Epilogue
遠ざかっていく。
自分の意思ではなく、他人に担ぎ上げられて。何が何だか解らない内に、彼から離される。
嫌。何。
彼に、何をする気なの。
貴女も、貴方も――
止めて――止めて。
月明かりだけの暗がりで、少年が何をしたのかは、ファランには判らない。けれど、そこから光が溢れた。
真っ白な閃光に灼かれた視界が元通りになった時、もう彼はどこにもいなかった。
左腕を一本だけ遺して。
***
音もなく扉をスライドさせて、室内へ足を踏み入れる。
そこは、セカンド・ラボにある、無事な病棟の個室だった。端正な顔立ちの少年一人だけが、そこに設えられたベッドで眠っている。ただ、その顔の半分は、酸素マスクに隠れて全てを見ることは叶わない。
相当量の血を失ったであろう少年の顔は、群青の闇色も手伝い、より白く見えた。
彼も、先日の一件で重傷を負っていた。
詳しいことはファランには知らされていないが、聞くところに依ると、右脇腹から背中に掛けて何かが貫通したらしい。
けれど、当然の報いだと思う。
彼は、ウォレスを殺したのだ。
何をどうしたのかは、今もってファランには理解出来なかった。けれど、確かなのは、ウォレスがもう本当にこの世にいないという事実。
この子が、奪った。
今度こそ共に歩める筈だった彼との未来を、懇願を無視してあんなにもあっさりと。
(ひどい……!)
どうして――どうして。
あんなに、償うと言ったのに。
あんなに赦しを乞うたのに。
生きてさえいれば、いくらだって償えるのに。
なのに、何故――
「どうして……貴方は生きているのよ」
喉の奥から、自分でも聞いたことのないような低い声が絞り出る。眠る相手には聞こえないと解っていても、言わずにおれなかった。
「どうして、あの人を殺してまで生きてるの……!?」
「――貴女こそ、どうしてここへ?」
唐突に背後から声を掛けられて、ビクッと身体が震えた。振り返った視線の先にいたのは、紅い髪を持つ、あの少女だ。
「まさか、エマのお見舞いでもないでしょう?」
流石に恋人を殺されてまで、そんなおめでたいこと出来る訳ないわよね。
そう付け加えると、少女はうっすらと笑みを浮かべる。冷たい微笑みだった。
「あ……あ、貴女こそ、何でこんなところにいるのよ。貴女の傷は浅いって聞いたわ」
それに、ここ、個室よ?
そう付け加え、いつもと違うリズムでバクバクと脈打つ心臓を宥めるように胸元で手を組みながら、少女を見返す。声を掛けられるまで、全く気配が感じられなかったのだ。
「あたしは警護かしら。彼のね」
少女が、無造作に歩を進める。その動きは全く何も考えていない歩き方のように見えて、その実一分の隙もない。
その動きのまま、少年の横たわるベッドの端へ軽く腰を落とす。キシ、という音が微かに響いて、ベッドが少女の体重を受け止めた。
「け、警護って」
そんなことをしなくても、彼も強いんじゃないの。
口に出せなかった続きを察したのか、少女はまた薄く微笑った。
「ヒューマノティックだって、重傷負って意識が吹っ飛んじゃえば、普通の人間と同じよ。特に、寝首掻きたい人間にとっては絶好の機会だもの」
ねぇ? というように小首を傾げる仕草が、何故かちっとも可愛らしく見えない。
「べ、別に、私は」
「そのテの人間じゃない、って? そうよね。生きていれば償える、なんておめでたい御託並べるくらいだから、そんなマネはしないわよね。別に、貴女のこと言った訳じゃなかったんだけど」
勘違いさせたなら、ごめんなさいね。
そう続けられた嫌味は、返って露骨だった。普段、言葉の裏を読むという習慣のないファランにも、いっそ解り易過ぎて、何とも居心地が悪い。
