CODE;9 A chain of hatred
頭部が、何かで締め付けられている。
そんな感覚の中で、ゴンサレスはその日の目覚めを迎えた。
頭痛の始まる前触れだろうか。
ひと月前の研究所爆発事故からこっち、気の休まる暇もなかった。ストレスが溜まりに溜まっているだろうことは、想像に難くない。
一体いつになったら、自分はゆっくり眠れるのだろうか。
寝起きに際してすら愚痴を零している自分自身に苦笑しながら、ともかく目を開けようとした。
だが、瞼を開けた途端、眼球が予期せぬ刺激に晒されて、ゴンサレスは目をしばたいた。
(何だ?)
その刺激に目が慣れずに、何度も瞬きする。
まだ眼鏡をかけていないことを差し引いても、焦点が定まるのが遅い。まだ正体の掴めない刺激にようやく目が慣れた頃、ゴンサレスは自らの身体を包み込むような浮遊感にようやく気付いた。
『――やあ、ドクター。お目覚めかな』
その時、薄い膜越しに聞こえるような音声が耳に滑り込んで来た。膜越しというよりは、水中で聞くような――
(水中?)
謎の刺激に慣れた筈の目が、再度瞬く。
呼気を吐き出すと、ゴボリ、と濁った音を立てて、目の前を大きな泡が立ち上った。
(――何だ!?)
ここは何処だ。
叫んだつもりの自分の声は耳に入らず、代わりに大量の泡が先刻と同じように上へと浮上していく。
『そう興奮しないでよ。新しいベッドは気に入らなかった?』
自分に話し掛けている人物の姿が、ぼんやりとではあったが認識できる。だが、普通に対面したのでは有り得ない、何か透明な膜に隔てられているように見えた。
(これは)
一体何だ。
無意識に手を伸ばすと、指先が透明な壁に触れた。
目の前の人物――ハロンズは、いつものように内心の読めない笑みを浮かべているように見える。しかし、直視は出来ない。眼鏡を掛けていない所為か、それとも自分が何かの中にいるのが原因か、ピントが合わないからだ。
『まだ自我があるみたいだね。もう手放してもいいのに』
どういう意味だ。
質したいが、声の代わりに出るのはやはり水泡だけだ。
この時になって、やっとゴンサレスは自分が液体の中に浮遊していることを自覚した。まるで、実験体が筒状の大型硝子ケースの中で液体に浮いているかのように。
水泡は、水中での呼吸を可能にする為の酸素マスクの隙間から出ているのだ。
(実験、体?)
一体、何がどうなっているのだろう。
違う。自分は実験体を扱う立場だ。今までも、そしてこれからもその筈だ。
まだ、結果が出ていない実験結果も見なければならない。それに、その前に、AA8164の件もまだ始末が着いていないというのに――
『お休み。もう「貴方」と話す機会もないだろうけど、これからはその頭脳だけ提供してくれる忠実な部下であってくれれば嬉しいよ』
頭脳だけ? 忠実な部下?
何を言っている?
一体、私に何を――訊きたいが、声は音にならない。
硝子を叩き割ろうとしても、水圧が邪魔をして、ただ鈍い音を立てただけだった。
引留めたい人物は、やがて背中を向けて遠ざかって行く。
不意に足元から無数の水泡が発生して、視界は途切れた。
***
青白い閃光を腕に纏い付かせた男が、その腕を振りかぶって目前に迫る。
何を考える隙もない。
エマヌエルは、殆ど反射に任せてベッド端に突いた右手を軸に横へ飛び退いた。
身体の通過地点にいたウィルヘルムに、避けるだけの能力はない。しかし、ヴァルカが透かさず彼の襟首を引っ掴んで、彼の身体を移動させる。直後に鈍い激突音とどこか哀れな男の悲鳴が被ったが、戦闘態勢に入ったヒューマノティック三人はそれを綺麗に無視した。
避けずにいれば、確実に喉元を掴まれて何処かに頭部でも叩き付けられていただろう。だが、男の攻撃は、目標を失って無人になったベッドへヒットした。
音もなく男の掌が沈み、ベッドに風穴が開く。
(!?)
