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CODE;5 In the residence of Haronz

 カーテンが開け放たれた大きな窓から、柔らかな日差しが射している。こちらに来て一ヶ月ほどで外の空気も暖かくなり、今はすっかり初夏の陽気だった。

 殆ど北の大陸から出たことのないファランは、外へ出る時に上着が要らないという経験は初めてで、『拉致された』という状況を忘れてあんぐりと口を開けて突っ立ったものだ(その自分の顔を見たロルフ=クルト=フォーレルトゥン執事に、逆にあんぐりと口を開けられたりもした)。

 ハロンズに拉致された日から、既に三ヶ月が経っていた。

 豪勢としか言えないこの家での暮らしにも、不本意ながら慣れた。

 ハロンズの診断によると、拉致されたあの日辺りが妊娠三ヶ月程だったらしいので、今はもう六ヶ月ということになる。ファランの腹部は目立ち始めて、すっかり妊婦らしい身体になっていた。

 自家用ジェットなど持っているところからすると、ハロンズ自身は裏社会に通じる人間なのはほぼ間違いない。

 けれども、屋敷に仕えている人間は、少なくとも表向きは善良だった。

 特に、初日に出迎えてくれた、ハロンズに『(じい)』と呼ばれていた初老の男性――フォーレルトゥン執事は、下心などまるで見えない。

 と言っても、これまでのファランは元々他人の心理の裏など読まない性格だった故に、見抜くだけの力がないだけかも知れないが、今のところは心底優しく穏和で聡明なだけの男性に思える。

 他にも、この別荘に勤める女中数名は、約一名を除いては、皆礼儀正しく下にも置かない扱い振りで接してくれる。

 本当にハロンズをただの『世界的な大会社の社長』と信じており、また、ファランをその『婚約者』と信じているのだ。

「――ま。ファラン様?」

「え?」

「どうかなさいましたか? お口に合いませんでしたでしょうか」

 心配そうに覗き込んで来るのは、ファランに近しい使用人の中でも一番年若い女中だった。レモン色に近い明るい金髪を、赤いチェック柄の手拭いにくるんで仕事に勤しむ様は、本人は至って真面目に仕事をしているのだが、見ていると何というともなくおかしくなってくる。確か、ビルギット=クレヴァーという名だった。

 目の前にはテーブルと、その上に載ったティーセット(紅茶と本日のお茶受けであるクッキーの山)が一式。

 ちょうどおやつの時間帯で、意外に甘党なハロンズが好む所為か、表向き彼の婚約者ということになってしまっているファランも午後のティータイムに付き合わされることが多かった。

 妊娠中に、そんなに甘いものばかり食べて大丈夫なのかと内心不安になるが、赤ん坊を産むまでの利害関係は何であろうと一致している。医師免許も持つというハロンズが何も言わないのだから大丈夫なのだろう――と思うしかない。

 ファランは、ビルギットを安心させるように、何でもないわと淡く微笑みを浮かべると、手にしたままになっていたティーカップを口に運んだ。

 ファランに言われてはおしまいだが、割に単純なところのあるビルギットは、上辺の笑顔にうまく騙されてくれたらしい。ファランの中身のない笑顔に返礼するように微笑むと、軽く会釈して給仕の仕事に戻っていった。

 とは言え、今この場でテーブルについているのは、ファランだけだった。

 つい先刻まではハロンズも一緒だったのだが、フォーレルトゥン執事が、何事かの連絡があったという言葉と共に、ハロンズに携帯端末を手渡した。

 ハロンズは、フォーレルトゥンから受け取った端末を耳に当てて、二言三言やり取りすると、「ちょっと失礼」と言って席を立って行ってしまった。

 それからまだ五分も経っていないので、給仕をするビルギットとファラン以外には、今は人がいない。

 ファランは、ビルギットが仕事に集中したと見て、せり出した腹部にそっと手を当てた。

 もう安定期だ。そろそろ逃げ出す算段を始めても良い頃合いだろう。

 ハロンズと、約一名の女中を除くこの屋敷の人達は、皆気持ちの良い者ばかりだ。黙って消えるのは、甚だ申し訳ないような気がする。けれど、赤ん坊との生活には替えられない。

 このままここにいて、ハロンズの元で出産すれば、目が覚めた時には赤ん坊が消えている、なんてことになり兼ねない。あの黒髪の少年辺りが言いそうなことだが、『最悪に鈍い』ファランにもそれは容易に想像がついた。

(急がなくちゃね……)

 ここはどこかは、判っている。

 たまたま執事のフォーレルトゥンと二人きりになった機会に、立地を確認しておいたのだ。

(まさか、西の大陸の更に西まで来てるとは思わなかったけど)

