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ファランは唖然とした。
ただもう、バカのように口をあんぐりと開いて、眼球も転げ落ちんばかりに目を見開くしかなかった。
北の大陸<ユスティディア>・フロリアンの自宅から、謎の男に拉致されて数日。
連れ出される時は目隠しをされた上、男に抱き抱えられて自宅を後にしたので、CUIOの警備厳重になっていたアズナヴール半島をどうやって脱したのか、ファランにはよく判らない。
ただ、後にユーリ=ハロンズと名乗った主犯格の男は、ファランに本当に子供を産ませるつもりだけはあるようだった。
実はヘリコプターはかなり揺れる乗り物だから、妊娠初期にはよくない、などと言いながら、ハロンズは陸路で車を走らせた。目隠しを解かれたのは、ユスティディアを出る時、ジェット機に乗り換えてからだ。男によると、自家用ジェットらしい。
今時、ジェット機やヘリコプターなどの、空を飛ぶ乗り物に乗るのは、警察・病院・救助関係者以外では、後ろ暗いことをしている者と相場が決まっている。一般人の旅行は、海路か陸路の時代だ。
いくらファランが普段、『頭が常春』だの『考え方がめでたい』だのと言われていても、それくらいは知っている。
もうここまでの経緯だけでも、十二分に胎教環境によろしくないことこの上ない。
だというのに、ジェット機が着陸した場所が、持ち家の庭だと言うからまた驚いた。
「ここから居住区まで車です」とあっさり言われ、黒塗りの高級車に乗せられた頃には、驚愕は諦めに変わっていた。ファランは、特殊な研究所に勤めてはいたが、生活は至って一般庶民のそれだ。
はっきり言えば、「もうついて行けない」というのが正直な感想だった。
これが個人邸宅の敷地か、とツッコみたくなるほど嫌みな広さを持った庭は、よく手入れが行き届いていた。
「今は、時節柄、花はないですけど、春になるとバラが綺麗に咲きますよ」
ハロンズは、窓の外を眺めるともなしに眺めていたファランに向かって、ガイドを気取ったように言うと、にっこりと笑った。
相変わらず、どこか怖い笑顔だとファランは思った。
明るい場所で改めて見ると、ハロンズは中々の美丈夫だった。
極上の技術を持って作られた彫刻のような輪郭に、すっきりと鋭角に尖った顎。通った鼻筋。やや丸みを帯びた目元に、ブリリアント・グリーンの瞳。
闇の中では、色素が薄いとしか見えなかった髪の色は、プラチナブロンドで、襟足が隠れるほどの長さがあった。
あの、黒髪の少年とは違った種類の美貌と言っていい。目の前の男は、すぐに男性と判別がつくけれども、どこか冷ややかな美貌とも思えて、ファランはぞっと背筋を震わせた。
やがて、両脇に緑が敷き詰められた広い舗装路を抜けて、車は大きな屋敷の前でスローダウンした。
不本意ながらハロンズに手を取られて車の外へ降り立ったファランは、改めて唖然とした。諦めに変わった筈の驚愕が復活した瞬間である。
いくら見上げても屋根が見えないし、横を見ても、壁の切れ目がないように錯覚するほど広大な屋敷だった。
くすんだベージュと灰色、白で統一されたシックな色合いの壁面には、洒落た細工の施された窓枠がいくつも取り付けられている。
自分は拉致されてここにいるのだという状況も忘れて、口をポカンと開けたまま立ち尽くしてしまったファランの肩に、ハロンズが柔らかく手を掛けた。
「さあ、どうぞ、中へ。外は冷えます。まだ安定期じゃないんですから、お腹の子に障りますよ」
お腹の子に障るですって? どの口がイケシャアシャアと。
と反射で思ったが、ファランは口を引き結んだまま、ハロンズに従って歩を進めた。
ここまで運転手を勤めて来た、黒いスーツ姿の男が、恭しく扉を開ける。
「ただいまー」とどこかのんびりと間延びした、ハロンズの声が、広いエントランスホールに響く。
ほどなくして、左奥の扉から現れた、黒い上下の装いの男性が、足早に近付いて来た。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。お知らせ頂ければお開け致しましたのに」
どう見ても人の好いとしか表現しようのない初老の男性が、せかせかと歩いて来て、ハロンズに白髪の混じり始めた頭を下げる。
「うん、大丈夫。僕ももう子供じゃないんだから、鍵があれば自分で開けるくらいするよ」
「左様ですか。お荷物は?」
「ん、すぐ持ってくるよ。彼女の部屋は?」
「ご用意できております。ファラン=ザクサー様ですね? どうぞ、こちらへ」
その顔に浮かんだ笑みは、ふんわりと柔らかで、とてもあの冷たい微笑の持ち主であるハロンズに付き従っている人物にはそぐわない気がした。
車へ取って返したハロンズが、ファランのキャリーカートを手に戻って来る。それを受け取った初老の男性は、先頭に立ってエントランスホールの奥に設えられた階段を登り始めた。
「それで、お式はいつのご予定ですか?」
「は?」
ファランは、眉を顰めた。
お式って……何の?
