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CODE;6 Sprinkle of rain

 その日、鉛色の空は今にも泣き出しそうな色をしていた。しかし、滴を落としてくることはなかった。あくまでも、『今のところは』という注釈が付くが。

 無感動にその場に座しているサイラスの隣で、ヴァルカもやはり無表情で膝を抱えていた。

 臀部の下には瓦礫があって、お世辞にも座り心地はいいとは言えない。だが、ヴァルカは気にしなかった。サイラスの方はどう思っているかまでは、推し量ることはできなかったけれど。

 背後にあるのは、今思えばこの件の発端であったと錯覚するような、一番最初の爆破事件のあった建物だった。

 目の前には、荒涼とした景色が広がっている。

 普通の人間の視力なら、瓦礫の灰色と、鉄錆びた赤茶色と、何か別の色が混然一体となって見えただけだろう。けれども、ヴァルカの改造された視界には、人体の一部がその辺りに放置されているのまでがしっかりと見えてしまう。

 北の果てとは言え、もう四月の初旬ともなれば、他の地域よりも一足遅い春がやってくる。加えてこの数日、珍しく暖かい日が続いた所為か、辺りには異臭が立ち込め始めていた。

 フォトン・シェルに狙われれば、普通遺体は残らないものだが、稀に身体の一部が残ってしまったりする。その残った遺体が、異臭の発生源だ。

 三ヶ月前のあの日、何者かの指令を受けたというヒューマノティックとゴーレムの群を縫って、どうにか彼を捜し出した。

 しかし、予想した通り、彼はヴァルカに他人の視線――というより、無機質な、ヒトと思えない視線を向けるばかりで、生前の記憶は本当に全くないようだった。

 もう三ヶ月、誰とも口をきいていないような気がする。

 実際のところ、ヴァルカは誰とも会話をしていなかった。

 最初の内は、サイラスには話し掛けていたのだ。

 ヴァルカのことを、サイラス自身のことを何か覚えていないか。どうしてサイラスはゴーレムになり果ててしまったのか。

 けれど、彼は答えなかった。

 そこで、多少なり人間らしい感情の動きのようなものがあれば、こちらが問うことに対して、何らかの反応がある筈だった。それが、例え否定的なものであってもだ。

 ところが、今のサイラスは見事に無反応だった。まるで空気か、何もない空間を相手にしているような感覚だった。

 それでも離れ難くて、今まで彼と行動を共にしてきた。

 と言っても、ファースト・ラボのあったフロリアン周辺は、フィアスティックが主導する蜂起の後、殆どすぐに制圧されてしまった。この周辺にいるスィンセティックに命ぜられたのは、恐らく『現場待機』だと思われた。ヴァルカには、脳内のICチップを通して届くと言われる『指令』は全く聞こえないので、周囲の様子からそう判断しただけだが。

 読んで字の如く、その場に待機していろという命令には、人間を見たらすぐさま処分しろという意味も含まれているのか、迷い込んで来た研究所のスタッフが、フォトン・シェルで消し飛ばされるのを幾度か目撃した。

 助けることはできなかった。

 できれば、裏のことを知らない職員は殺さずに置きたかったが、ヴァルカが庇おうとすれば、きっと矛先は自分に向いただろう。今この場にいるスィンセティック達全てを敵に回して生き延びる自信は、流石になかった。

(まだ、何も終わってない)

 異臭の中で膝を抱えながら、ヴァルカは唇を噛み締める。

 この一帯にいただろう、全てのスタッフは、裏も表もなく殆どスィンセティックの手に掛かって死んでしまった。けれど、それで終わった訳ではないのだ。

 少なくとも、ヴァルカにとっては。

(まだ、死ねない)

 自分が生き延びる為に、敢えて目を伏せ、耳を塞いだ。

 全てが終わるまで、犬死にのように終わる訳にはいかない。迂闊にこの人数のスィンセティックを相手にしては、命を懸けることになる。裏とも表とも分からない人間の為に、そんなことはできなかった。

 サイラス達に命令している『指令塔』がどこの誰なのか、ヴァルカには未だに分からなかった。しかし、その命令に忠実に従っている所為か、サイラスも他のスィンセティック達も、その場に座したまま、微動だにせず、ただ一日一日を過ごしている。

 ヴァルカだけはエネルギー補給をしない訳にいかなかったので、空腹の限界である一週間に一度は、研究所の跡地を漁って、食べ物を口に入れていた。最初は、サイラスの傍を離れるのが不安で、答えはないと解っていても離れる度に「ここにいてよ。動かないでね」と念を押したものだったが、その内それも必要ないことだと悟った。

 次に、何かの『一斉命令』が下るまで、サイラスを含むこの地域一帯にいるスィンセティック達は、死んでも動くまい。ただ、サイラスを含むゴーレム達は既に死した身体で、特殊な防腐処理以外にエネルギー補給等は必要ない。いくら操られた状態とは言え、生きた人間がベースとなっているヒューマノティックならどうしても人間と同じように生命活動維持の為、栄養摂取やそれに付随する行動が必要になる。自分以外にそういった用足しに動く者が見当たらないところを見ると、この周辺にいるのは皆ゴーレムなのだろう。