そもそも、何故自分が責められなければならないのだろう。特段、悪いことをした訳ではないのに。寧ろ、どちらかと言えば、彼らの方が謝るべき立場ではないのか。
そう思うと、今更ながら腹の底から沸々と沸いて来る感情があった。
「……貴女には、嫌味よりも先にあたしに言うべき言葉があるんじゃないの」
薄暗い室内では、色の判別できない瞳を正面から見据える。
「あら、嫌味だって解った?」
わざとらしく驚いて見せる少女を無視して続ける。
「貴女だけじゃない。そこで寝てる彼もよ。命拾いしたのが運の尽きね。死んだ方がマシだったって思うくらい償いをして貰うわ」
「どういうコト?」
キョトンと瞠った瞳は、ファランが何を言っているのか理解出来ない、と言いたげな色がありありと浮かんでいる。それが、更にファランを苛立たせた。
「どういうコト、じゃないわよ! 私、言ったわ! 償うって! 気が済むまで何でもするから、あの人の命だけは許してって! なのに、どうしてあの人を殺したの!? どうして、貴女は止めなかったの!?」
「あたしも言ったわ。アイツは救いようのない悪魔だってね」
「悪魔ですって!? 貴女にあの人の何が解るって言うのよ!」
「貴女こそ、何を知ってるって言うの」
「知ってるわよ! 彼を小さい時から知ってるわ! 優しくて努力家で、才能があって……人工臓器の研究に誰より熱心だった! 生きていれば内臓の病気で死ぬかも知れない人をこれからも救える筈だった! そうすることで償いにもなる筈だったのに……!!」
「あたしはあいつ個人だけのこと言ってるんじゃないわ。裏のプロジェクトチームのえげつなさをどこまで知ってるかって訊いてるのよ」
「話をはぐらかさないで!」
最早、理屈などなかった。
ただ、悔しい。悔しくて、悲しかった。
あの時、あの瞬間に時間を戻せたらと、あれから幾度願ったか知れない。
目の前にいる少年と少女も憎いが、一番許せないのは他でもない、自分自身だ。最初に再会した時に、何故しがみついてでも止めなかったのか。
あの時、彼が少年にどういう用向きがあって病室へ行ったのか、どういう経緯で彼と少年が取っ組み合うことになったのか、ウォレスが死んでしまった今となっては永久に判らない。
けれど、自分さえあの時もっとしっかりと彼を引き留めていたらという思いは確かにあった。
しかし、今は直視出来ない。
何かの、誰かの所為にして憤りをぶつけないとおかしくなってしまいそうだった。だから、自分の過ちには敢えて蓋をする。見ない振りをして、ウォレスの死の第二の原因である彼らを糾弾するのかも知れない。
「……返してよ」
他の何もかもが、もうどうでもよかった。
「私に、彼を返してよ!!」
望むのは、それだけだ。
人工臓器の研究も、臓器の病に苦しむ人も、どうでもいい。彼と歩む未来が戻るなら、何を犠牲にしても惜しくはない。
「……なら、あんたは俺達に何を返してくれる?」
「え……?」
不意に、それまで会話の中にいなかった声音が割り込んで来て、ファランは目を見開く。
いつしか溢れていた涙のヴェールの向こうから、醒めた色を宿した瞳がこちらを見つめていた。
***
「あー……やっぱ起こした?」
鬱陶しく喚くファランよりも、手近から聞こえた声の主に視線を移す。どこかばつの悪そうな顔をしたヴァルカが、自分を見下ろしていた。位置的には、ベッドの端へ軽く腰掛けているらしいのが判る。
「そりゃな。こんだけ大音量で我鳴られながら寝てられるほど神経図太くないんで」
それにしても、酸素マスクがあると、どうも喋り辛い。しかし、肩を脱臼した腕はぎっちりと固定され、左腕には点滴用の針が刺さっている。
少し迷った末、結局左腕の方をそろりと動かして、酸素マスクを外した。
「あ、ちょっと!」