「式なんてしないよ。籍入れて済ませるつもり。ね、ファラン」
「な、」
籍入れるって、何の話!?
という前に、前を歩いていた初老の男性が立ち止まった。
「いけませんよ! 坊ちゃまもまだまだ子供でいらっしゃる。女心が解らないようじゃ、すぐに愛想を尽かされておしまいですよ」
「女心?」
「そうです。坊ちゃまは特にお忙しい方ですから、結婚式に披露宴なんてする暇がないとか、時間の無駄だとか仰ってファラン様を丸め込まれたんでしょう。それでファラン様も納得されたのかも知れませんが、結婚とはそもそも一生にそう何度もあることではございません。坊ちゃまも、もう世界的に大きな会社の長であります故に、政略で奥方をお決めにならなかったのはわたくしめも評価致しますが、だからこそ、婚儀は世界にアピールする目的で盛大に執り行わなければ」
「それは、爺の人生経験から?」
ハロンズが揶揄するように問うと、「爺」と呼ばれた初老の男性は、気恥ずかしげに目を伏せた。
「は、……申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」
「ううん、いいよ。爺の言うことにはいつも一理ある。後で彼女とももう一度話し合うから」
宥めるような言葉に、初老の男性は一礼すると、再び前を歩き始める。
ファランは、横を歩くハロンズをジロリと睨め上げた。
冗談ではない。何でこんな男と結婚しなければならないのだ。第一、相手が彼でなかったとしても、婚約者だったウォレスを喪って何日も経っていないのだ。
それなのに、もう別の男性と結婚するなど、例え心底誠実な男性からプロポーズされたとしても、到底考えられない。
初老の男性の誤解を解こうと口を開き掛けると、ハロンズがにっこり笑って唇を耳元へ寄せて来た。
「余計なコトは言わない方がいい。貴女をこの場で気絶させたって、彼は僕を疑ったりしないからね。その結果、赤ちゃんが流れたとしても、不幸な事故ってコトで片付けるくらい何でもないんだ。さあ、どうする?」
「っ……!!」
世間で言うところのものとは違うが、これも立派に『悪魔の囁き』だ。少々耳が遠くなっているのか、前を歩く男性は、恐ろしい内緒話には何も気付かない様子で、粛々と足を前に動かしている。
卑怯者! と罵りを口に乗せたいのは山々だったが、お腹の子の安全の為に、辛うじて堪える。
そのアメジストの瞳に、最大級の侮蔑を浮かべてハロンズを睨み付けてやることだけが、今のファランには精一杯だった。だが、ハロンズには何の効果もなかったらしい。
クス、と小さくファランの耳元で笑いをこぼすと、頬に口吻けをして、背筋を伸ばした。
***
「ミズ・パース。お仕事はどうされたんですか?」
「心配無用よ。昨日の内に有給取ったから。それより、あの子の捜索はどうなってるの?」
仮本部として研究所の中にCUIOが借りた一室の前まで来ると、そんなやり取りが聞こえて来た。
もっとも、改造聴覚を持つエマヌエルにはそれより前のやり取りから聞こえていた。
すなわち、パース、と呼ばれた女性の朝の挨拶からである。そこで仮眠を取っていたらしい捜査官が、(見えないので想像だが恐らく)慌てふためいて起き上がり掛けて、ソファか何かからズリ落ちた音の後、挨拶を返して、「お仕事は?」に続いた訳だ。
要約すると、大して変わりはしないのだが。
「ミズ……昨日も申し上げましたが、我々の仕事はそれ一つではありません。このフロリアンでは、一ヶ月半前の爆発事故からこっち、爆破を伴わない事件はない有様ですから――」
「だから、玄関が爆破されてその家の住人が消えたからって、優先する理由にならないっていう訳よね」
「いえ、決してそのようなことは……」
そこでようやく部屋の前まで到達したエマヌエルは、初めて映像を伴った状況を把握した。
いくら改造された身体だと言っても、透視能力まではない為、二キロ先のものでも見通せる視力も、壁に遮られてはそこにあるものも見えない。