 所持したままの携帯端末には、やはりあの日から誰からも何の連絡もなかった。

 このような状況になっては、通信回線も何らかの影響を受けているだろうことは、ヴァルカにも解っていた。けれど、万が一、今CUIOから帰還要請があったとしても、ヴァルカは聞く気はなかった。

 何を置いても、自分には報復が中心だと思っていた。サイラスが殺された時から、ずっとそうだった。目の前で死んでいく、およそ自分の報復とは関わりない人間を見殺しにしてまで生きようとするからには、今後も止めるつもりはないと断言できる。

 それなのに、今は生きる意味である筈の『報復』を脇へ置いてまで、かつて想いを寄せていた男性の傍を離れられずにいるのだ。彼が、既に『彼』自身でないことも充分に解っているのに、それでも離れることができない。

(……これじゃ、あの女を笑えないわね)

 覚えず、自嘲の笑みが漏れる。

 ふと思い出したのは、乳白色の髪と、アメジストの瞳を持った、あの女性だった。確か、ファラン=ザクサー。そういう名前だった筈だ。

 愛する男をひたすら救おうと、こちらの言い分は聞かず髪を振り乱す勢いで命乞いをしていたのを思い出す。

 あの時は、ただバカな女だとしか思えなかった。

 あの男を含む裏スタッフに自分達がどんな目に遭わされたか、できることなら端から挙げてやりたいと思うほどに、彼女の行動は鬱陶しいものでしかなかった。

 けれども、今になればほんの少し、彼女の気持ちも解るような気がした。

 勿論、同情はできない。

 あの男が許されざることをやらかしたのは、紛れもない事実なのだから。けれど、想い寄せる男性と添い遂げたい、できることなら永遠に傍にいたいと願う気持ちだけは、本当に悔しいが今は理解できてしまう。

 あの時は既に死んだものと思っていた彼が、今こうして目の前にいる。もっとも、サイラスの場合、『生きている』とは言い難いが、彼の意思で動いているのを見ると、何かの拍子に自分を取り戻してくれるのじゃないかと思ってしまうのはどうしようもなかった。

(バカみたい)

 夢物語を信じるような子供時代もなかったというのに、今この場で自分が願っているのは、正しく下らない『夢物語』だ。

 はあ、と溜息が漏れた、その時だった。

(……何?)

 何かが、聞こえた気がした。

 泣き声だろうか。

 また誰か、フラフラと隠れ場所から彷徨(さまよ)い出てきたところを見つかったのだろう。大人しく隠れていればいいものをと思う一方で、食料が尽きれば出てくるしかないのだろうとも思う。

 そう考えるともなしに考えていても、もう助けに動こうとは思えなかった。

 三ヶ月も誰ともまともに会話していない日々が続いて、頭の奥が麻痺しているような気がする。

 それでも、長年の習慣からか、声の聞こえた方角に視線を動かしてしまう。何か聞こえて、それを確認しなかったら、即命に関わることもあるからだ。

 瞬間、ヴァルカはその深紅の瞳を見開いた。反射的に立ち上がる。もうこの三ヶ月で耳慣れてしまった金属音と見慣れた青白い筋を腕に纏い付かせた一体のゴーレムが、その先に標的として見据えていたのは、本当に幼い子供だった。

 傍には誰もいない。親がいたとしても、フォトン・シェルをまともに浴びたのだろう。

 親が庇ったのだとしても普通は親ごとフォトン・シェルに呑み込まれるのがオチだ。運がいいのか悪いのか、取り残されてしまったらしい。

 見た目、二、三歳だろうか。ノエル――最初の交配相手との間に産んだ自分の子が、会ったこともないけれど、もし生きていればちょうど今あのくらいにはなっている筈だ。冷静に考えればバカげた幻想だったが、覚えず自分の子がそこで泣いているような錯覚に囚われる。

 その錯覚に導かれるまま、駆け出したい衝動をすんでで堪えた。

 飛び出していって、今攻撃態勢にあるゴーレムを倒すことはできるだろう。でも、その後は?

(そうよ、下手したらあの子と一緒に吹っ飛ばされるだけ)

 せめて、フォトン・シェル内蔵型ならまだ互角に戦う、もしくは振り切って逃げることはできるかも知れない。けれど、自分の体内にフォトン・シェル製造装置はない。一対一ならどうにかできるが、この数――ざっと見積もっても百体以上はいる――を相手に、しかもあの子供を連れて振り切れる自信は全くない。

 グズグズと躊躇う内に、攻撃態勢に入っているゴーレムの掌の中で、徐々に青白い光弾は大きさを増していく。

 いつも通り目を閉じて耳を塞げばいい。一、二秒で、あの子供も塵も残さずこの世から消えるのだ。自分が助けて永らえてもそうなる確率が高いなら、自分が死ぬ危険を冒す必要はない。

 しかし、必死に理性で言い聞かせても、感情が言うことを聞きそうになかった。

 ここで見過ごせば、確かに自分は生き延びられるだろう。でも、それだけだ。

 肉体が生き延びる為に、このまま意思を殺し続けるのか?