 『西』というよりは、『南西』だろうか。

 西の大陸<ギゼレ・エレ・マグリブ>の更に西には、約二十万平方メートルの敷地を持つルーフト=パセヂと呼ばれる宿場町を挟んで、下手をするとギゼレ・エレ・マグリブよりも大きな半島がある。

 北半分は北西半島<アルスイーデ>、南半分は南西半島<アデライーデ>と呼ばれている。南北に五千七百三十キロという規模から見て、本当に『半島』と呼ぶべきところかは甚だ疑問だが。

 そして、今ファランがいるのは、そのどちらでもなく、アデライーデから更に南下した場所にある、ジークリンデ島に付属する名もなき島だった。

 ジークリンデ島は、縦・約一〇七六キロ、横・約六九二キロの面積を持ち、アデライーデと約一五三キロある鉄橋で繋がっている。

 しかし、現在地である離れ小島とジークリンデ島の間には、橋すら架かっていない。間に障害として横たわる海の距離は、およそ五十七キロ。それとほぼ同じ五十七キロ四方の小島全てが、ハロンズの私有地だというから恐れ入る。

 その私有地に出入りする手段は二つ。

 一つは、クルーザーで行き来する方法。勿論、桁(いや、タガか?)の外れた金持ちのハロンズ家には、クルーザーだってしっかりある。それも私有のクルーザーだ。

 そして、もう一つは、どこかの飛行場と、この私有地内にあるプライヴェート離着陸場を行き来する方法。

 但し、今日日(きょうび)空を飛ぶ人種は三つだ。

 警察か、医療関係者か、裏社会関係者。

 ごくごくごく稀な例外で、一般人には想像もつかないような、裏関係者でない超金持ちも飛んでいると考えられなくもないが、ファランは今まで聞いたことはない。

 もっとも、ここの使用人達は(これもファランに言われてはおしまいだが)、底抜けにおめでたいのか単なる間抜けなのか、自分達が仕える主人は、その『例外中の超例外』と信じて疑っていない様子だった。

 それはさて置き、そんな場所から果たしてどうやって脱出するか。

 あの少年達なら難なくやってのけるだろう、とファランは益もないことをぼんやりと思った。顔色一つ変えずに窓を割って飛び出し、五十七キロもある海などモノともせずに泳いで渡るに違いない。

 しかし、ファランにはまずどちらも無理だった。身一つだったと仮定しても、さりげなくその辺を彷徨いているハロンズのボディガード兼ファランの見張りに見つからずに島の果てまで走る前に捕まってしまう。泳ぎも、人並みか――いや、恐らくそれ以下だ。頭脳プレイは自信がある方だが、肉体を使った運動会などは昔から苦手で、ハイスクール時代の体育の成績は惨憺たるものだった。

 海まで辿り着けたとしてもこの身体では、思い切った真似はできない。

 恐らくそこまで計算の上で、あのハロンズという男はファランを監禁しておく場所にここを選んだのだ。忌々しいことこの上ない。

 ファランの名誉の為に付け加えると、彼女もここへ連れて来られてからの三ヶ月、決してボサッとしていた訳ではない。

 けれども、(はた)から見れば『ボサッとしていた』ように見えただろう。実質、ファランは物理的には『何もしていない』のだから。

 言葉を正しくすれば、『何かしようにもできなかった』のだ。

 何故なら、お人好しを絵に描いたような使用人達の中にあって、たった一人、異質な女中がいた。

 異質、とまで言っては言い過ぎかも知れないが、どうも敵意を向けられているように感じるのだ。勿論、ここへ連れて来られてから初めて会う彼女に、何かした覚えは全くと言っていいほどない。

 彼女の名は、リーゼロッテ=ハイルヴィヒ=マントイフェル。年齢は二十二歳。ストレートの黒髪で、前部分は眉のラインでピッチリと整えられ、後ろはうなじの辺りで一纏めにされている。袖の上腕部が膨らんだ黒いメイド服が、その髪と非常によくマッチしていた。

 この島へ連れて来られた日、出迎えたフォーレルトゥン執事以外の使用人とは夕食時に顔を見ただけで、改まった挨拶はせず(じま)いだった。

 そんな事情から、翌日になって改めてハロンズから紹介された使用人は、フォーレルトゥンを含めて六人。

 フォーレルトゥンこと、ロルフ=クルト=フォーレルトゥン。現在六十五歳で、とうに定年退職していてもおかしくない年齢だ。けれども、ユーリ=ハロンズが幼少の頃からハロンズ家に仕えていて、孫とも思っているハロンズ青年から離れ難く、六十を過ぎてもハロンズ家の家令のようなことをしていた。今はハロンズ家全体の家令の職は後進に譲り、この別荘の管理を一手に任されているという。