無言で部屋を覗くと、黒いストレート・ボブヘアの人物が入り口に背を向けて立っている。足を肩幅に開いて、机の向こうにいる捜査官にのし掛からんばかりだ。
そして、彼女がその前の机に手を突いている更に向こう側で、一人の若い刑事が小さくなっていた。どちらが取り調べを受けているのか、と突っ込みたくなる光景である。
「『決してそのようなことがない』なら、さっさとあの子を探して頂戴! ただでさえ今あの子は普通の精神状態じゃないのよ! それに、あんな時間にあんな電話……普段のあの子は、そりゃちょっとふわふわしてるっていうか、天然としか言えないところもあったりはしたけど」
身も蓋もない言い方だ。
「でも、他人の迷惑になる非常識は絶対に犯す子じゃない! そのあの子が、そういう非常識を犯したからにはそれなりの非常事態だったからよ! 爆破事故を伴わない事件がなかったなら、どれを優先にしても大して違わないわよね!? なら、あの子が生きている可能性が高い内に、死ぬ前に何とかするのが道理でしょ!?」
筋は通っている。確かに道理だ。
刑事もそう思ったのか、ぐうの音も出せずに小さくなるしかないらしく、もう俯いて嵐が過ぎるのを待つ体勢になっている。
但し、この『嵐』は、身を伏せていてもいつ過ぎるのかの見通しは全くと言っていい程立たない。
「彼女、妊娠何ヶ月くらいだったのかしら」
その時、不意に今までその場にいなかった声が、凛と落ちる。
エマヌエルと共に、仮本部へ赴いて来た、ヴァルカだ。
「妊、娠……?」
そこで、初めて自分達に気付いたらしい女性が、呆然と呟いて振り返る。
一杯に見開かれた瞳は、ダークブルー。やや上向いた鼻先と、ぽってりとした唇が印象的だった。
「その様子だと、彼女が妊娠しているコトは知らなかったみたいね」
「な、んで、貴女はそんなコト……」
その表情は、戸惑いと明らかな不快感に歪められていた。
友人の自分が知らないことを、何故赤の他人が知っているのだと、顔にありありと書いてある。
「知ったのは成り行き。まあ、お腹は目立ってないから二、三ヶ月ってトコだと思うけど」
それは、ヴァルカにも解ったのだろう。
見当違いな嫉妬をされても困ると言わんばかりの表情で、彼女は溜息を吐いた。
「問題は、どこにどうして消えたのかってコトだよな」
「だからそれを貴方達に解決して欲しいのに、『でも・でも・だって』って全然捜査してくれないんだもの。警察がアテにならないってホントね。自分が当事者になってようやく解ったわ」
警察と一括りにされたエマヌエルは、一緒にするなと思ったが黙っていた。容疑者として拘束されている、などと言ったら事態がややこしくなる気がしたのだ。
もっとも、エマヌエル自身は『拘束されている』つもりは全くない。もう、いつでもその気になれば姿を眩ませることができると思っている。戦闘能力がほぼ互角の、ヴァルカさえいなければ。
(まあ、警察がアテにならないの下りは同感だけどよ)
やはり口には出さずにひとりごちて、エマヌエルは周囲に分からないように短く溜息を吐いた。
もし警察がやるべきことをきちんとしてくれていれば、今頃人身売買組織も、兵器開発組織も、そしてこの研究所も一網打尽にされた上で、エマヌエル自身はそんなことは全く知らずに、平凡で退屈な人生の続きを謳歌していた筈なのだから。
「で、貴方達としては捜査してくれる気があるのね?」
「は?」
ツカツカと歩いてきたパース女史は、エマヌエルのすぐ目の前まで来て足を止め、睨むように見下ろした。エマヌエルも警察の一員だとすっかり信じ込んでいるようだ。
こちらを見下ろすダークブルーの瞳が、キンと尖っているのが解る。
「じゃあ貴方達にお願いすることにするわ。あちらの刑事さんはたった今まで仮眠してらしたクセに、全然お暇じゃないそうだから」