 拘束されていないだけで、これでは研究所にいた時と変わりはないではないか。

『お前達は、機械じゃない』

 不意に、何かが脳裏を貫いた。

 弾かれたように、自分の足下に座ったままの彼を見下ろすと、何故か彼も自分をじっと見上げていた。

 一瞬、彼が彼自身の自我を取り戻してくれたのだと思った。けれど、それはすぐに勘違いだと気付いた。

『お前は人間だ』

 ガラス玉のような虚ろな目をした彼が、何か言ってくれた訳ではない。それは、ヴァルカ自身の回想に過ぎなかった。

 けれども確かに、彼が『彼』だった最後の瞬間、ヴァルカに遺してくれた言葉だ。

『誰の道具になる必要もない。お前にはお前の意思がある』

 ギリ、と爪が食い込むほどに拳を握り締める。

(……あたしにはあたしの意思がある)

 今は見つめ合っている筈なのに、その藍紫の瞳はヴァルカという個人を見ている訳ではないのが、イヤでも解る。それこそが、もう目の前にいるのが『彼』の姿形をした別人であることの証明だった。

 もし、目の前の『彼』が元の彼ならば、ヴァルカが躊躇う間に子供を助けに走っているだろう。

 そんな元の『彼』からは想像もつかないような無機質な瞳に見つめ返されて、何故か冷えたものが背筋を走ったように思えた。ジリ、と無意識に後退さると、サイラスが不意に中腰になる。おもむろに斜め三十度ほどの位置に持ち上げた右腕に、青白い筋が走った。

「あの人間の――『敵』の『処刑』を邪魔するのなら、例え同胞でも許さないぞ。S9910」

 平板な、『元』人間であったとは思えない温度の音が、彼と同じ声が信じられない台詞を刻む。

 ヴァルカは、一瞬苦痛に顔を歪ませて、唇を噛み締める。

 あの時、自らを犠牲にしても尚、ヴァルカを助けようとしてくれた――ヴァルカの心を守ろうとしてくれた彼は、やはり永久に死んでしまったのだと、納得せざるを得なかった。

(もう……あんたが『あんた』に戻る可能性は本当にないってコトね)

 胸の内で、言い聞かせるように問い掛ける。現実に問い掛けても、会話が成立するとは思えなかった。

 それが、紛れもない答えだった。

(違う……最初から知ってたわ)

 だって、あの言葉を――大切なあの言葉をくれたあんたは、三年も前にこの腕の中で死んだんだもの。死んだ人間が生き返るなんて、それこそ夢物語みたいな話、現実には有り得ない。

 姿形が同じだという、ただそれだけの理由で惑わされ、踏ん切りを付けるのに三ヶ月も掛かってしまった。

(ホントに……あの女のコトを笑えやしないわね)

 尚残る僅かな未練を振り切るように、ゴーレムと子供の方へ改めて瞬時視線を投げる。もうフォトン・シェル発射まで間がない。

 ここからゴーレムまでは、目算五十メートル前後。拳銃の有効射程としてはギリギリだが、あのゴーレムの気を反らすくらいは可能だろう。

 ただ、問題は、目の前の彼がそれを許してくれるかどうかだ。いや、恐らく黙って見ていてはくれまい。ならば、目の前の彼から片付けるしかない。

 もう、目の前にいるのは『サイラス』ではない。

 解っている。イヤというほど理解している。それなのに、今度は選りによって、自分の手で『彼』を撃ち殺そうとしているような錯覚に陥ってしまう。

 勝負は一瞬、機会は一度きりだ。

 脇下に吊ったホルスターから銃を抜いた後、どちらに向けて構えるかを迷っている暇はない。まず、サイラスに向けて一発。そのままの動きで、子供に向けてフォトン・シェルを撃とうとしているゴーレムの頭部に照準を合わせて、引き金を引く。それがベストだ。

 けれど、どうしてもサイラスに向けて銃弾を撃ち出す決心がつかない。

(イヤだっ……!)

 サイラスを撃つ。思っただけで、心がそれを全力で拒絶した。

 視界が揺れる。まるで、心の有り(よう)のように。

 現在の現実と、過去が交錯する。

 たった今、すぐそこで罪もない子供が殺されようとしてるという現実は、もうヴァルカの頭にはなかった。

 ――何で、ラスを撃たなきゃならないの?

 そうよ、どうしてラスを殺す必要があるの。

 何の為に?

 ここにいるのは、ラスよ。あの時死んだ筈なのに、生きていたのよ。

 口をきいてくれないけど、答えてくれないけど、今は忘れてしまっただけ。すぐに答えてくれるわ。あの頃みたいに。

「名を、呼んでくれるでしょ……?」

 手を伸ばす。すると、彼も手を伸ばし返してくれるような気がした。

『ヴァルカ』

 名を、呼んでくれた気がした。

 藍紫の瞳が笑ってくれる。全て幻想でしかないのに、ヴァルカにはもう現実との区別が付かなくなっていた。

「ラス……!!」

 手を伸ばす。彼を抱き締めようとしたその時、地面が揺れて、背後で轟音が爆ぜた。

「あっ……!?」

 しまった、と思った時には遅かった。

(あの子は……!?)

