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Prologue

 目の前には、凄まじい光景が広がっていた。

 兵器として生み出された狂科学の落とし子達――生体合成兵器(スィンセティック)が所狭しと行き交い、軍事施設のスタッフを次々に(ほふ)っている。

 ヒューマノティックもフィアスティックも区別なく、与えられた戦闘能力を最大限に披露していた。

 交錯する血の臭いと、断末魔の悲鳴は、モニター越しに聞くことは出来ないが。

 スタッフと言っても、この軍事施設に勤める人間は、誰しも基礎的な戦闘訓練は受けている。にも関わらず、皆、殆どあっさりと倒されていくのは、ゴンサレスにしてみれば爽快だった。

 いい気味だ。

 胸の内で呟いて、ゴンサレスは唇の端を吊り上げる。

 そもそも、先にこちらを切り捨てたのは向こうだ。同盟相手だと思えばこそ、急を報せてやったのだから、自分を保護するのは当たり前の義務だ。それなのに、その義務を放棄し、挙げ句、自分の頭脳だけを求めてゴーレム化するとは、言語道断。破滅するがいい。

 ゴーレム化の手術が終了していたのは幸いだった。

 ゴーレムとは、一度死んだ人間を、兵器として蘇生させたスィンセティックの一種だ。

 ハロンズに拠れば、彼が必要としていたのは、自分の頭脳で、兵器として必要だったからゴーレム化した訳ではないらしい。恐らく、彼の言いなりになるブレインが必要だっただけだ。だからか、ゴンサレスの体内には、フォトン・シェル製造装置が内蔵されていなかった。

 だが、もう一つ幸いだったのが、必要な知識を残す為に、記憶の初期化を行わなかったらしいことだ。おかげで、自分の身体に、フォトン・シェル製造装置の移植手術を行うことができた。

 ゴーレムは未だ開発途上だったが、記憶や人格をデリートするところは、完全に出来上がっている。その為に行われるのが、チップを脳に埋め込むことによる記憶の初期化だ。

 スィンセティックの洗脳プログラムと同様、稀に初期化が利かない個体もあるが、対象がゴーレムの場合、そういったものはすぐ処分対象として廃棄されることになっている。しかし、ゴンサレスの場合、知識も必要だった為、例外的に記憶の初期化が行われなかったようだ。

 シリンダー型水槽から出た直後を狙って逃走したゴンサレスは、手近にいた一体のスィンセティックからフォトン・シェル製造装置を取り出し、自らの身体に急場凌ぎの移植手術を施した。ゴーレム化した身体には、一度死した故なのか、痛覚がないので麻酔も必要ない。とにかく、このリッケンバッカーの施設を壊滅させ、ハロンズを殺すまで身体が持てばよかった。

 道連れにしてやる。どうせ死ぬのだ。いや、既に一度死んだ身だ。もう、どうなろうと構わなかった。

 監視ルームの一つを乗っ取ったゴンサレスは、そこのパソコンからフロリアンにある筈の原データにハッキングを掛けた。そして、全てのスィンセティックの頭部に埋め込まれた洗脳プログラムを遠隔操作で書き換えることの出来るプログラムを取り寄せ、それを、このリッケンバッカーにいる全スィンセティックに流したのだ。

 上書き内容は、『自分、即ちアドルフ=ゴンサレスの命令に従うこと』『リッケンバッカーの施設を徹底的に破壊すること』『ハロンズの遺体を自分の前に持ってくること』、そして最後に、『自分が死んだら後を追って自殺すること』の四つだ。

 監視ルームのモニターは、今施設内で行われている全ての虐殺劇が、余すところなく映し出されている。自分の描いた筋書き通りに事が運ぶ、この清々しさ。

 こうでなくてはならない。

 やはり、自分の研究成果は完璧なのだ。完璧であらねばならない。だから、AA(ダブル・エー)8164のような不良品が、稼働していてはならないのだ。

 様子を見たところ、この身体も暫くは持ちそうだ。

 自分の意のままになる殺戮兵器集団を持って、今度はフロリアンに乗り込んでやる。完全無欠の研究成果に傷を付ける、あの不良品を始末しなければ。この戦力なら、CUIOも敵ではない。