ヴァルカが慌てて、まだそれを外すなというアクションで手を伸ばす。普段、あまり感情を率直に表に出さない彼女には珍しいことだ。前回傷を負った時よりも遙かに重傷だったものだから、彼女なりに心配してくれているのだろうか。
「へーきだよ。少しの間くらいなら」
けれど、エマヌエルはそれを軽く往なした。
幸い、心臓部分に傷は付いていなかったらしい。ただ、右側の肺に当たる場所は下の方が少しへしゃげていたようだ。両方とも、意識が戻ってからウィルヘルムに聞いたことで、自分が感知したものではない。しかし、普通の人間ならとっくに墓の下だろう、というようなことも言い添えられた。
無論、その場で青くなるようなヘマはしなかった筈だが、背筋が冷たくなったのは否めない。
「……それで? 仮に俺が彼氏を返したとして、だ。そうしたら、あんたは俺に何を返してくれる?」
改めてファランの方に目を向けると、ファランは涙が溢れた目をしばたいた。
「何を……って……」
「俺としては、まずまともな身体。正確に言やあ臓器だな。俺が生まれ持った臓器と、こんな身体にならなきゃ送れた筈のごくフツーの退屈な人生。もし、あの時あの瞬間に戻ってやり直せるとして、この二つ、あんたが即座に返してくれると約束してくれたなら、俺は別にあんたの彼氏の命まで取ろうと思わなかったろうな」
「何を……勝手なことを」
「勝手だ?」
自分のしたことを棚に上げて、と言いたげなファランの瞳を、エマヌエルは横目で睨み返す。
「じゃあ、あんたの彼氏や、そのお仲間がしたことは勝手じゃないのか。ヒトの身体無断でかっ捌いて、本人に断りもなく中身全部取り上げといて、空になった身体にフォトン・シェル製造装置みたいに物騒なモン突っ込みやがって、挙げ句の言い分が『助けてやったから、感謝しろ』だぜ? こーいうの勝手って言わないのか。同じコトされて、あんた感謝出来るか?」
「それは」
「『放置されてればなかった命です。助けてくれて、ありがとう』って素面で言えるか? あんたが俺と全く同じ目に遭っても尚且つそれ、あのえげつない研究者共に素直に言えるってんなら、俺も少し考えるけどな」
「そんなの、あの人がやったって決まった訳じゃ」
「決まった訳じゃないって? じゃあ、あの裏プロジェクトチームの名簿は何なんだよ」
「名簿なんて文字の羅列じゃない! 何の証拠もないわ。証拠もないのにあの人を殺したんだとしたら」
「証拠ならあるわよ。彼が、自分もヒューマノティックとして改造手術を受けた上で、自分の意思で連中に荷担していたことが、紛れもない証拠よ」
「彼だって無理矢理改造されたのかも知れないわ! 話を聞きもしないで決め付けて殺すなんて最低っ……!」
そこで不自然にファランが言葉を途切れさせた。
エマヌエルもヴァルカも不審に思いながら、それぞれに彼女を注視する。
ファランは、二人の視線に構う余裕はないようだった。口元を押さえて俯いている。泣いているのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
「……具合でも悪いの?」
今まで口論をしていた手前、少々気まずくはあったが、ここで倒れられても寝覚めが悪い。そう思ったのはヴァルカも同じだったようで、溜息交じりに声を掛けたのは彼女の方だった。
「……な、何でもないわよ」
ファランにしても、恋人の仇に心配されるなど願い下げなのだろう。
強がって見せてはいたが、小刻みに震えている。室内が明るければ、顔色が青ざめて見えたに違いない。
「……ねぇ。貴女、もしかして、あの男とはもう経験済み?」
何に気付いたのか、ヴァルカが唐突に何の脈絡もなくファランに問い掛ける。
エマヌエルには、一瞬何のことか判らなかった。