ふと違和感を覚えた。だが、それを考えて形にする余裕などない。
足下から見て向かいにあったベッドへ着地するかしないかの内に、相手は自ら穿った穴から腕を引き抜き様、フォトン・シェルを擲った。
鋭く舌打ちを漏らしながら、エマヌエルは両脚に意識を集中させる。遠雷の音を立てて、華奢な両脚が青い光を纏う。フォトン・エネルギーは、弾丸状にして、銃要らずの飛び道具として使うだけが能ではない。こうして脚や腕に纏うことで、拳打や蹴りの威力の増強が可能なのだ。
一瞬視線を投げた先には窓がある。ギリギリでフォトン・シェルをかわすと、顔を庇いながら脚から窓へ突っ込んだ。派手に硝子が割れる音と共に、身体が窓の外へと飛び出す。直後、避けたばかりのフォトン・シェルが炸裂した。避けようのない爆風に煽られて、予想外に勢いよく落下する。
「っ……!!」
吹き飛ばされる風圧に、息が詰まる。それでもフォトン・エネルギーで強化した脚から着地出来るよう、空中でどうにか身体を捻る。体勢を整えたと思えた瞬間、背後に衝撃が来た。まともに喰らう。猛スピードで建物の壁面が迫る。避け切れない。
咄嗟に両腕にフォトンを纏って身体を庇おうとする。けれど、そのエネルギーが、衝撃を吸収してくれる程の威力に達するより先に壁に激突した。小柄な身体がワンバウンドした後、地面へ向かって落下する。皮肉にも、壁に衝突したことで落下の速度は軽減された。フォトンにより強化されたままの両脚で、バランスを崩しながらも着地する。荒い息を吐きながら、そのまま膝を折った。同時に、右肩に激痛が走って、息を詰める。
激痛の元を確認しようと視線を走らせると、右腕がダラリと脱力したまま動かなくなっていた。先刻、壁に衝突したショックで右肩が外れたのだと理解する。
「くそっ……!」
また右腕かよ。ほぼ完治したばっかだったってのに。
独りごちる間もあらばこそ。間髪入れずに空気が動く。
右斜め前へ反らせた顔のすぐ横を鋭い風圧が横切る。僅かに攻撃を避け切れなかったのか、一拍遅れて頬に赤い筋が出来た。同時に背後の壁へ相手の拳がめり込む。
即座に左手を地面へ突くと、相手の軸足を思い切り払った。エマヌエルに殴り掛かった姿勢のままだった相手は、踏ん張り切れずに地面へ仰向けに転倒する。
素早く飛び掛かってまだ自由の利く左手で喉元を鷲掴み、右膝に全体重を掛けて相手の胸部を押さえる。空いた左足は、相手の右手を踏むようにして封じた。
「どうした。殺らないのか」
「地獄へ送り返す前に聞かせろ。あんた、どうやってそこから舞い戻って来た」
左腕を、青い筋が這う。本当はすぐにでも塵にしてしまいたくて堪らない。
科学者など、皆同じだ。相手はどういう訳かスィンセティックと同じ力を持っているようだが、エマヌエルの知る『この男』は確かに肉体は普通の人間であり、科学者だった。
自分の意志に反して改造される苦痛を、話しても解る訳がない。我知らず、喉元を鷲掴んだ手に力が入る。
「舞い戻る?」
男の頬に、喉を締め上げられている人間とは思えない、余裕の笑みが浮かぶ。
「死んだ人間が生き返る訳ないだろう。ヒューマノティックが人間に戻れないのと同じだ」
「うるせぇ!」
誰の所為だと思ってる。
いつ俺が、この身体を兵器にして欲しいなんて頼んだよ。
挑発めいた言葉に、反射でぶち撒けそうになるのを苦労して呑み込む。例え恨み言を全てぶつけたところで、彼らには理解出来ないだろう。言うだけ徒労なのだ。
「……無駄口はいい。質問にだけ簡潔に答えろ。どうやって生き延びた」
「そんなに知りたいか。そりゃそうだろうな。フォトン・シェルを浴びせても生き延びる方法があったら、お前も困るだろう」
男がククッ、と喉の奥で再度嘲るように笑った。
唇を噛み締めるようにして、沈黙を返すことに成功する。だが、図星だった。折角地獄送りにしてやった連中が生還する方法などあっては、正しく二度手間だ。
「けどお前の方こそ」
男の頬には相変わらず、見る者に苛立ちを与えるような笑みが浮かんでいる。だが、既に瞳は昏い光を湛えていた。
「無駄口叩いてる余裕があるのか?」
「なっ……?」
瞬間、軽い衝撃が走る。喉の奥から、熱い塊がこみ上げて来て、エマヌエルは目を見開いた。
パタリ、と押さえ付けている男の頬に一滴落ちる赤い、液体。
「……ふぅん。フル改造されてるヒューマノティックでも血は赤いんだな」
何を。
開き掛けた口から、咳と共に吐き出しそうになったものを、反射的に手で押さえる。肩を脱臼していない左手を使ったので、自然、男の上に屈んだ姿勢から身を起こす形になった。その時、ふと視界に入ったのは、自分の右腹部から生えた何か――追うともなしに目で追った『それ』は、男の左肩に繋がっている。
(――まさか!)