 腹の底からこみ上げて来るのは、愉快で仕方ないとしか表現しようのない、笑い。

 低い地底から這い上がるようにクレッシェンドするその声が、最高音に到達した途端、唐突に室内は静かになった。

 ゴンサレスの口は、笑った形のまま固まり、目は見開かれている。首から下は、その時には胴体から切り離されていた。

 ゴロリと転がった首の数メートル向こうへ着地したのは、大型の犬――否、狼だ。爛々と光った目が、遅れて地に伏す肉体を、追うともなしに見つめる。

「短い天下だったな」

 聞く者のいなかった嘲るような呟きが、誰の口から漏れたものなのか。

 狼は椅子に飛び乗ると、器用にキーボードを操作していく。

「一つだけ、礼を言おう。アドルフ=ゴンサレス」

 狼の右前足が、エンターキーを押した。

「このプログラムを、取り寄せておいてくれたことをな」


***


 眼下で、盛大に膨らんだ入道雲のような黒煙が上がっている。その隙間に、石炭が燃えているように赤々と明滅する炎が見える。

 ヘリコプターに乗り込んでそれを見下ろしながら、ハロンズは(ほぞ)を噛む思いだった。

 今回は、完全に自分の油断と失態。それ以外の何者でもない。

 認めるのは心底腹立たしいが、認めなければまた同じ過ちを繰り返すだろう。

 この自分が、まさかこんな予想を超えた出来事に遭遇するなんて――ゴンサレスも随分と思い切ったことをしでかしてくれたものだ。

 生きた人間であれ、死んだ人間であれ、その人間の記憶や知識だけを抽出する技術はまだ開発途上だ。だからこそ、兵器でないゴーレムとして蘇生させるべく、記憶の初期化を行わなかった。それが、見事に裏目に出た形だ。

 ゴンサレスはゴンサレスで、独自に研究を行っていたのだろう。まんまと施設にいたスィンセティックを全て乗っ取られてしまった。

 舌打ちが漏れる。

 ただ、スィンセティックはあの施設にいるものが全てではない。西の大陸<ギゼレ・エレ・マブリブ>の北西半島<アルスイーデ>の西端に第二拠点の倉庫がある。そこの地下へ保管してあるものと、後は、フロリアン――

(いや、あそこはもうダメか)

 フロリアンは、全てCUIOが押さえてしまっている。少なくとも、ゴンサレスの話ではそういうことだった。

 しかし、戦力や商品在庫の話は別にしても、ハロンズには第二拠点へ避難する前に、どうしてもフロリアンへ行かなければならない理由があった。

「ボスー。これからどうするんです? アルスイーデに向かいますか?」

 ヘリコプターを操縦する男が、『これから散歩にでも行きましょうか』とでも言うような、軽い口調で指示を求めてくる。

 スラムの裏町で、スリや盗みをして細々と生きていた頃からの友で、今は片腕と信を置く男の一人、ハワード=グウィンだ。

「いや……」

 ハロンズは、腕組みをして、どこともつかない方向を見つめる。真剣な考え事をする際の、彼の癖だった。

 今夜、ゴンサレスが暴挙を起こすより二日ほど早く、フロリアンに潜り込ませた部下から面白い連絡が入っていた。

 どうやら裏切り者だったらしいウォレス=パターソンの恋人、ファラン=ザクサーが、フロリアンの寮自宅へ戻った。その三日後、彼女は寮街にあるドラッグ・ストアで、妊娠検査薬を購入したらしい。

 それだけなら、何も興味を引くに値しないが、重要なのは、ウォレス=パターソンがヒューマノティックへの改造手術を受け、内輪の実験体となっていた点だ。その彼との間にできた子供。中々興味深い研究素材だ。

 クス、と小さく笑う。

(勝負はまだ詰んだ訳じゃないみたいだね)

 ハロンズは、グウィンにフロリアンへ寄ってくれるよう指示を出すと、シートに深く背を沈めて息を吐いた。


***


 ファランは、薄暗い室内に、一人ぼんやりと座っていた。

 すっきりとしたインテリアの並ぶリビングに、ファラン以外の人間はいない。

 一人暮らしの寮にはペットも飼っていないし、血の繋がった家族も、とうに失っていた。

 ウォレスが『本当に』亡くなってから、一週間。彼の捜索の為に長期で取った休暇が、思わぬ形で役に立っていた。今の精神状態では、すぐに職場へ戻ったとしても、仕事にならなかったに違いない。