 ようやく現実に返って後ろへもう一度視線を向けた時、そこにはフォトン・シェルが破裂した時特有の、青白い煙が残っているだけだった。

 救えた筈の小さな命が、自分の詰まらない迷いが原因で消えたことに、猛烈な悔恨が押し寄せる。過去に意識を侵されるなんて、経験したことのない失態だ。これが、見も知らぬ他人だったからまだいいものの――などと考え出す自分に吐き気がする。

 耳に馴染んだ、懐かしい声音が耳に滑り込んで来たのは、今度こそ混乱に支配されそうになった瞬間だった。

「あんた、こんなトコで何やってんだ?」

「え……?」

 目を瞬く。煙の残滓の中にいたのは、先刻のゴーレムではなかった。

 無造作に纏められた漆黒が揺れて、深い青の双眸がこちらを振り向く。華奢な体躯には、黒の上着と黒いボトムを纏っており、その腕にはあの幼子が抱かれていた。

「あ……あ、あんたこそ、何でここに」

 そこにいたのは、紛れもなくエマヌエル=アルバ、その人だった。彼の背後には、既に誰もいない。

 爆発は、彼が放ったフォトン・シェルによるものだったらしい。

「色々あったんだよ! それより、今はゆっくりだべってる場合じゃなさそうだぜ」

「お前は何者だ」

 変わらぬぶっきらぼうな口調でエマヌエルが投げ出すように言った直後、背後から平板な声が彼とヴァルカの間に割って入った。

「お前が今腕に持っている者は、我らの敵だ。敵の処刑を邪魔するのなら、お前も排除する」

「面白ぇこと言うな。やってみろよ」

「ちょ、ちょっとエマ!」

 元々喧嘩っ早い気性だと解っていた(この辺り、ヴァルカも人のことは言えない)が、相手がアスラーでないと、かなり露骨だ。売られた喧嘩は全部お買い上げする勢いのエマヌエルに、ヴァルカは慌てて待ったを掛ける。

「何だよ。お話し合いが通じる相手なのか?」

「そうじゃないけど……」

 その子を抱いたまま戦う気か、というのはもうヴァルカにとって口実でしかない。じゃあ頼む、などと言われたらそれで終わりだ。

「何を迷ってるのか知らねぇけど、戦う気がないならコイツ連れて離れてろ。邪魔だ」

 案の定の言葉を、エマヌエルはサイラスにヒタと視線を据えたまま投げ寄越す。

 その対応は、恐らく正しい。少しでも隙を見せたらサイラスだけでなく、周囲にいるゴーレム達が束になって掛かって来るだろう。

 エマヌエルは油断なく身構えながら、腕に抱いていた幼子を、ヴァルカに押し付ける。惰性で抱き取った幼子は、既に泣き疲れたのか、事態に頭がついていかないのか、その瞳一杯に溜まった涙を溢れさせながら、今はもう時折しゃくり上げているだけだった。

「待って、エマ! 彼をっ……!」

 ラスを殺さないで。

 喉まで出掛かった台詞は、理性との葛藤に阻まれて音にならない。今この場で最も言ってはいけないことだと、ヴァルカにもよく解っていた。

 けれど、言わずにはおれなかった。彼は最早『彼』ではない。そうと頭で納得していても、心が従いて来なかった。ヴァルカにとっては、やはり『サイラス』自身としか認識できないのだ。

「お願い、ラスを……ラスを、殺さないで」

「下らないコト言うなら、どっかに消えてろ!」

 苛立ちと共に叩き付けられた厳しい言葉に、ヴァルカはビクリと身体を震わせた。

「あんたがあんたの詰まらねぇ迷いで死ぬのは勝手だ。けど、そこに俺を巻き込むのは止めてくれよな。そのガキだって、巻き込まれ掛けた一人だろうが」

 唇を噛み締める。何も言い返せない。

 エマヌエルの言うことが、いちいちその通りだったからだ。

「そいつ寄越しな」

「え」

「あんたに抱かせといたらまた下らない葛藤でそいつが死に掛けるだろうからな。危なっかしくて任せておけねぇ」

 乱暴に子供を抱き取るなり、エマヌエルは自分からゴーレムの群に突っ込んだ。

(嘘!)

 いくら何でも無茶苦茶だ。

 大抵のことには動じないヴァルカも、流石に息を呑んだ。

 エマヌエル一人ならともかく、あの数――エマヌエルが最初にフォトン・シェルで薙払ったことで半分近く減ってはいたが、それでも五十体はいる――のゴーレムを相手に、子供を抱えて突っ込むなど、無茶苦茶にも程がある。

 しかし、身構えたゴーレムの群の寸前で、エマヌエルは急停止した。その足には、青白い光が弾けるように踊っている。

「――ディルク!」

 どこへともなく叫んだエマヌエルは、フォトン・エネルギーで蹴りの威力を増した足で、思い切り地を蹴った。

 常でも超人的な跳躍力が格段に倍加され、エマヌエルの小柄な身体が宙に舞う。その先に、大きな影が滑空してくるのが見えた。いや、影ではない。

(飛行機……?)