 そして、今目の前で働いている、ビルギットことビルギット=イザベル=クレヴァー。現在十八歳。家庭の事情で十五の時からハロンズ家に女中として仕えているらしい。

 それから、ベッティーナ=ハンネローレ=ハグマイヤー、四十五歳。五人いる女中の中では最年長で、この別荘の女中長。ファランが見たところ、厳格だが、公平な性格に思える。ハロンズのことはただIT会社の長だと信じ切っているのか、忠誠を尽くしているのが傍で一日も見ていない内に解った。

 ファランとしては、それは別に構わないのだが、ハロンズが下手にファランのことを『婚約者』などと紹介したものだから、彼の未来の妻となる(と思っている)ファランにも同様に尽くされるのは、ファランとしては困りものだった。

 止めて欲しいとやんわり言ったのだが、『いずれそうなるのだから、けじめは今から着けねば』と、ファランのことを『奥様』と呼ぶよう、この別荘にいる全員に徹底しているのだ(ビルギットは個人的な頼みを入れてくれたのか、二人きりの時にだけは名前で呼んでくれるが)。

 三人目は、アンドレア=ベアトリーセ=ライフアイゼン、十九歳。手入れをしているのかいないのか、好き勝手な方向を向いた赤毛のショートカットが、その闊達な性格をそのまま現しているような少女だ。

 最後に、ヴィクトーリア=ヴァルブルク=エングラー、二十歳。褐色の髪を一つに纏めて三つ編みにしている。常に無表情で必要以上の口をきかないので、何を考えているか判りづらく、ファランには少し苦手な部類の人間だ。

 だが、リーゼロッテほどではない。

 ハロンズが一通り彼女らを紹介した後、ファランが口を開く間もなく、

「彼女は、ファラン=ザクサー。僕の婚約者。只今妊娠中だから、くれぐれも丁重に扱ってね」

 と言った直後、リーゼロッテだけが一瞬凄まじい目つきでファランを睨んだのが印象に残っている。

 ちょうどその時、彼女に背を向けていたハロンズは気付かなかったらしい。

 その彼女が、ファランに牙を剥いたのは、早翌日のことだった。

 朝食を摂る為、エントランスへの階段を降りようとした時、いきなり突き落とされたのだ。実際には、危ういところで駆けつけたハロンズが腕を取ってくれて、腹の子共々助かった訳だが。

 その直後、一部始終をたまたま目撃していたアンドレアが、それがリーゼロッテの犯行であることを立て板に水と勢いよくハロンズに暴露したものだから、ファランには体よく監視がつく羽目になってしまった。

 その監視が、力任せな人間ではなく、『ハロンズの命は絶対!!』という忠誠心の塊のような、リーゼロッテを覗く五人に厳命されたのだから、いっそドンパチやらかす連中よりも質が悪い。

 ちなみに、普通主人の婚約者を手に掛けようとした使用人はクビになりそうなものだが、敵もさるもの。彼女が、それはもう迫真の演技で自分の潔白を訴えたので、フォーレルトゥン執事はコロッと騙された挙げ句に、疑いを掛けられた若き同僚に同情の涙を流していた。流石に同性である四人の女中達は冷ややかな目を向けていたし、ハロンズはある意味ポーカーフェイスな笑みを浮かべて黙っていたので、リーゼロッテの言い分を信じたのか信じなかったのか定かではない。

 だが、

『今回は一応信じてあげる。でも、一度そんな疑いの目を向けられたら、君もファランと顔を合わせるのは気まずいだろう?』

 と、そのまま受ければいいのか、遠回しな嫌味なのか、判断に迷うことを言って、とにかくリーゼロッテをファランから遠ざけた。

 以後、誰か一人はファランの傍にいるものだから、隙を見て逃げる、などということは到底できなかった。

 パソコンを使って何かを手配する、ということも右に同じだ。

 ハロンズは勿論ファランの部屋にパソコンを置く、なんていう間抜けな失態は犯さなかった。彼自身の私室には仕事に使うだろうからあるに違いないと踏んだのだが、どこへ行くにも憎たらしいほど忠実な執事か女中が従いて回る。排泄時にも扉の外までは従いて来るので(流石にその時はフォーレルトゥンはその役を女性に譲っていたが)、『トイレに行く』と行っておいてハロンズの部屋へダッシュ、ということもできなかった。

 それでなくとも、常にない状況から来るストレスからか、悪阻も酷かった。安定期に入った故か、近頃やっと体調も落ち着いて来たところだ。

 要するに、今の今まで、逃げ出す術を思案するどころではなかったのである。

 しかし、もうここが限界だった。精神的なところもそうだが、赤ん坊を産む前にハロンズから離れたい。

 無事に産めたとしても、ウォレスの忘れ形見を取り上げられるなど、考えただけで息が詰まりそうになる。

(でも……どうしたらいい?)