奥にいる若い刑事に聞こえるように嫌みを言いながら、有無を言わせぬ表情で威圧してくる。鬼気迫るとはこのことだ。
ただ、この程度の威圧は、エマヌエルやヴァルカにとっては全く威圧になっていないが。
エマヌエルは背後を振り返ると、ヴァルカに唇だけで『どうする?』と訊ねた。
『いいわ。取り敢えず話だけでも聞きましょう。何だかんだであたし達、昨夜は彼女と話す機会がなかったもの』
昨夜、新たな爆発事故現場(ファランの自宅跡)から戻った後、アスラーとウィルヘルムも共に仮本部へ足を運んだのだが、パース女史はとうに帰宅した後だった。
この剣幕では、仮本部に居座るとか何とか言い出しそうな感じだが、警察権限で強引にお帰り願ったというのが真相だろう。
ちなみに、今この場にいる関係者は、パース女史を除くと、仮本部で仮眠していた若い刑事と、エマヌエル、ヴァルカだけだ。
「申し遅れました。私、CUIOレムエ支部所属のクライトンです。お話を伺いますので、別室へおいで願えますでしょうか」
ヴァルカが、CUIOの紋章の入った警察手帳を掲げて、聞いたことのないような改まった口調でパース女史に告げる。
初対面ではぞんざいな口調で話したヴァルカを知っていただけに、パースも面食らったようだが、取り敢えず無言で頷いた彼女を伴って、二人は仮本部を出た。
***
「で、どう思う?」
「どうって……」
判らないことだらけだ。というより、不確定要素が多すぎる。
『昨夜も散々警察に話したのに』とブツブツ言いながらもサラ=パースが話してくれたところによると、一昨日の二十三時頃、ファラン=ザクサーから電話があったらしい。
しかし、用件を言う前にファランの方が黙ってしまった。一拍遅れて爆発音が聞こえた。呼び掛け続けても応答がなかったが、通話は切れてはいなかった。
少々聞き取り辛かったので、内容は何を言っているのかよく判らなかったが、どうやら男性と二、三分のやり取りをした後、通話は本当に切れた。
正確に言えば、取り上げられて切られたようだという。咄嗟のことで録音もできなかったから、警察には何度も同じことを訊かれた挙げ句に信用されていないらしいと、サラは落胆と苛立ちの表情で話を締め括った。
さあこれで話は全部だ、早く捜査を始めろと迫る彼女を宥め賺して帰したのがつい先刻だ。
そして今、エマヌエルとヴァルカは、爆破現場に向かう車の中にいる。
車内には二人きりで、ハンドルを握っているのはヴァルカだった。逃亡の恐れのあるエマヌエルに運転の許可が降りないのは当然である。余談だが、車両訓練はヒューマノティックなら皆受けるので、エマヌエルも運転は一応できる。
「爆破したのが男で、その男があの女を連れ去ったってコトだろ? 問題はそいつが誰なのかってところだけど」
「せめて録音されてれば、もう少し判断がつくのにね」
「判らないフリすんなよ。あんた、何か予測ついてんだろ?」
単刀直入に切り込むと、ヴァルカは一瞬口を噤んだ。
「……そういうあんたは?」
「確証のないコトは言わねぇ。ただ――」
「ただ?」
「あの女の腹にいる子の父親がアイツってトコがものすごく引っ掛かってる」
『アイツ』と言いながら、エマヌエルの脳裏には、濃紺の髪とモスグリーンの瞳を持つ男がひらめくように浮かんで消えた。
「……実はあたしもよ」
同じ人物を思い浮かべたのか、ヴァルカが、溜息混じりに同意を示す。
ファランが『ただの』妊婦で、たまたま自宅の玄関を爆破されてたまたま拉致されたのなら。また、彼女の相手がたまたま裏研究のスタッフで、たまたまあの場でエマヌエルに殺害されたという、ただそれだけの『普通の』人間だったら、エマヌエルにもヴァルカにも、犯人も真相も見当も付かなかっただろう。
けれど、ファランの宿した子の父親が、ヒューマノティックというその一点が、ひたすら嫌な予感を膨張させた。
勿論、考え過ぎならそれに越したことはない。