 翼を広げて空を飛ぶ姿は、影だけしか見えないと飛行機としか思えなかった。

 エマヌエルは、その黒い影に吸い込まれるように一瞬姿を消す。やがて舞い降りて来た彼の腕には、もう子供は抱かれていなかった。自由になった両手に、青白い閃光が跳ねる。

 透明にも思える金属音が、エマヌエルの発するものか、周囲のゴーレムが発しているものか判らなくなる。

 ゴーレム達が集まる中心に落下してくるエマヌエルに向けて、ゴーレムがフォトン・シェルを一斉射撃しようと構えたその時、激しい風が吹き荒れて、ゴーレム達の動きを封じた。ヴァルカも目を腕で庇うようにして身体を硬くする。その風に、どこか既視感を覚えながら、どうにか目の前で起きていることを把握しようと試みた。

 スィンセティック同士の戦いだと、気配で相手の動きを読むことができない。ここは既に戦場だ。目を閉じていては、一瞬で命を絶たれてしまう。

 フォトン・シェル特有の青白い閃光が、視界を灼いて破裂する。身体の芯に響くような爆音と共に、世界が消し飛ぶ錯覚に襲われた。

 ゴーレム達が根こそぎフォトン・シェルで消滅した後に、エマヌエルだけがゆっくりと立ち上がるのが見えた。

 頭の中が真っ白になる。

(ラス……ラスは!?)

 もう今の『サイラス』はサイラスでないと納得した筈なのに、それでも捜してしまう。

 このまま『生きて』いれば、いずれ思い出してくれるのではないかと、だからこそ生きていて欲しいと――。

「ラス……!」

 走らせた視線の先に、影が動いたように見えた。

 エマヌエルは気付いていない。スィンセティック同士の戦いでは、相手を視認できなければそれは即死に繋がる。

 爆発の直前に起きた強風で、何体かのゴーレムが崩れた建物の陰に吹き飛ばされて無事だったらしい。反射的に銃を抜く。けれど、躊躇した思考に従った指先は、引き金に掛かったまま動かせなかった。

 ゴーレムが足を踏み出す微かな音に、エマヌエルが振り向く。

 瞬間、建物の陰からフォトン・シェルが撃ち出された。

 エマヌエルが舌打ちと共に、横っ飛びにそれを避ける。だが、それを見越していたのだろう。エマヌエルが地を蹴るのと同時に、建物の陰に潜んでいたゴーレムがそこから飛び出した。

 エマヌエルの腕に青白い筋が跳ねる。しかし、間に合わない。その腕でそのままゴーレムが殴り掛かって来るのを受け止めるが、勢いを殺し切れず弾き飛ばされた。

「あ……!」

 少年の小柄な身体が、瓦礫に思う様叩き付けられる。間髪入れずにその上に馬乗りに圧し掛かったゴーレムの腕に青白い筋が走った。

 だが、エマヌエルもされるままになってはいない。自身の腕にフォトン・エネルギーを纏ったまま、自分の喉を絞め上げるゴーレムの腕を掴んで、引き剥がす。フォトン・エネルギーによって増した握力は、勢いそのままゴーレムの腕を分断した。

 拘束が緩んだ隙を逃さず、エマヌエルが両手を首の脇へ突いて後転し、ゴーレムと自分の体勢を入れ替える。逆にゴーレムに馬乗りになったエマヌエルは、ゴーレムの首を絞め上げながらフォトン・シェルを発動させた。

 小規模な爆発と共に、ゴーレムの首と胴が離れる。そうしてエマヌエルが一人の相手に集中した隙を、他のゴーレム達が逃してくれる筈がない。彼が顔を上げた時、残り四体のゴーレムは既にそれぞれがエマヌエルに向けてフォトン・シェルを放っていた。

 エマヌエルが地を蹴る。標的を失ったフォトン・シェル同士がぶつかり合って破裂する。エマヌエルの身体が、再び宙に舞い、腕に青白い筋が纏わり付く。だが、それはゴーレム達も同様だった。

 相手を殺すつもりで放たれる四体分のフォトン・シェルと競り合ったら、恐らく負ける。

 あの中にサイラスが混ざっている気遣いがなければ、今この瞬間、ヴァルカは迷うことなく引き金を引いていただろう。四体くらいなら、早撃ちで仕留めるのはさして難しくない。けれども、ヴァルカの位置からでは、サイラスがいたとしても見分けられない。ゴーレムもヒューマノティックも、今の今まで研究所に拘束されていた者は、等しく頭部は丸刈りにされている。後ろか横から、しかも瞬時に個人を見分けるのは容易ではない。