 心の中で問い掛ける相手は、今は亡きウォレスだ。けれど、当然ながら自分の中で作り出した幻影の彼が答えてくれる筈もない。

 今は何も望まない。ただ、貴方の赤ん坊と離されたくないの、それだけよ。

(ねぇウォレス、お願い)

 力を貸して――。

 しかし、その切なる願いに答えるかのようなタイミングで、ハロンズが戻ってきた。フォーレルトゥン執事も一緒だ。

 気付いたビルギットが、少々浮ついたその外見とは裏腹な洗練された所作で頭を下げる。

「ごめんごめん。仕事の電話だったんだけど、ちょっと長引いちゃって」

 ここで、きちんとハロンズの『婚約者』の芝居に付き合うのなら、『何かあったの?』などと訊ねる場面だろうが、ファランは無反応で紅茶を口に運んだ。

 合わせるのは話と、それから茶の時間に同席するところまでだ。本来ならウォレスと交わすような会話を、この犯罪者(どういう裏関係者かまでは分からないが、拉致監禁だけで客観的に見ても立派な犯罪だ)と洒落込むつもりには、毛ほどもなれない。

 普段からこの調子なので、それを使用人達がどう思っているかは知らないが、そこまで気を使ってやるつもりは更々なかった。

「急で悪いんだけどね。明日一番で、ここ引き払うから」

「はぁ?」

 本当に急な話で、ファランも反射で顔を顰めてハロンズを見た。

「お腹の子もそろそろ安定期だしね。もう移動しても大丈夫だと思う」

「……どういうことなの」

 質すのは本当に癪だったが、真意はこの男本人にしか分からない。

 低い声で訊ねたファランに、にっこり微笑を返すと、ハロンズは軽く手を水平に振った。

 それを受けて、フォーレルトゥンとビルギットは、共に頭を下げて部屋を退出していく。『表』の世界の住人には聞かせたくないことなのだろうか。

 静かに扉が閉まるのを見届けると、ハロンズはスッとファランに顔を近付けて声のトーンを落とした。

「君を迎えに行った夜、『北の大陸<ユスティディア>はもうすぐ戦場になる』って言ったのを覚えてる?」

 ファランは息を詰めた。

 確かに――確かに言った。

 無言でハロンズの顔を見返すと、彼は肩を竦めて、ファランの隣の席へ腰を下ろした。

「君は何をどこまで知ってるのかな」

「どういう意味?」

「そうだねぇ、例えば――そのお腹の赤ん坊の父親が何をしていたか、とか」

 唇を噛み締める。

 それは、ファランにとってまだ直視したくない現実の一つだった。

 直視したくない、というより、認められないことだ。何故なら、ファランが自分の目で、耳で、確認したことではないのだから。

「彼氏の身体の構造……とか」

 クス、と薄く笑う声と共に、ハロンズが追い打ちを掛ける。

「何が、言いたいの」

「君は、本当にただ妊娠した君の身を案じて、僕がここまで君を連れて来たと思ってる?」

「知らないわよ」

 答える声が勢い鋭くなって、言ってしまってからファランは空気を呑むように押し黙った。

 それを面白がるように見ているハロンズの顔へ、チラリと視線を向けてから、軽く深呼吸する。今なら、もしかしたらこんな横暴な方法で自分をこんな所へ監禁している理由が聞けるかも知れない。

「貴方は……答えてくれなかったわ。他の人の目もあったし……まともな会話なんてしたことなかったじゃない」

「まあ、確かに暇はなかったよね」

 何がおかしいのか、ハロンズはクスクスと小さく笑って肩を震わせた。

「ホントに……よく似てるよ」

 けれど、その口から出てきた言葉はファランの望む『答え』ではなかった。

「どうして君はこんなに似てるのかな……顔だけじゃなくて……その真っ直ぐな気性も……」

 何を言っているの?