だがファランは、ガバッという擬音が聞こえそうな勢いで顔を上げた。顔色はやはり判らない。しかし、何とも表現のしようのない複雑な表情で、陸に打ち上げられた魚よろしく、口をパクパクとさせている。
「……な、何を、」
「この付属病院、確か産婦人科もあったわよね」
そこまで聞いて、やっとエマヌエルにも事態を呑み込むことが出来た。十歳以降の生活環境柄、男女間で行われる、所謂『色事』の内容くらいは、エマヌエルでも知っている。
「けど、確認はこの病院内では受けないことをお勧めするわ」
「……何ですって?」
それまでの会話内容を忘れたような顔をしていたファランが、急に現実に戻ったように険しい視線をヴァルカに向ける。
「どういう意味? 第一、そこまで貴女に指図される覚えはないわ」
「あら。言わないと解らない?」
ヴァルカの表情は、ベッドで寝た姿勢で、彼女の背後しか見えないエマヌエルには判らない。ただ、その凛とした声音が、氷のように凍てついたのだけは、瞬時に理解出来た。
「ヒューマノティックと、普通の人間の間に出来た子供なんて、あいつらが喜んで飛び付きそうな素材じゃない? 今の状況で、まともに裏側の研究が続けていられるかは知らないけど、スィンセティックの開発に関わってるのはここだけじゃない。子供と引き離されたくなければ、研究所にまず妊娠を知られないようにすることね」
「そんな……」
唖然と見開かれた瞳が、すぐに憎悪を帯びる。
「そんなこと」
ファランは、顎を引いてこちらを睨み据えると、叩き付けるように叫んだ。
「貴女達の言うことなんて、信じるもんですか!」
言うなり踵を返して部屋を飛び出して行く。ヒールの音が深夜に近い廊下を、高い音を立てて遠ざかって行った。
暫し、室内に静寂が満ちる。
「……何つーか」
「殆ど捨て台詞ね」
「だな」
呆然と呟き合った後、ふと視線が合う。
「それにしても、……聞いててホント清々しいくらいね。あそこまで行くとちょっと同情するわ」
「……本音は羨ましい、だろ」
力なく唇の端を上げて見せると、ヴァルカが苦笑で応える。
エマヌエルもヴァルカも――彼らの年にしては裏の世界を知り過ぎるほどに知っている。だから、自分達よりも明らかに年上のファランが『何も知らない』ことが腹立たしいほどに羨ましかった。
迷いなく『キレイゴト』を口に出来る潔癖さと純真さは、直視するには眩し過ぎる。それ故に、彼女の言い分は聞いていて苛立つのかも知れない。自分達がもう決して戻れない場所から、躊躇うことなく正論を口に出来るその初々しさは、ひどく妬ましい気がした。
「……ところで、身体は平気? ほら、もうちゃんと酸素マスクして」
「まだいいって」
感傷をシャットアウトするかのように、首に掛ける形になっている酸素マスクにヴァルカの手が伸びる。エマヌエルは、それを煩わしげに払う仕草をした。
「それよりいくつか訊きたいことがある」
もうマスクをするほどの状態ではないので、実は少し鬱陶しいというのもある。それに、話をするのならもう暫くこのままの方が都合が良かった。
「その後の捜査状況、でしょ」
「ああ」
件の男――ウォレス=パターソンと闘り合った直後から、腹部に負った傷が原因でエマヌエルは意識不明の状態だった。
特別集中治療室から普通の個室へ移ったのが今日の昼間で、最初に目を覚ましたのは先週の話だ。ただ、三日ほど前までは意識が戻ったと言っても怪我に因る熱が引いておらずぼんやりしていたので、コトの顛末を聞く余裕はなかった。
「……例のダイイング・メッセージの血液の主はあの男だったわ。残ったあいつの腕と血液のDNAが完全に一致したそうよ」
大方、あんたに罪を被せようとして、遺体の傍にあんたの製造ナンバーを書いて回ってたってトコかしら。