 エマヌエル曰くの『詰まらない迷い』に阻まれ、躊躇っている内に、エマヌエルとゴーレム達の放ったフォトン・シェルが衝突した。

「きゃあああ!」

 爆風に薙ぎ倒され、更に数メートル地面の上を転がる。エマヌエルの方のフォトン・シェルが競り負けたのか、それとも相殺したのかは判らない。

「エマ……!?」

 もうもうと砂煙が立ち上り、視界は最悪だった。これでは生きていたとしても、攻撃を仕掛けることができない。

(嘘でしょ……)

 彼が、死ぬ? そんなの有り得ない。

 サイラスをもう一度死なせるのも嫌だが、エマヌエルを死なせるのも同じくらい御免だ。上半身を起こすために突いた掌で、地面を握り締めるように爪を立てる。

 どうしてこんなにどっちつかずなのだろう。

 自分がこんな女だったなんて、知らなかった。知らないでいたかった。

 ゴーレムとなってしまったサイラスが目の前に現れなければ――と考え始める自分の思考が煩わしい。責任転嫁もいいところだ。サイラスはもう死んだのだと割り切れない自分を殴り倒したい。

 けれど、例え殴り倒されたところで踏ん切りはつかないだろう。

 自分がどうしたいのか判らなくて動けない。こんなことは初めてだった。多分、生まれて初めてだと思う。

 サイラスを――自覚はなかったが初恋の相手を、目の前で撃ち殺された時、心底裏の研究に関わる人間が憎かった。

 自分さえ、実験体に過ぎないと悟って、この研究に関わる全てをこの能力で滅ぼしてやると誓った。その障害になるなら、誰を何人殺しても後悔しないと思った。

 それだけを思って、真っ直ぐ走って来た。報復しか見えない筈だった。

 その道の途中へ飛び込んで来た、自分と同じ目的を持つ、そして自分にない能力を与えられた同胞。協力し合える、というのは詭弁で、その能力を自分の目的の為に利用するつもりだった。彼だって、目的は同じなのだから、こちらがどういうつもりでいたとしても構うまい。

 しかし、接する内に同族意識がどんどん強まっているのに、ヴァルカ自身気付かなかった。自分にとって、彼はいつの間にこんなに掛け替えのない相手になっていたのだろうか。

 恋情とは違う。けれどもそれと錯覚するほどに失いたくない、そんな存在。

 あの時、サイラスと一緒に感情も殺されていればよかった。そうしたら、きっと何も考えずに済んだのに。

(考えたくない)

 もう何も考えたくない。逃げ出したい。

 その思いのままに、きつく目を閉じる。

 決着が付くまで、放っておいて欲しい。誰か――誰か。誰でもいい。止めさせて。あの二人を失わずに済むように――

「そのまま動かぬ気か?」

 不意に降って来た声に、ヴァルカは目を見開いた。

 顔を上げると、そこにいたのは、三ヶ月前のフィアスティックの反乱が起きた日に出会ったあの巨大鳥だった。その足下には、あの幼子が、しがみつくように座っている。

「あ……あんた……」

「そなたには自分の意思がないのか」

「なっ……!」

 反射で頭に血が上った。何の筋合いがあって、たかが鳥ごときにそんなことを言われなくてはならないのか。

「そんな訳ないでしょ!? 意思がなかったら、とっくの昔にあいつらに大人しく服従してたわ! そうしたら、今頃はあんた達のいい奴隷にでもなってたわよ!!」

「ならば、何故そなたは動かない?」

 痛いところを突かれて、言葉を詰まらせる。

「エマヌエルは、そなたの仲間ではないのか? 何故助けに動かない? それとも見殺しにできるような、軽い間柄か?」

「違う……」

 言い返す声には覇気がない。

 違う、そうじゃない。でも、あのゴーレム達の中に、もしかしたら殺したくないヒトがいるかも知れない。

 けれど、そんな複雑な事情を話しても、この巨大鳥に解る訳がない。いや、エマヌエルにだって解っては貰えないだろう。何せ自分でも、どうしてこんなにサイラスに(こだわ)っているのかが解らないのだから。

「どっちにしろ、あんたには関係ないわよ」

「そうだな。関係ない」

「じゃあ、何であたしに構うのよ!」

 苦し紛れの弱々しい反論をあっさり肯定されて、あっという間に感情が沸点を超える。

「別に構いたくて構っている訳ではない。暇にしているのならこの子供を預けたいと思ったのだが、無理そうだな」

「暇にって……!」

 本人(鳥?)はそんなつもりはないのだろうが、それはヴァルカには強烈な皮肉に聞こえた。

「エマヌエルは、そなたに預けておいたらこの子供が死ぬと言った。そなたがヒューマノティックなら心配ないと思ったのだが、精神状態がまずいのだな」

「うるさいわよ」

「それは済まない」

「済まないと思ってないでしょ!」

「何故そう思う?」

「何故って……」

 誰かこの鳥を黙らせろ。瞬時にそう思ったが、自分でやらなければその願いは叶いそうにない。

 皮肉のつもりがない静かな言葉というのは、何故にこうも腹が立つのか。そもそも、何故この鳥と、延々果ての見えない問答を繰り広げなければならなくなったのか。

「どんな迷いがあるかは、私は知らない。知る気もない。だが、ここは戦場だ。悩んで動けぬのなら、ここから離れた方がよいぞ」

 言うなり、巨大鳥はその翼を広げ、足下に子供を纏わりつかせたまま空へ舞い上がった。吹き荒れる強風に、ヴァルカは身を縮めて小さな嵐の止むのを待つ。

 そうして身体に力が入るのとは別に、四つん這いに俯きながら唇を噛み締めた。

 あの鳥の言うことが、いちいちもっともだったからだ。

『悩んで動けぬのなら』

 ――動けないのなら。どちらにも加勢できないのなら。

(ここにいても、役に立たない)

 なら、ここを離れる?