 しかし、その言葉はファランの口から出なかった。ハロンズが、おもむろにその腕を伸ばして、ファランの頬を優しく撫でたからだ。

「ちょっ……」

 ウォレス以外の男性に、愛撫されるように触れられることに嫌悪感を覚えて、ファランは椅子ごと後ずさる。

 そのファランの挙動に我に返ったように、ハロンズは瞬時目を丸くすると、肩を竦めて伸ばした腕を引っ込めた。

「あれから三ヶ月……ユスティディアはすっかり制圧されたらしいよ」

「制圧されたって……誰に?」

「さあ? 君は知らない方がいいんじゃないのかな」

「それじゃ、もう一つの質問にも答えて貰えないのね」

「もう一つ?」

「どうして私をここへ連れて来たのか、よ。まさか本当に慈善心からじゃないでしょう。それともウォレスのことと、そのユスティディアのこととは、全部別の話なの?」

 ハロンズは、今度はキョトンとした意味合いで目を丸くすると、小さく吹き出した。

「な、何がおかしいのよ!」

「いや、別に……ただ天然なだけじゃないところも似てるなと思って」

 クックッ……と笑いの残滓を引きずるように肩を震わせる男の言ったことは、やはりファランには意味が分からなかった。けれど、問うてもやはり明確な答えは得られないだろう。もう、彼がその気になるまで放置するしかないのだろうか。

「そうだねぇ……君のそのお腹にいるベビーは貴重な被験体だから、とだけ言っておくよ。君をここへ連れて来た理由はね」

 ファランは、無意識に子を守るように腹部へ手を当てた。

『ヒューマノティックと普通の人間の間にできた子供なんて、あいつらが喜んで飛び付きそうな素材じゃない?』

 同時に、あの紅い髪の少女が言った言葉が脳裏を過ぎった。

 彼は――ハロンズはまさか、研究所の裏の研究班に所属していた人間なのか。

「そういう訳じゃないよ。彼らは仕事仲間ではあったけど、もう過去の話だね」

 まるで顔色から考えていることを読んだかのように、ハロンズが微笑する。

「でも、その様子だと、彼氏が本当に所属していたのは『どこ』なのかは知ってるんだね。……彼氏の身体がどうなったのかも」

「し、……知らない、わよ」

 ファランはハロンズから顔を背ける。半分は本当だが、半分は嘘だ。

 実際、ウォレス本人からは、結局詳細は聞けず終いだった。

「嘘が下手だねぇ」

 ハロンズは、再びクスクスと笑い声を立てた。

「でも、彼氏の身体のコトを知ってるなら話は早い。ユスティディアは、ある改造生物兵器に制圧されたんだ。その改造生物兵器について詳しく言う必要はないよね?」

 詳しいことは知らない。ただ、目の当たりにしたこと以外は。

 ファランは、鋭くハロンズを睨め付けた。詳しい説明を求めたつもりだったが、ハロンズはただ肩を竦めるアクションをしただけだった。

「きっと(じき)にここも制圧されるだろうね。ギゼレ・エレ・マグリブは、ユスティディアに一番近い立地だし……」

 ファランに説明しているのか、一人ごちているのか、判断が付かない呟きと共に、ハロンズは、自分のティーカップに指を掛けると、自分が席を立っている間にやや冷めてしまった紅茶を口に運んだ。

「明日発つって言ったのは、そういう訳。スィンセティック達が攻め込んで来る前に、避難する必要があるからね。本当は三ヶ月前にそうしたかったけど、お腹の子にどう影響するか読めなかったから、安定期に入るのを待ってたんだ」