 セカンド・ラボの病院で、見事な黒髪を持つ少年と、紅い髪の少女と口論した後、ファランはそのまま自宅のあるフロリアン、ファースト・ラボの寮自宅へと戻っていた。

 ウォレスを失っただけなら、きっと今でも放心状態で、寮まで戻ることも出来なかっただろう。

 お腹に、ウォレスの子を授かったかも知れないことが、ここへ戻るまでのファランを辛うじて支えていた。

 何事もなければ――ウォレスが生きていたあの日常のまま、このことが判っていれば、ファランは何の躊躇いもなく、ファースト・ラボ付属の病院で妊娠の是非を確認していた。だが、ウォレスはもう、本当にこの世からいなくなった。まともに、遺体一つ残さずに。

 常ならぬその状況と、何より、あの紅い髪を持つ少女の言っていたことが、心の奥底に引っかかっていた。

『ヒューマノティックと人間との間に出来た子供なんて、あいつらが喜んで飛び付きそうな研究素材じゃない? 子供と離されたくなかったら、妊娠を研究所に知られないようにすることね』

 あの時は、頭に血が上っていて、うまく状況を整理する余裕もなかった。けれども、冷静に思い返せば、あの時の少女は、底なしに昏い、冷たい目をしていた。とても、冗談や、人を揶揄う時のそれではない。

(……ヒューマノティック……)

 それが何なのか、ファランには未だによく解っていない。

 ただ、とにかく、ウォレスが何らかの肉体改造手術を受けたことだけは理解せざるを得なかった。

 少女の言葉を真に受けた訳では、勿論ない。

 しかし、もしも彼女の言ったことが本当だとしたら。そして、もし妊娠が事実だとしたら、彼の子まで失うなんて耐えられない。

 彼女の言う通りにするのは心底癪だったが、ファランは最終的に妊娠の成否を自分だけで確認する方を選んだ。子供を奪われるかも知れないことに比べたら、自分の意地など何ほどのことだろうか。

 フロリアンに戻って三日後、ファランは郊外のドラッグストアで妊娠検査薬を購入した。結果は陽性。現在何ヶ月目かを知るにはプロの診察を受けねば判らないだろうが、確かに彼の子がこのお腹の中にいる。

 それを確認してから四日、ファランは悩み続けていた。下手にラボの付属病院へ駆け込めば、どうなるか判らない。今はCUIOが駐留しているから、裏の研究などしていられまい、とは思うが、このところ続く非常事態が、ファランを不安にさせていた。

 まだ膨らんでもいない下腹部に、そっと手を当てる。

(……守らなきゃ)

 彼が残してくれた忘れ形見を、失うようなことにでもなったら、彼に申し訳ない。それよりも、自分が耐えられないだろう。今度こそ狂ってしまう。

 キュッと拳を握り締める。

 こうなると、迂闊にもフロリアンへ戻ってしまったことが、ファランには悔やまれた。

 少なくとも、セカンド・ラボには、顔見知りとなったCUIO・レムエ支部の長、アスラー警部がいる。本当にいけ好かないが、あの少女も確かCUIOの刑事だ。特に、あの少女や黒髪の少年は、研究所の裏側に詳しそうだったし、何か策があるかも知れない。

 個人的な憎しみは、一時脇へ置くことにした。今は何よりも、子供のことが優先だ。

 明日にでも、もう一度セカンド・ラボへ行こう。

 そう決めて、時計を見上げると、もう十一時過ぎだった。

(そろそろ寝なくちゃ)