そう言って肩を竦めるヴァルカから、エマヌエルはそっと視線を外すようにして目を伏せる。
被せるも何も、あの爆破事故からこっちの連続殺人は自分の仕業だ。だからと言って、それを悔いる気はないし、ましてや償うなど見当違いも甚だしい。犯した『罪』は一つもないのだから。
今エマヌエルが恐れているのは、研究所の資料を見たCUIOが、スィンセティックを無力化する方法を以て自分を拘束すること、それに因って復讐が遂げられなくなることだ。
「それと、地下に収監されてた金髪の男を殺したのもウォレス=パターソンだったわ」
「え?」
「あんたの右腹に空いてた傷口と、金髪の男の致命傷が酷似してたの。微粒子とか残存遺伝子レベルまで調べてくれたのはドクターだけど。要らない借り、作っちゃった気分ね」
どこか疲れたような溜息を吐くと、ヴァルカはもう一度肩を竦めて、髪を掻き上げる。
「……あいつなら、地下に仕掛けられたフォトンの能力制御機能をオフにする方法、知っててもおかしくないってコトか」
「そ。道理で超聴覚の射程圏内だったのに爆音も聞こえなかった訳よ。あの男の『能力』なら、爆発させなくても相手の身体に風穴は開けられるものね」
それでいて、傷口は一見フォトン・シェルに因る傷跡によく似ている。同じ能力を持つエマヌエルに嫌疑を掛けるのは、造作もなかったという訳だ。
「それと、あの男も死んだわ」
「あの男?」
「レムエの副支部長。あの後、ベンが様子見に行ったでしょう? その時にはもうマックイーン以下六名、全員死んでたって。どてっ腹に風穴開けて」
「それもあいつの仕業か」
「多分。ご丁寧にマックイーン達が拘束されてた部屋に通じる監視ルームの諸々も破壊されてたから、確証はないけど。ただ、血のダイイング・メッセージはなかった。これに関してだけはあんたに嫌疑を掛けるのが難しいのはあっちも解ってたみたいね」
エマヌエルも意識不明だった時だ。そんな時期に、下手にダイイング・メッセージを偽造しては、返って捜査の目をエマヌエルから反らすことになる。
だが、それまで自分を合法的に追い詰める動きをして来た男が、そこへ来て何故そんなヘマをしたのか。
「兄貴の復讐を遂げることへの焦りか……或いは……」
「あんたを追い詰める時期を外してでも早急に彼らの口を封じる必要があったか、ね」
恐らく両方だろう。
「これでマグネタイン弾の出所の割り出しが難しくなったって、ベンが嘆いてたわ」
「あんたが助言してやればいいだろ。その為にここにいるんじゃないのか」
ヴァルカも、自分と同じように、マックイーンの背景にあるノワールの影には気付いている。それでいて、それをCUIOに告げない理由も、エマヌエルには何となく察しがついていた。
ついていながら、皮肉交じりに問うと、おおよそ予想通りの答えが返って来る。
「バカね。あっちはあたしをアテにしてかなり寄りかかってるけど、あたしはあっちに背中預けた覚えはないわ」
だろうな、と声には乗せずにエマヌエルは胸の内で呟く。
彼女が欲しいのは、CUIOの情報網だ。
何だかんだ言って、公権力の情報というのはバカに出来ない。だから、適当に手を貸す振りをしながら必要な情報だけを吸い取り、そして恐らく目的を遂げた後は用なし、といったところだろう。自分が彼女なら、間違いなくそうしている。
公権力による正当な裁き。それも魅力的には違いないが、自分にはそれよりももっと欲しいものがある。
この手で、この能力でもぎ取る彼らの命。
あんな連中がのさばっていい思いをしているなんて、耐えられない。
その感情は、正義感でも何でもない、ただの私怨だ。けれど、それが何だというのだろう。
望まないのに、こんな肉体にされた。それを恨んで、何がいけない?