だが、ヒューマノティックと普通の人間の間に子ができたことを、もし研究所かノワールの関係者が嗅ぎ付けたとしたら。
「ここじゃ今は研究どころじゃねぇもんな……あんたが拉致った犯人ならどうする?」
「訊かないでよ。そんなもの、想像するだけでおぞましいわ」
「気が合うな。俺もだ」
吐き捨てるように言ったヴァルカに、エマヌエルも肩を竦めてため息混じりに同意した。
たまたま人間とヒューマノティックの間の子として母親の胎内に宿った、罪のない赤子でさえも研究の対象としてしか見られない研究者達。その思考回路が理解できないし、考えるだけで吐き気がする。
会話が途切れたところで、丁度爆破現場が見えた。が、ヴァルカはそこを通り過ぎて、更に郊外へ進路を取った。
エマヌエルもそれは承知していたので、何も言わなかった。
今はCUIOが封鎖し、厳戒態勢のフロリアン。
そこへ誰にも気付かれずに侵入し、女性を一人拉致して行ったのだから、どこかにその形跡が残っている筈だ。
今のところ、CUIO内部でそれを発見したという報告はない。内部ばかり調査して、外周へ目を向けていない証拠である。
けれども、ヴァルカがそれを進言したところで聞き入れられないだろうというのが、彼女の見解だった。
公的機関というものは、元来頭が固く、自分のやることが一番正しいと思い込んでいる輩が多い。それは、上部になればなるほど顕著になる。
故に、外部から『正しい』意見が呈示されると逆ギレし、意地でも自分の方針を断行しようとした結果、事態が拗れる場合も少なくない。
ましてや、上層部はヴァルカが普通の人間ではない――ヒューマノティックであることを知っている。
「結局あたしの戦力が欲しいと喚くクセに、人間でないモノの意見なんて聞くかってところよね」
そう言った彼女は、自嘲気味に笑って肩を竦めていた。
ファランの自宅がある場所から十五分ほど走って、住宅街型寮群を抜けると、辺りは閑散として来た。
車道の両脇は森で、見通しは悪い。悪事を企む人間には最適の環境だ。
突き当たりのバリケードまで来て、ヴァルカは車をスローダウンさせる。
バリケードは、恐らくエマヌエルが逃亡するより前からあったと思われた。設置したのは、CUIOではなく研究所側だろう。
森の切れ目にも細かい編み目の囲いが存在していて、その上には有刺鉄線が張り巡らされている。ただ、車道の先にもあるべき金網の扉は、綺麗に破られてその意味を成さなくなっていた。
二人は車から降りて、その外へ足を踏み出す。
見張りの姿はない。けれど、扉があって出入りができる以上、ここにも何名かが見張りに立っていた筈だ。
「行方不明者の報告は?」
「事件があったのが、一昨日だもの。二、三日じゃ現場検証に忙しくて、報告があったとしてもベンに届くまで時間が掛かるでしょうね」
その上、今は支部長を補佐する立場である副支部長が不在だ。
副支部長が、こともあろうにノワールと通じており、しかも情報を自供する前に口を封じられたのだ。
CUIO本部に新しい副官を派遣してくれるよう要請はしたようだが、元々本部では、『レムエ支部へ行く=(イコール)左遷』という認識が成り立っている為、派遣人材が決まらないらしい。
何気なく辺りを見回したエマヌエルは、向かって左側へ泳がせた視線ごと、ふと首の動きを止めた。
距離にしてほんの数メートル。だが、普通の人間の視力ではまず気が付かないであろう、赤いものが目に留まったからだ。
近付いて確認すると、血の跡のように見えた。
血の量はほんの僅かだった。殆ど一滴二滴がそこへ垂れたとしか思えなかった。大量の血痕を消そうと努力した跡とは明らかに違う。最初から、この量しかここへは飛び散っておらず、犯人がそれに気付かなかったとしか思えない。
加えて、その傍の金網と、森が半径数メートルに渡って抉れている。
「エマ?」
「……多分、フォトン・シェルを使ったんだ」