「どういうこと?」

「避難場所が、ちょっとばかり問題でね。対抗策を講じる必要もあったから」

 益々訳が分からない。けれど、質すのももう面倒だった。質したところで、ファランの納得できる答えが得られるとは思えなかったからだ。

 彼は、医師免許を持っているところからしても、頭脳明晰なのは確かだ。ただ、自分以外の人間に分かるように説明しようという思考だけは、母親の胎内に置いてきたらしい。

「彼氏も確か、フォトン・シェル製造装置内蔵型だったよね」

 ハロンズは、そんなファランの内心にはお構いなく、ファランからすれば脈絡がなく思え、かつ神経を上手に逆撫でする言葉を投げた。

「彼は、そんな生物兵器じゃないわ」

 覚えず低くなった声が、絞り出るように喉から漏れる。

 しかし、それはハロンズには何の精神的ダメージも与えなかったようだ。

「うん、どう思おうと僕には関係ないけど、とにかくそれは事実なんだよ?」

 小首を傾げてにっこりと笑うその顔面に、思う様平手を打ち付けてやりたい衝動を、ファランは生涯で使う精神力の三分の一ほどを動員して堪えなければならなかった。

「その体質はお腹の子にも遺伝している可能性はとても高い。本当にきちんと精密検査しないと分からないけど」

 爆発しそうな怒りを何とか堪えているファランを前に、ハロンズはあくまでマイペースに、小籠に盛られたクッキーに手を伸ばした。

「だから、その対策として一時影響を無効化する装置か薬を作る必要があったんだ」

 サクッ、と軽やかな音を立てて、典雅な指先に摘まれたクッキーが一欠片、ハロンズの口に消える。

「避難先は、絶対にスィンセティック達が追って来られない絶海の孤島群――」

 話しながらも口の中にまだクッキーの欠片が残っていたのか、何かを飲み込むように喉を動かすと、ハロンズは手にしたままだったティーカップを口に運んだ。

 そうして一息吐くと、再びファランに向き直った。どこまでも腹が立つほどにマイペースな男だ。

「南島国<サトヴァン>の北に、リーフ・アイランドって孤島群があるのは知ってるでしょ? その真ん中にある、ナンナ=リーフっていう島が引っ越し先さ。大丈夫、気候はやっぱり温暖だから」

 大丈夫な訳があるか。

 そんな所へ引きずり込まれたら、きっと今より逃げ出す機会を捉えることは難しくなるに違いない。そうしたら、子供と引き離される――絶望的な予感は、確かな根拠を持ってファランの中に警鐘を鳴らす。

(もう、迷ってる時じゃない――)

 下腹部に目を落として、そこに当てた手をキュッと握り締めた。


***


 夜中の二時。

 その日、部屋付きだったビルギットがセットしてくれた目覚ましを、彼女が出ていった後、サイレントでセットし直しておいたものが、忠実に時を告げる。

 起きられるかはかなり不安だったが、気持ちが高ぶっていた為か、目を閉じていただけで意識は眠りに落ちることはできなかった。妊婦としては胎教によろしくないことこの上ないが、今だけだからと、まだ胎内にいる我が子に詫びる。

 流石にこの時間は、使用人もそれぞれの私室へ引き上げているので、寝室にはファラン一人だ。

 明かりのない室内でそっと身体を起こすと見るともなしに辺りを見回した。

 カーテン越しに入ってくる月明かりが、微かに室内を照らしている。それを頼りに、ファランは、翌日着替える為にとビルギットが用意してくれていた服に袖を通すと、足音を忍ばせて戸口へ近付いた。

 音を立てないように気を配りながら、細く扉を開けて外を伺う。誰もいないのを確認すると、静かに廊下へ出て扉を閉じた。

 明かり取りの為に廊下にも設えられた大きな窓から月明かりが入ってくるのが、今のファランには有り難かった。

 いつもと違うリズムで鼓動を刻む心臓を宥めながら、エントランスへ向かう。静まり返った空間の中で、自分の心臓の音だけが異様に反響しているような錯覚を覚えて、ファランは一足ごとに後ろを振り返りながら、エントランスへ続く階段ホールへと歩を進めた。

 足を踏み外さないよう慎重に階段を下ると、そこはすぐエントランスホールだ。

 逸る気持ちを抑えながら扉に飛びつくが、しっかりと鍵が掛かっている。

 普通の一般家庭なら、鍵は外からの侵入者を防ぐ為のもので、内からは簡単に解除することができる。だが、ここは以前からそうなのかは知らないが、内側からも施錠を解除するのに鍵が要るようだった。暫く音を立てないように注意しながら前後に動かしてみたものの、やはり開くことはない。

 溜息を吐いて、両隣の壁に設置された窓を見るが、外側には装飾を模した鉄格子がはまっている。

 腕時計を見ると、既にここまでで二十分経過していた。

(……大丈夫。夜明けまでまだ時間はあるわ)

 出掛けるのは、朝の六時頃とハロンズは言っていた。

 身支度するのに一時間前に起床するとしても、後三時間弱――少なくともあのハロンズが起き出してくるまでにこの屋敷を出られればいい。

 他に一階で出られそうなところがあればいいのだが、と思いながら踵を返して、ファランは思わず悲鳴を上げそうになった。

 気配もなく、そこにいつの間にか人が立っていたのだ。

「こちらがご入り用ではないかと思いまして」

 ランタン型のライトを手にそこに立っていたのは、リーゼロッテだった。

「な、な、……っ」

 何でここに、と言おうとするが、舌がもつれたように空回って言葉が出て来ない。そもそも、何故彼女がこんな所にいるのだろう。自分への接近禁止命令を無視してこんなことを――と思うが、頭の中は既に真っ白なのか、それとも言いたいことが混乱して声が出ないのか、もうよく分からなかった。

 結果、陸に打ち上げられた魚よろしく、口をパクパクさせているファランに、リーゼロッテが無表情で歩を進める。

「やっ……!」

 思わず大声を上げそうになる口を自分で塞ぎながら、後退さる。しかし、後ろに空間はない。必然的に扉で背が止まるが、それでも背を扉に押し付けることで逃げようとするように、リーゼロッテから距離を取ろうとした。