「必要だから利用してるだけよ。彼らも厳密に言えば仲間でも何でもないわ。向こうだって、あたしを都合の良い戦力くらいにしか思ってないんだからお互い様よ」
斜め後ろから見えた横顔の中で、ヴァルカが微かに目を伏せる。
「他人なんて、誰も信じられない。人間は結局あたしを……あたし達を、自分達と同じ『ヒト』としては扱ってくれないから」
「……ああ」
痛いほど、解る。
特に、科学者達は、同じ人間でありながら、自分達を実験動物として扱った。そして、普段はモルモットとしてしか見ないクセに、場合によっては身勝手にも自分達の『欲』を満たす為にこちらを利用するのだ。
(――ダメだ)
しかし、エマヌエルは、そこで目を閉じた。過去を遡るその作業に、強制終了を掛ける。
思い出したくない。出来ることなら、忘れ去ってしまいたい。まだ耐えることが出来た戦闘訓練よりも、もっとおぞましいその記憶だけは。
「エマ?」
呼ばれて瞼を上げる。先刻まで側面しか見えなかったヴァルカの顔が、まっすぐこちらを見下ろしていた。
「何」
「あ、……ごめん。眠ったのかと思ったから」
「いや……ちょっとな」
「疲れた?」
無駄のない動きで、手が伸びる。また酸素マスクをつけ直そうとしているのかと思ったら、そうではなかった。
いつかと同じようにしなやかな指先が、そっと額を撫で、前髪をかき上げる。
その指先の柔らかな動きがひどく心地良いような気がして、エマヌエルは彼女に気付かれない程度に目を細めた。
人の指先が肌をなぞる感触は、正直あまり好きではなかった。それは、然して遠くない日のトラウマを、鮮烈に蘇らせるからだ。
けれど、彼女に触れられるのは、最初から不思議と嫌ではなかった。寧ろ、ずっとそうしていて欲しいとさえ思う。――もっとも、口が裂けても言えないけれど。
「……ねぇ」
「ん」
暫くエマヌエルの額に指を這わせていたヴァルカが、躊躇いがちに口を開く。視線を上げると、それに気付いたのか、彼女の指が離れて行った。
「もう一度訊くけど……一緒にやらない?」
遠ざかる温もりを名残惜しく思っていると、そんな科白が降って来て、エマヌエルは目を瞬く。
それをどう解釈したのだろうか。ヴァルカは苦笑とも自嘲とも取れる笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を接ぐ。
「あんたさえよければ……でいいんだけど」
言葉を捜すように、ヴァルカは数瞬口を噤んだ。黙って自分を見つめるエマヌエルの視線から逃れるように、おもむろに身体の向きを変えると、片膝を抱えてベッドへ座り直す。
「あんたが消えてた四日間、ずっとあんたを探しながら考えてた。これ以上あんたに構う必要はない筈なのに、何でこんなに必死なんだろうって……あたしがあんたに近付いた理由は、欲得尽くでしかなかった筈なのに」
再び自嘲的に小さく笑うと、ヴァルカは目を伏せる。
「でも、背中を預けられる相手がいるのって……気持ちの上では、やっぱり違うって、解った気がする」
自分達は、もう『人間』ではないのかも知れない。けれど、『ヒト』だ。傷つく『心』も『感情』もある。
――再教育中は、ずっと必死に自らに言い聞かせていなければ、とっくに取り込まれていただろう。
許さない。
決して彼らを許さない、と。
恨みと憎しみで心を武装して、負の感情はやがて凍てついて行く。それが溶ける日が来るとは今でも思っていない。ふと気付けば、冷えた感情が当たり前になっていた。ただ彼らを屠ることで、マグマのように煮え滾る憎悪を忘れていない自分を確認する。
解ってくれる人間がいるとも思えなかった。
今の今まで。
(背中を預ける、だって?)