その疑問を脳裏で形にするよりも、右腹部に生えた『それ』に見慣れた青白い閃光が迸る方が早い。
確信すると同時に、男から飛び離れる。
男の右腕を押さえていた足でそのまま地面を蹴ったので、足の裏に人の骨が折れる鈍い音とイヤな手応えが伝わった。
男から離れる動きに連動して、ズルリ、と右腹部に穿たれた楔が抜ける。身の内を異物が擦れる、総毛立つ感触と共に、暗がりの中でどす黒く見えるものが、エマヌエルの腹部と男の腕を繋ぐ毒々しい帯を描いて宙に舞った。
脱臼して使いものにならない右腕以外の四肢を使って、どうにか男から離れた場所へ着地する。その拍子に、傷口と唇から同時に血が溢れた。
咳込んで吐血しながらも上げた視線の先で、男が身を起こし、立ち上がる。右腕を骨折している筈なのに、それを感じさせない滑らかな動きだった。左腕にはエマヌエルの血液がべっとりと付着し、青の光が残像を描いている。後一秒でも飛び退くのが遅れていたら、身体の内側から吹っ飛ばされていただろう。
もっとも、この身体ではもうまともに動くことさえ難しい。寿命がほんの数分、延びただけかも知れなかった。
(っくそ……!)
まだ、死ねないのに。
報復はまだ始まったばかりだ。恨みは半分も晴らせていない。
歯軋りするような内心を知ってか知らずか、男が悠然と歩み寄って来る。
逃げるか立ち上がるかしなければならないのに、足にはもう上手く力が入りそうにない。無意識に左手で押さえた傷口からは、尚も血液が溢れ続けている。頭の回転が急速に鈍っていくのが嫌でも自覚出来た。
霞んだ視界の中で、至近距離まで近付いて来た男が、ジャリ、という音を立てて足を止める。止めた足の片方をおもむろに持ち上げると、男は事もあろうに脱臼した肩先に容赦のない蹴りをくれた。
痛みのあまり、声も出ない。受け身も取れずに倒れ込む。間を置かず、穿たれた傷口に、男は容赦なく踵を落とした。
「――――――っっ!!」
声にならない悲鳴が喉から迸る。意志とは無関係に身体が反り返りそうになるが、それは突き刺さった踵に自ら傷口を押し当てる行為に繋がり、余計に痛みを増幅させた。
「ッ、ぁ……!」
「いい具合に死ぬ寸前だな。約束だからそろそろ種明かししてやろうか?」
必死の思いで喘ぐエマヌエルに、男は視線を落として虚ろな笑い声を立てる。
「お前が殺したのは『俺』じゃない。あの時お前に殺されたのは、俺の兄貴だ」
男曰くの種明かしは、耳には入るものの、意味を咀嚼して理解する余裕などない。
視界は出血の所為で最悪に霞んでいる。
男の表情は読めなかったが、声から笑いが消えているのだけは理解出来た。
「あの日、お前が殺したのは俺の双子の兄だ。ウォーレン=パターソン博士を知っているだろう?」
科学者一人ひとりの顔と名など、はっきり言って覚えていない。記憶力は悪い方ではないが、ゴンサレス研究所はそのものが巨大組織だ。報復に際しては、裏プロジェクトに携わった者の名簿を探し出して顔写真と名前を照合し、端から殺して回っていた。
だから、こんな風に『誰それを覚えているか』と問われても、他の人物なら判らないだろう。
けれど、『あの日』殺した相手の顔は覚えていた。最初に彼らを選んだのに理由はない。
制御装置を外された時、たまたま手近にいたから。
手術に携わる人物なら、確実に裏プロジェクトに関わっているから。ただそれだけのことだった。
顔を覚えていたのも、特別強烈な印象があった訳ではない。爆破直前、一番最初に顔を見て、それが比較的新しい記憶だったに過ぎない。
しかし、ウォーレン=パターソンという名にも聞き覚えがあった。それも、ごく最近耳にした名だ。一体何処で――