 睡眠不足は、身体に悪い。もう、自分一人の身体ではないのだ。

 もう一度、愛おしげに下腹部にそっと手を添えると、ファランは立ち上がった。

 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、その時だった。

 ギクリ、と身体が強張る。

 常の時だとしても、深夜の来客は碌なものではない。加えて、今は腹の子のこともあり、この時のファランは用心深くなっていた。

 その所為だろうか。奇妙な胸騒ぎを覚えて、無意識に庇うように、腹部に手を当てる。鼓動が、いつもと違うリズムで脈を打ち始める。

 落ち着かなければ。

 必死で自分に言い聞かせて、胸元を押さえる。

 その間にも、嫌な予感に追い打ちをかけるように、呼び鈴はしつこく鳴り続けていた。早く出て来い。少なくとも、ファランにはそう言わんばかりに聞こえた。

 今、室内を照らすのは、ソファ脇に置いた小さなランプだ。普通に室内の明かりを点けていなかったのは幸いだった。取り敢えず、これで明日誰かに会って何か言われたとしても、熟睡していたという言い訳は立つ。

 けれど、そのランプも、すぐにスイッチを切るような迂闊な真似はしなかった。呼び鈴に気付いている、と非常識な来訪者に教えてやることになる。普段、天然だの思考回路が常春だのと陰口を叩かれることもあるファランだが、仮にも研究職に就くくらいの頭脳を持っている人間だ。非常時に、そこまで考えるくらいの頭はあった。

 玄関を気にしながら、ファランは出来る限り静かに寝室へと移動する。

 未だ鳴り続ける呼び鈴に、追い立てられている気持ちになる。平静を保とうと深呼吸しながら、ファランは、携帯端末を手に取った。瞬時躊躇った末に、電話帳から番号を呼び出し、通話ボタンを押す。

 それを耳に当てて、相手が出るのを待つ合間も、ファランはじっとしてはいなかった。普段の彼女からは考えられない機敏な動きで、キャリーカートに手を伸ばす。先日、セカンド・ラボのあるリーフェンから戻ってから、うまく気持ちの整理がつかなかった所為で、荷解きをしていなかったのも幸いした。

「お願い……出て、サラ!」

 上着を羽織りながら、祈るように呟いた次の瞬間、まるでそれが聞こえたかのようなタイミングで、呼び出し音が途切れた。

『はい……もしもし』

 心地よい眠りの底から無理矢理引き戻されました、と意訳できそうな声音が応答する。

 それを済まないと思いつつも、ファランには他に助けを求められる人間を知らなかった。ウォレスの母親でも良かったが、彼女も自分と同じように、大切な息子を亡くして失意の底にいる。その彼女に、これまでの経緯を、今この状況で冷静に順序立てて話せる自信はなかった。

「サラ? あたし」

『……ファラン!? あんた今まで一体どうしてたの!?』

 相手がファランだと判って、重い眠気も吹き飛んだのか、一切の前置きを無視した声が鼓膜を突き破る勢いで返って来た。

「ごめんなさい……後で詳しいことは必ず話すから。今は何も聞かずに助けて欲しいの」

『助ける……?』

 訝しげに訊ねて来たサラだったが、すぐに頭を切り替えたらしい。

『何があったの? あたしは何をすればいい?』

「実は」

 その時、ふと違和感を覚えて、ファランは口を噤んだ。何かがおかしい。一体、何が――瞬間、玄関から爆音がして、震動が襲う。同時に、いつの間にか呼び鈴の音がしなくなっていたのだと気付く。

 ファランは、咄嗟に通話状態にした端末を、そのまま上着の内ポケットへ滑り込ませた。冬用のジャケットなので、厚い布地の向こうから聞こえる音声がどれほどのものになるかは賭に近かったが、もし、サラが異変を感じてくれれば、何らかの手は打ってくれるだろう。

 しかし、ファラン自身も、座して危険を待つつもりはなかった。

 キャリーカートを片手に、ドアノブに手を掛ける。まだ小刻みに震動は続いていたが、一刻も早く逃げなければという気持ちが先に立つ。

 もう一度、落ち着いて、と自身に言い聞かせ、そっと扉を押し開けた。出来るだけ顔を出さないように、視線だけで廊下を伺おうとしたその時、硬質な何かが側頭部へ押し当てられた。