 言われる通り、いてもいなくても同じなら。

(……嫌よ、そんなの)

 どちらかが殺されるのを、知らん顔で待っているなんて。

(あたしが死ぬより御免だ)

 迷いに心細げな色をしていた深紅の瞳に光が戻る。

 何をすればいいのかは、まだ判らない。どちらも失いたくない気持ちも変わらない。けれど、決定を他の要素に委ねてしまうよりは、この場に留まり自分の気持ちにケリを着ける方が余程いい。

 顔を上げる。しっかりと前を見据える。銃のスライドを引く手に、もう迷いはなかった。


***


「っくぅ……!」

 思うより上空に押し上げられて、息が詰まりそうになる。

 一対四のフォトン・シェル対決。

 絶対的に不利で、実際この場で死ぬかと思った。

 けれど、それらのフォトン・シェルが衝突し、破裂した瞬間、まだ中空にいたエマヌエルは爆風に煽られて更に上へと舞い上がってしまった。

 それでも強引に身体を捻って、下に視線を投げる。爆発に巻き込まれずに済んだのは運が良かったが、眼下は青白い煙がもうもうと立ち上り、視界がまるで利かなくなっている。このままゴーレムの密集地に降りる羽目になってしまったら――

 けれど、その心配は程なく杞憂に終わった。

「エマヌエル!」

 足下に絶妙のタイミングで滑空してきた巨大な鳥型フィアスティック――ディルクが、その背にエマヌエルを受け止めたからだ。

「大丈夫か」

「ああ、悪い」

 足場を得て、改めて地上を見下ろす。徐々に厄介な煙幕は収まりつつあった。

「ガキは?」

「変わらず足元に掴まっている。年の割に中々肝が据わった子供だ」

「でも、もう長くは持たねぇだろうな」

 ディルクの背中から覗き込むように彼の足下を見遣ると、幼子は必死な様子で彼の足にしがみついていた。しかし、煙幕が収まるよりも、幼子が墜落する方が早そうだ。

「長くは持たないのは私もだ。そろそろ足が引きつりそうでな」

 言われてみれば、普通空中にいる鳥は、足は後ろに伸ばすものだ。それが、今のディルクは、幼子を足首に乗せている為に、その足をピンと前に伸ばしている。

「せめて、煙が収まればな……」

「解った。さっきの要領で煙を飛ばそう」

「頼む。おい、ガキ。死にたくなかったらしっかり掴まってろよ」

 幼子は、チラとこちらを見上げようとしてバランスを崩しかけ、また慌ててディルクの足首にしがみつき直す。それを確認すると、ディルクは、幼子を落とさないよう注意しながら滑るように降下を始めた。

 地面より五メートルほど上空で翼を一振りすると、煙幕が自ら逃げるように吹き飛ぶ。急に起こった風に踏ん張るように身を屈めている四体のゴーレムの姿が露わになった。

「上出来」

 エマヌエルは、不敵に唇の端を吊り上げると、ディルクの背を蹴った。

「飛んでくれ」

「大丈夫か?」

「ああ!」

 返事をしながら、エマヌエルは両腕に意識を集中させる。青白い筋が走って、纏わりつくように腕を跳ね飛んだ。透明な金属音と共に、掌の中でエネルギー弾が肥大していく。

 その音に、四体のゴーレムが顔を振り向けるが、既に遅い。

 フォトン・シェルが充分な大きさになるのを見計らって、両掌に発生させたそれを合わせて放つ。エマヌエルの掌からいくらも離れない内に四散した青白い光弾は、ピンポイントで四体のゴーレム目掛けて疾駆した。


