ヴァルカがあのゴーレムとなった初恋の相手を彼女自身の手で撃ったのは、偶発的に起きたことに過ぎない。もし、あの場に自分がいなかったら、彼女の方が死ぬことになったかも知れない。若しくは、自分が彼を殺していたら、ヴァルカの憎しみは彼女自身ではなく、エマヌエルに向いただろうか。
堂々巡りだ。仮定してもしなくても、答えなど出ない。少なくとも、これが絶対に正しい答えだというそれは。
「……悪い。責めてる訳じゃないんだ。そんな権利も、俺にはないし……忘れろとも言えない。ただ……」
ただ――何だろう。何を言おうとしているのだろう。とにかく、彼女に泣いて欲しくなくて、自分を責めて欲しくなくて。
何か言わなければならないのに、口に出せばどんな台詞も空々しく響きそうで。
「……ごめん」
何に対する謝罪なのか、判らない言葉だけが落ちる。
ヴァルカは息を詰めるような声を漏らした。何かを言おうとしたのかも知れない。けれど、結局何を言うでもなく、ただ静かに首を振った。