 同時に、手前数十センチまで迫ったリーゼロッテから、せめて我が子だけでも守らなければと、ファランは無意識に腹部を抱え込むようにしてしゃがんだ。

 リーゼロッテは、無表情にファランに近付くと、彼女の耳に唇を寄せる為に自身もしゃがみ込んだ。

「……お話があります。私の部屋へおいで頂けませんか」

「……え……?」

 最初の日の印象と、その翌日、階段から突き落とされ掛けたことから、絶対に殺されるのだと半ば覚悟していたファランは、拍子抜けしたように顔を上げた。

「先日は……初めの日に働いたご無礼はお詫び申し上げます。水に流してお話して頂きたいのですが、おいで頂けませんか」

 静かな声が問いを重ねる。

 正面から見た黒い瞳は、声と同じように静かだった。少なくとも、あの日見たファランに対する憎悪は微塵も感じられなかった。

 何を考えているのかも読み取れなかったが、ここで首を縦に振らなければ何をされるか分からない怖さもあった。

 是の意を示したファランに、リーゼロッテが手を差し出す。その手に引かれて立ち上がり、彼女の後に従いて暗い廊下を屋敷の内へ引き返した。

 彼女の部屋は、階下の奥まったエリアにあった。

 そこは彼女の部屋だけでなく、使用人全員の個室が集まった場所だ。

 彼女は室内に明かりを灯し、ファランを促して部屋へ入ると扉を閉じた。

 ファランは、扉を閉じて欲しくはなかったが、扉を開け放しておいてもハロンズが気付くのではないかという懸念もあり、結局どちらとも言い出せなかった。

 使用人の部屋と言っても、室内は存外に広かった。

 横三十メートル、縦二十メートルほどだろうか。向かって左端に簡素なベッドと、部屋の中程に丸いテーブルセットが(しつら)えられている。ファランが使っている部屋よりも一回りほど小さいようだが、それでも使用人が使う部屋としては充分だ。

「どうぞ、こちらへ」

「いいえ、ここで結構です。それで、話というのは?」

 ファランは、室内へ誘われるまま歩を進めるような迂闊な真似はしなかった。

 いつでも扉を開けて逃げられるよう、扉の前を離れることなくリーゼロッテに問いを投げる。

 無表情だったリーゼロッテの頬に、うっすらと笑みが浮かんだ。

「貴女は……本当にユーリ様のご婚約者ですか?」

「……何が、言いたいの?」

 いきなり核心を突く問いを投げ返されて、ファランは心臓が引っ繰り返りそうになった。

 別に、彼女にでも他の使用人にでも、事実が露見して困ることはない。

 ここで本当のことを言うのは簡単だが、しかし、そうなった時にハロンズがどう出るかが分からない。また、リーゼロッテは何を考えているやらさっぱり読めないところが恐ろしい。うっかりこぼした一言が、彼女を豹変させるかも知れない恐怖があった。

「いえ。私が貴女から遠ざけられてからも、私はここを辞めた訳ではありませんから……イヤでもユーリ様と貴女がご一緒にいらっしゃる光景は度々目にして参りました」

 目を伏せた彼女は、ファランを嘲るような微笑を口元に浮かべて言葉を接ぐ。

「でも、貴女様の表情は、結婚間近の……恋人と結婚が決まった女の顔には見えなかったものですから。他の人間がどう思っているかは分かりませんけれどね」

「……それが、貴女にどう関係が?」

 無意識に後退さりながら、ファランはノブにそっと手を掛けた。

 リーゼロッテの表情は変わっていない。表面上は変わっていないように見える。けれど、空気が明らかに違う。

 根拠はない。全くないが、何かがファランに『ここから逃げなければ』と警告する。

 本能の警告に、ファランは逆らわなかった。

 リーゼロッテが口を開くよりも前に、躊躇いなくノブを回して廊下へ飛び出す。彼女がこちらへ飛び掛からんばかりの勢いで足を踏み出すのを視界に捉えながら、それより先に扉を勢いよく閉じた。音に気を遣う余裕は全くなかった。