エマヌエルの動きに気付いて自分の後を追ってきたのであろうヴァルカに背後から声を掛けられて、エマヌエルは答えとも独白とも付かない呟きを漏らした。
「……どういうこと」
「見ろよ、この血の量。銃で撃たれたにしちゃ、少なすぎる。爆破の時に音がしたかどうかは、近隣の住民に聞き込みでもしないと何とも言えねぇけど、フォトン・シェルで身体ごと全部吹っ飛ばなきゃこうはならねぇ」
ノワールの訓練施設にいた頃、幾度となくフォトン・シェルで人間を殺す訓練をさせられた。
密着した状態から、どれくらいの距離からまでなら人を殺せるかまで、それこそ幾度となく。
死体ごと吹き飛ぶのは、密着状態から半径二、三メートル以内で使用した場合だ。血も飛沫くが、ほんの僅かな量である。今、この場に残っているように。
周囲に何もなければ、無音で相手を木っ端微塵にすることもできる。けれども、この場を見る限りでは、何らかの爆破音がしたと考えられた。
「スィンセティックを使役できる者の仕業ってコトね……」
これは、不本意ながら、関わらざるを得ないようだ。
内心で舌を打ったその時、ヴァルカの持つ携帯端末の呼び出し音が鳴った。
「はい。ベン?」
端末を耳に宛てて応対したヴァルカの顔色が、微かに曇ったように見えた。
出会ってからこの方、彼女が表情を変えるところをあまり見たことがないので、気の所為かも知れないが。
二言三言、電話の相手とやり取りした後、通話を切った彼女は、踵を返した。エマヌエルは黙ってその後に従う。
車内に戻り、座席に腰を落ち着けるなり、エマヌエルは口を開いた。
「何があった?」
「西の端でまた爆発事故があったそうよ」
「何?」
西の端――北の大陸<ユスティディア>の最西端。
そこに何があるのか、エマヌエルは知らない。
実はそこにこそノワールの本拠があるのだが、護送される時は外は一切見えないので、エマヌエルには『ノワール・研究所間を行き来していた』という認識しかないのだ。
だから、ノワール本拠の位置情報は知らないが、ヴァルカの口調だと、それも研究所絡みのことのように思えた。
今判っている詳細を訊こうと開き掛けた口が、しかし言葉を発することはなかった。代わりに、開いたままの唇が、空気を呑む。
「エマ?」
「シッ!」
不意に不自然に沈黙したエマヌエルを不審に思ったのか、問い掛けるように名を呼んだヴァルカを鋭く制する。
何か、聞こえた気がした。
窓を開ければよりはっきり聞こえる筈だが、窓を開ける音が微かに聞こえた何かを阻害するように思えて、エマヌエルは閉じたままの窓に耳を密着させるようにして聴覚を凝らす。
独特の風切り音。
それを耳に捉えるや、エマヌエルは手を振った。軍隊式の手信号で、『車を出て伏せろ』の意だ。
彼女が自分の指示通りにしたかどうかを確認する余裕はない。同時にドアを蹴り開けると、右手に意識を集中させる。
ジッ、という乾いた電磁音と共に、黒い上着に覆われた腕に青白い筋が跳ねる。
空を見上げると、プラズマを纏った青白いエネルギー弾がこの車目掛けて降って来るのが見えた。弾は一発分。しかし、恐ろしくでかい。直径にして目算五、六メートルはあるだろう。
まともに喰らえば身体ごと消し飛ぶのは間違いなかった。
舌打ちと共にバックステップの要領で地を蹴ると、車の天井に乗り上がる。エマヌエルの手の中のエネルギー弾もその大きさを増していくが、相殺できるかどうかは心許なかった。エネルギーを溜める時間が足りな過ぎる。
着弾まで後五、六秒。
エマヌエルはもう一度舌打ちすると、エネルギー弾を携えた右掌を頭上に構え、手首に空いた左手を添える。しかし、フォトン・シェルはまだ放たない。
着弾ギリギリまでエネルギーを溜めると、着弾の瞬間を狙って壁状にエネルギーを展開した。時間にしてほんの数秒だが、こうすることでフォトン・エネルギーをバリアのように使える。