***


 五十メートル程先で起こるだろう爆発と爆風に身構える。直後、風が吹き抜けて、細かい土埃がヴァルカの肌を叩いた。

 眇めた視線の先で、四つの煙が柱状になって上がっている。そこと、ヴァルカの立っている場所との丁度中間地点辺りに、エマヌエルが着地した。

 終わった、のだろうか。

 結局、自分では何一つできなかった。できないまま、サイラスを逝かせてしまった。

 そのことを、後悔しているのかどうか、ヴァルカにはやはり判らなかった。その一方で、エマヌエルを失わずに済んだことに、安堵している自分がいることも確かだった。

 自分の視線を感じたのか、ふとエマヌエルがこちらを振り向く。深い青色をした双眸からは、どんな感情も読み取ることはできない。ただ、静かな色を湛えているだけだ。

 変わってしまうのだろうか。自分達の関係は。変わるのを恐れる程深い関係を築いてはいないが、それでも変わってしまうとしたら、どこが寂しい気がした。

 何か言わなくては、と思う。何を言えばいいのかは判らなかったが、エマヌエルの名の形に唇を開き掛けた、その時だった。

 エマヌエルの背後に土煙が破裂するように上がる。

「なっ……!?」

 エマヌエルが目を見開く。

 ヴァルカも息を呑んだ。

 土煙の中から、何かが――十中八九ゴーレムだろう、人影のようなものが、突進してくるのが判る。エマヌエルとその突進してくるゴーレムらしきものの間には、殆ど距離がなかった。ゴーレムが立ち上がった位置と、エマヌエルとの間は二十メートル程だったが、ゴーレムが地を蹴ったことで、その距離は一気に詰まる。

 舌打ちと共に振り返るエマヌエルには、身構える暇もない。

 ゴーレムの腕に絡み付いた、青白い光だけが、けぶる煙の中で辛うじて目を引いた。刹那、乾いた音が上がって、ゴーレムの動きが止まった。

「あ……」

 呆然とした、言葉になり切れない声がその場に落ちる。

 ゴーレムの方が崩れ落ちる動きが、スローモーションのように見えた。

 水平に構えた銃口の先から、硝煙が上がっている。この時ほど、習慣は恐ろしいと思ったことはない。

 エマヌエルに――目の前にいる『仲間』に迫る危険を察知した途端、ヴァルカの指先は反射的に引き金を絞っていた。

 次の瞬間には、それを何故か猛烈に後悔した。何故かは解らない。解らないけれど、取り返しの付かないことをしたような焦燥に、心臓が暴れ出し、身体から力が抜けそうになる。

 震える足を叱咤して、動きを停止したゴーレムの元へ歩み寄る。今更確認してもどうにもならないと解っていたが、そうせずにはいられなかった。

 俯せに倒れたゴーレムの肩に手を掛けて、仰向けにさせる。見開かれた目は、見慣れた藍紫色をしていた。虚ろな瞳は、『生きて』動いていた間も何も映していなかったが、今は正真正銘、ガラス玉のようだった。

 俯いてサイラス『だった』遺体を見つめている自分に、エマヌエルは何も言わない。ただ、黙って視線を向けているのが嫌でも解った。

 ヴァルカも、何も言わなかった。

 その場を支配していた沈黙が、長かったのか短かったのか。

 ややあって、跪いたその足の上に、ポツ、と滴が落ちた。遂に降って来たか、と思うともなしに思って、空を見上げる。けれど、雨は降っていなかった。じゃあ何で、と思う間もなく視界がはっきりしないことに気付く。

 透明なヴェールの向こうで、エマヌエルが驚いたように目を瞠っているのが見えた。

「ヴァルカ……?」

「え……?」

「あ、いや……」

 何でもない、と言ったエマヌエルが、ばつの悪そうな顔をして視線を反らした。

 何気なく顔に手を遣ると、頬が濡れている。そこで、ようやく自分が泣いているのだと解った。

「あ……」

 慌てて拭うが、後から後から溢れ出す涙は一向に止まらない。唇を噛み締めていなければ、喉からみっともなく慟哭が迸りそうになる。

 名前の解らない感情に喰い破られそうになるのを必死で堪えるように俯いていると、ジャリ、という何かを踏み締める音と共に、スニーカーを履いた足が目に入った。

 不意に二の腕を掴まれたかと思うと、乱暴に引き寄せられる。抵抗する暇もなかった。気付けば、エマヌエルの腕の中にきつく抱き締められていた。

「え、エマ……?」

「いーから。……我慢、すんな」

 息を呑む。何を言われたのか、一瞬解らなかったが、理解した途端枷が外れそうになる。

「や……大丈、夫、だから」

 腕の中から抜け出そうともがくが、うまく力が入らない。

「大丈夫じゃねぇだろ」

「……ッ……」

 これ以上、何も言わないで欲しかった。

 優しくしないで欲しい。今優しくされたら、優しい言葉とこの温かい腕に甘えてしまいたくなる。

 感情の赴くまま慟哭したら、サイラスを『殺した』自分を許してしまいそうだった。仕方なかったのだと、引き金を引いたことを納得してしまいそうになる。

「……また、助けられたな」

「……え……?」

 自分を腕に抱き締めたまま、エマヌエルがポツリと呟く。

「あんたが撃たなかったら、俺が死んでた。……あの時、引き金を引かせたのは俺だ」

 違う。そうじゃない。

 言いたいのに、嗚咽に遮られて声が出ない。代わりに、弱々しく首を振った。否定の意が、伝わったかどうかは判らない。けれど。

「だから、あんたは悪くない」

「……ッ、バカ……!」

 エマヌエルは、ヴァルカが今最も欲しくて、それでいて最も言って欲しくないセリフを、あっさり耳元に落とした。

 それが、限界だった。何かが崩れる。

 エマヌエルの背にしがみつくように腕を回して、ヴァルカは二年振りに声を上げて泣いた。


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