「ファラン=ザクサーさん?」

 答えられない。

 まるで金縛りにでも遭ったかのように、身体だけでなく、顎も唇も、舌まで凍り付いた錯覚に陥る。

「良かった。ご無事だったんですね」

 相手は、言うと同時に、側頭部へ押し付けていた何かを、スッと退いた。

「ああ、動かれても大丈夫。貴女に危害を加えたりはしません」

 危害を加えない? この人は一体何を言っているのだろう。

 無意識に屈めていた膝と腰をぎくしゃくと動かして姿勢を伸ばし、どうにか顔を上げる。

 視界にまず飛び込んで来たのは、手前に立っている軍人のような出で立ちの男だ。今しも、戦場へ赴かんばかりの格好で、完全装備とはこのことである。しかし、自分に話し掛けたのはこの男でないのはすぐに解った。

 その後ろに立っている、色素の薄い髪の男が、声の主だ。

 室内には明かりがなく、更に、煙のようなものが立ち込めているので尚のこと視界が悪い。色までの判別は出来なかったが、整った顔立ちの男が、にっこり笑って立っている。

 正確な年齢が捉えられない容姿だった。

 人好きのする笑顔のようにも見えたが、よく気を付けて見れば、目だけは笑っていなかった。

「お迎えに来たんですよ。ここは――いえ、ここだけではありません。間もなくユスティディアは戦場になりますから」

「どういう、意味ですか」

 ファランは、どうにか時間を引き延ばそうと試みる。もし、電話の向こうに音声が届いていれば、サラが救援を呼んでくれるかも知れない。

「いやあ、心配しました。チャイムを鳴らしても中々出ておいでにならないので、強硬手段に出させて貰ったんです。あ、玄関、後で弁償しますね」

 男は、こちらの言葉をまるで聞いていなかった。『今日はいい天気ですねぇ』とでも言うようなのんびりとした口調で話していながら、内容は思いっ切り不穏以外の何者でもない。

 そして、次にその口が紡ぎだしたのは、更に不穏な言葉だった。

「もっとも――戻って来るようなことがあれば、の話ですけれど」

 息を呑んだ。

 混乱しそうになる頭を必死で宥めながら、ファランは懸命に男の真意を探ろうとした。

「それは――それは、どういう」

「一緒に来て下さい」

 問う言葉を遮り、男が優しくファランの手を取る。仕草は紳士的だったが、何故か背筋が凍る気がした。振り払いたい衝動を、残った理性でどうにか抑え込む。

 振り払った途端、目の前の男の態度が、暴力的なものに変わるのではないかという恐怖があったのだ。

「来て、下さいますね」

「どこへ、ですか。どうして私が」

「貴女、今妊娠しておられますよね」

 何故それを、と口から飛び出そうになるのをどうにか堪える。妊娠のことを、今日初めて会う男がどうして知っているのか。

 理由が解らないということが、今は何より恐ろしかった。

「貴女が自分の意思で来て下さらないと、また強硬手段を執らないといけなくなる。でも、それは避けたいんですよね」

 脇から男に近付いた人物が、無言で手にした薄い長方形のケースを恭しく差し出す。中から、注射器を取り出した男は、満面の笑みを浮かべて言った。

「お腹が膨らんでいないということは、まだ二ヶ月か三ヶ月か……ちょっとした刺激で流産しやすい時期ですよね。迂闊に鎮静剤とか、打ちたくないんですよ。胎児にどんな影響があるか……いえ、僕も医師免許は持っていますし、胎児に影響を与えない薬を選んだつもりですけど、絶対はありませんから」

 心臓が、引っ繰り返るかと思った。

 乱暴な押し込みの理由も、どこへ同行して欲しいかも明かさず、ただ共に来いという男の目的が、穏やかなものである筈がない。しかも、ファランが首を縦に振らなければ、赤子を殺すことも辞さないという。その真意を読みとれないほど、ファランも鈍くはなかった。

「僕は出来ればその子を殺したくない。貴女も――でしょう?」

 まるで愛を囁くような甘い声音が、平然と象る脅し文句に、ファランの精神は動転寸前だった。

「快適な出産環境を整えさせて頂きます。その子を無事に生みたければ、僕と来た方が賢明ですよ」

 男が浮かべたのは、人を惑わす為でなく、優しく脅して自分の意図通りにする、そんな類の『悪魔の微笑み』だった。


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