身体の芯に響くような爆発とも破裂とも付かない音がして、相手のフォトン・シェルとバリアの衝突の余波で弾き飛ばされた。体勢を立て直す隙もない。車から滑り落ちて地面へイヤというほど叩き付けられる。
咄嗟に受け身を取りはしたが、一瞬息が詰まった。
「ッ……てぇ……」
仰向けに引っ繰り返ったまま片目を上げると、言われた通り車の陰に伏せていたヴァルカと視線が合う。伏せていながらも彼女は彼女で、既に銃を抜いて臨戦態勢だ。
何となくばつが悪い気分で、素早く自分の身体の様子をチェックする。取り敢えず大きなダメージがないのを確認すると、身体を弓なりに反らせて戻す勢いで立ち上がった。
一拍遅れて飛来した何者かが地面に降り立つ。強い風が吹き付けて思わず目を庇いながらもその目を凝らす。視界に入った相手の姿に、エマヌエルは瞠目した。
相手は人間ではなかった。全長二・五メートルはあろうかという――鳥、だろうか。左右へ広げて十メートルはありそうな翼を一振り二振りさせて、鉤爪状の足を地面へ着けた。
「貴殿は、スィンセティックだな。いや、ヒューマノティックと言った方がいいか?」
「何……」
その嘴から出たのは、人間の言語だった。
「まさか……フィアスティックか?」
フィアスティックは、動物ベースのスィンセティックで、人語を解し操る。と聞いてはいたが、実物を目にするのは初めてだった。
しかし、だとしたら、何故自分達を攻撃したのか。それにこのフィアスティックは一体どこから――?
「そっちのレディは人間か?」
「いいえ、お仲間よ。残念ながらね」
巨大な鳥に視線を向けられたヴァルカは、乳房を晒け出してヒューマノティックの識別ナンバーを露わにして見せる。
エマヌエルを即時にスィンセティックと認めたのは、フォトン・シールドで相手の攻撃を防いだことから判断したのだろう。体内は盛大に改造されていても、普通の人間とヒューマノティックを外見で区別することは難しい。
「そうか。同胞ならば争う理由はない。済まなかったな」
手短に詫びだけ述べると、鳥型スィンセティックは巨大な翼を再び広げた。
「待て!」
「何か?」
飛び立とうとしていた鳥型スィンセティックは、エマヌエルに鋭く呼び止められて翼を畳むと、小首を傾げた。
「何か、じゃねぇよ。簡単な謝罪だけでなかったコトにする気か?」
「同感だわ」
「どういうことかな。私も暇ではないのだが」
穏やか口調で問い返されて、エマヌエルは早々にブチ切れた。
「図体ばっかりでっかくなりやがって、頭ん中は鳥のままだな! さっきの巨大フォトン・シェル、何とか防ぎ切ったからいいようなもんの、下手すりゃ死んでたんだぞ!? それをお前、『済まなかった』の一言で済むかっつーの! 理由くらい聞かなきゃ割に合わねーよ!」
正直なところ、半ば死を覚悟したのだ。理由如何では、二、三発殴らなければ気が済まない。
ヴァルカは、言いたいことを全部言われたのか、黙って鳥型スィンセティックを睨め上げている。
「お説もっともだな。いや、本当に申し訳ない」
重ねてあっさり謝罪されて、エマヌエルが覚えたのは奇妙な虚脱感だった。
「我々は人間に宣戦布告した」
先刻のフォトン・シェルに匹敵する爆弾発言を、あまりにもサラリと言われたので、一瞬聞き流してしまいそうになる。
でも今何かすごく重大なコトを言わなかったか?
一人混乱するエマヌエルの思考を置き去りに、怪鳥は言葉を接いだ。
「リッケンバッカーにいるリーダーから指令が下ったのでな」
「リッケンバッカー?」
「ノワールの本拠よ。ユスティディアの最西端にあるわ」
聞き覚えのない地名に眉を顰めたエマヌエルに、ヴァルカが説明を補足する。そして、次に彼女の口から出たのは、目の前の怪鳥の言葉を裏付けるものだった。
「さっきのベンの電話も、どうやらそれと関係してそうよ」
「どういうコトだ?」
「そのリッケンバッカーにある軍事施設が爆発炎上して、何者かに占拠されたらしいって」