嘘だ、とエマヌエルは思う。
この戦いの中、背中を預けていたのは、寧ろ自分の方だ。
確かに、蜂起した時は独りだった。
ただ独りでやり遂げるつもりだったし、その覚悟もしていた。全てが終わるまで、死ねないと思っていた。死ぬつもりもなかった。
けれども、右肩に深手を負ったあの時も、マックイーンにマグネタイン弾で追い詰められた時も、ウォレス=パターソンとやり合った時も、彼女がいなければ自分はとっくに死んでいた。
油断はなかった、と思う。ただ、どの時も相手がほんの少し上手だった。そして、いつしか油断していた。――いや、油断とは少し違う。どの時も、自分一人でどうにもならなくなった時、心のどこかで彼女をアテにしていたのかも知れない。
覚えず、深い溜息が漏れる。
「……何?」
いきなり溜息を吐かれたヴァルカの方は、怪訝そうに眉根を寄せてこちらを向いた。
「いや……デカ過ぎる借りが出来たなと思って」
「ドクターのこと?」
「んー……まあ、そっちもそうなんだけど」
そうだ。ウィルヘルムのこともすっかり忘れていた。ヴァルカだけでなく、彼もいなかったら、自分は既に何も解らない内にあの世行きだっただろう。
ヴァルカに対するそれはともかく、ウィルヘルムに対する借りは、何だか無性に腹が立つ。素直に感謝する気になれないのは、彼が医師だからか、それとも彼自身の掴み辛い性格の故か。
「……期間限定なら、考える」
「え、何を?」
キョトンと目を瞠られて、エマヌエルは瞬時言葉を失った。どうやら彼女の方は、独白の内に最初の話題を忘れたらしい。
それにしたって、先刻の科白を絞り出すのにどれだけの恥を捨てたと思ってるんだ、この女は。
自然睨み付ける形相になっていただろう自分を、依然キョトンとした表情で見守っていたヴァルカの顔が不自然に緩む。それを不審に思う間もあらばこそ。次の瞬間、ヴァルカが小さく吹き出した。
「っ、な……何」
「~~~~っ……あー……ごめんごめん。あんまり真剣に怒った顔してるからつい……」
ウクククク……と笑いの残滓を引き擦りながら、ヴァルカが背を丸めた。そのまま小刻みに身体を震わせ続ける。
「あー……そろそろフォトン・シェルも撃てるようになって来たかもな。試し撃ちしてもいいか?」
「や、ダメ! ホント、ごめんてば!」
半ば本気の低い声で脅し文句を口に乗せる。なり、ヴァルカが慌てたように、自由の利く左手を押さえに掛かった。
組み敷かれるようになった体勢の中、見上げた彼女の顔はまだ笑いを残している。
「……それで? 期間限定てどのくらい?」
「そうだな……」
何だ、ちゃんと始めの話題を覚えてるんじゃないか。そう思いながら、微妙に彼女から視線を外し、明後日の方を見ながら答える。
「デカ過ぎる借りをちゃんと返したと思えるまで、かな」
しかも二人分だから、果たしていつまで掛かることやら。
うっかり肩を竦めてしまって、治り切らない傷口の痛みに、顔を顰める羽目になる。
けれど、本音は違う場所にあった。
張り詰めずに済むその場所に、少しでも長く留まっていたい――だなんてことは、やっぱり、口が裂けても言えそうになかった。
***
深夜の暗い廊下に、何の前触れもなくサイレンが鳴り響く。
ああ、どこかで見たことのある光景だ。
そう思いながら足を進める男が歩いた後には、何故か水に濡れたような足跡が点々と続いている。それもその筈で、男の全身はぐっしょりと濡れそぼっていた。
男はその身に何も纏ってはいない。
強い天然パーマの髪は、今は丸刈りにされている為、水に濡れても余計なウェーブの掛かる心配をする必要はなかった。
何も思考しないまま、男は目的の部屋に向かって歩き続ける。何も履いていないことと、水分を含んでいることが原因で、男の足下は前へ進む度に濡れた音を立てた。
「――いたぞ! ゴーレム・ナンバー1553だ!」
背後から叫びが上がり、男は鈍い動作で振り返る。その表情は、既に生気を失っていた。チャコール・グレイの瞳は、昏い光を帯びている。まるで、深海の暗すぎる黒に近い、その色――
「ひっ……!」
『ゴーレム・ナンバー1553』と呼ばれた男――かつて、『アドルフ=ゴンサレス』の名を持っていた男を追って来た集団の、先頭にいた兵士は、それをまともに見てしまった。感じたものは恐怖に近いが、それよりももっと恐ろしいと表現する言葉があれば、兵士はそう思っていただろう。
そもそも、何かを考える余裕があったかどうかさえ、兵士本人にも、もう判らない。
兵士は、持っていたライフル銃の引き金に添えていた指を、無意識に深く折り曲げた。ただただ、その訳の分からない『恐怖』から逃れる為に。
しかし、その刹那、1553の腕に青白い閃光が走ったのを、確認できたかどうか。
その夜、北の大陸<ユスティディア>西端の地、リッケンバッカーにある軍事施設が、原因不明の火の手を上げた。