 夜中の静まり返った廊下に、乱暴に扉を閉じるその音は容赦なく反響する。ヒヤリとしたものを覚えながら、ファランは全力で扉を押さえ込んだ。

「開けなさい! 逃げるなんて卑怯よ!!」

 バンバン、と扉を叩く振動が、全身に響く。体重を掛ける為、扉に背を預けた瞬間、ファランは今度こそ無意識の内に悲鳴を上げた。

 廊下の暗がりにいた男は、ファランが押さえていた扉を自分が掌で代わりに押さえると、ファランを――というより、赤子を気遣って優しく扉から遠ざける。

「ここを開けなさい! まだ話は終わっていないわ!!」

「何の話かな?」

 その声に、リーゼロッテも息を呑んだように口を閉ざした。

 一拍の間を置いて、声の主は扉を押さえていた手を退けて、そっとノブを引いた。

 開かれた扉の隙間から覗いたのは、凍り付いたリーゼロッテの顔だった。

「……ユーリ、様……」

 無意識に腹部を抱えた状態で立ち尽くしていたファランは、呆然としたようなリーゼロッテの呟きを遠くに聞きながら、脱走の機会が永久に失われたことを悟らざるを得なかった。


***


 リーゼロッテが夜中という時間帯に配慮することなく騒いだおかげで、周囲の私室で休んでいた使用人五名も、結局起きて来てしまった。

 ハロンズは、いつの間にかヘたり込んでいたファランを、女中長のベッティーナに命じて部屋へと送り届けさせた。

 リーゼロッテ以外の使用人を全員私室へ引き取らせた後、ハロンズは彼女を伴って自室へ戻った。

「さ……てと。何から話すかな」

 ハロンズは、室内右端に設えられたソファに腰を下ろしながら、扉の前で小さくなっているリーゼロッテに視線を向けた。

「こんな時間に、彼女と何を?」

 静かに問い掛けたにも関わらず、リーゼロッテは怯えたようにビクリと肩を震わせる。

「リーゼ?」

 愛称で呼び掛ける彼の声は、威圧感を持ってその場に響いた。

「あ、……あの……」

「僕、君には彼女に半径三メートル以内に近付かないようにって言ったような気がするんだよねぇ。まるでストーカー対策だけど」

 軽い笑い声には、その軽やかさに反して、ゾッとする何かが含まれている。

 リーゼロッテは、更にウロウロと視線を泳がせた後、俯いたまま口を開いた。

「私は……ただ、あの方と話をしようと……」

「話?」

「はい……あの、明日朝早くユーリ様と発たれると聞いたので……昼間は皆の目がありますし、話をするならこの時間しかないと……あの方のお部屋へ……そうしたら、あの方が部屋を出て来られて……どこかへ行こうとされていました」

「それで?」

「わ、私はお止めしようとしただけです!」

 自分の言い分を全く信じていない声音に、リーゼロッテの叫びは懇願の色を帯びた。

「第一、こんな時間に外出されようとしていたんですよ!? しかも、ユーリ様に無断で! ユーリ様は何とも思われないんですか!?」

「施錠は完璧だから、逃げ出される心配はなかったんだけどねぇ」

 クスクスと面白そうに笑う顔の中で、目だけは笑っていない主人に、リーゼロッテは食い下がるように叫んだ。

「あの方は、ユーリ様を愛してはおられません!」

「だから?」

「……さ、最初はっ……『あの容姿』を利用してユーリ様に近付いて……あまつさえお子様まで……と思っていました。最初はそれが許せなくて……」

 必然的に、初めに階段から突き落とそうとしたのは故意だと認める供述になってしまっていたが、リーゼロッテは気付いていないようだった。

「でも……暫く見る内に解りました。あの方はユーリ様を愛しておられません。ならっ……なら、もしかして、ユーリ様の方がっ……」

 それを遮るように、ハロンズがおもむろに立ち上がる。

 リーゼロッテは、再び身体を震わせて、ただハロンズが自分に近付いてくるのを見つめた。

「僕の方が……何?」

「ユーリ様……」

 自分のすぐ前まで来て足を止めたハロンズを見上げて、リーゼロッテが呆然と呟く。

「ユーリ様……目を覚まして下さい。あの方は……」

 リーゼロッテは、最早主従の垣根は忘れたようだった。自分の前に立つハロンズに手を伸ばし、彼の着衣に縋るように握り締める。

「あの方は……もうおられないので」

 皆まで言うことは許されなかった。

 ハロンズの腕に青白い閃光が走ったかと思うと、何かが焼けるような音がして、次の瞬間、リーゼロッテの姿はもうそこにはなかった。


「解ってるよ、そんなコト……」

 聞く相手もいなくなったにも関わらず、ハロンズは一人ごちる。

 首から下げた鎖に指を掛け、衣服の下へしまってあったペンダントヘッドを取り出す。ロケットペンダントを指先で開けて中身に視線を落とすと、ハロンズはブリリアントグリーンの瞳を切なげに歪ませた。


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