「うぁっ……!」
だが、記憶を手繰る作業は、男が傷口へ食い込ませた踵を更に沈める行為に、あっさりと中断する。
「俺達は一卵性の双子だからな。見間違えるのも無理はないさ。多少は驚いて貰えたみたいだが」
パシン、という音と共に、男の左手に青白い光が疾走る。
「それくらいじゃ、あいつを奪われた恨みは消えない」
「ッ、……けん、なよ」
「あ?」
絞り出した声に、男が僅かに苛立ったような声音で問い返す。
「ふざ、けんな。……んな、…バカバカしい研究、に、手ぇ貸したっ……時点で、……報い、受けんのは…覚悟、してたんじゃ、……のか」
「何?」
「あんた、の兄貴……って奴も、他の、奴らも……ゲホッ……俺に殺されたからってっ……恨むのは筋違いだ…っつってんだよ」
浅くなる呼吸に、言葉が途切れるのが心底もどかしい。けれど、言わなければならない。
言っても解らない相手だろうと、言わなければ気が済まなかった。
「そーゆーの……勝手な、逆恨みって、言うんだっ……アァッ!」
傷口に食い込んだ足が、黙れと言わんばかりに更に傷を抉る。
「……ってる」
「――……ッ…?」
掠れるように漏れた呟きは、超聴覚でもうまく拾えなかった。
だが、問い返したくとも、踵を支点に回すように傷を抉る足が、言葉を紡ぐのをとことん邪魔する。
「でも、お前には死んで貰うしかないんだ」
本当に自分勝手だな、あんた。
そう吐き出したつもりが、実際には喘ぐように唇が動いただけだった。
「――じゃあ、その前に」
そこへ、唐突に女性の声が割って入った。
「もう少し、種明かしして貰える?」
エマヌエルの顔の位置からでは、何処に声の主が立っているのかは把握出来ない。けれど、それがヴァルカの声であるのはすぐに解った。
「……どの舞台裏を覗きたいのかな、お嬢さん?」
動揺を隠すのに若干失敗した声が、それに答える。
「あんたはヒューマノティックみたいだけれど、いつどこでその力を手に入れたの? 自我を持っているくせに、研究所の破滅は望んでいないのが理解出来ないわね」
「……お嬢さんこそ、何をどこまでご存知なのかな」
「答える義務はないわ。質問してるのはこっちよ」
ヒヤリと鋭く冷えた声音に対しての男のリアクションは、エマヌエルには判らない。ややあって、男の声が静かに答えを口に乗せる。
「俺の場合は望んで手術を受けた。何せ人体を改造する研究だからな。外部のモルモットだけでなくどうしても内輪で実験体になる人間も必要だったのさ。だから、俺の脳にあるチップには意図的に洗脳プログラムを入れていない。自我があるのはそれが理由だ」
「……進んでモルモットになった訳ね。益々相互理解が難しくなったわ」
ヴァルカの吐き捨てるような科白は、そのままエマヌエルの感想をそっくり代弁していた。
「辛辣なご意見どうも。じゃあ、今度はこっちの疑問に答えて貰ってもいいかな」
「いいえ、まだよ。言ったでしょ。種明かしして貰うって」
「手の内全部見せろってか?」
「それくらいして貰ってもまだお釣りが来るわ。あんた達があたし達にしたことを考えればね」
「ふぅん……成る程ね」
何を納得したのか、男が揶揄するような口調になる。
「何が成る程なの」
「いや? お嬢さんは気にしなくていいことさ。他に知りたいことがあるんだろ」
ヴァルカは暫し警戒するように沈黙した。が、結局自分の知りたいことを吐かせる方を優先したようだ。
「……あんたの能力は何」
「いきなり核心だな。素直に答えるとでも?」
「答えざるをえないようにして欲しい?」
ヴァルカのしなやかな手が、男の骨折した方の腕を素早く、強い力で捻り上げる。いくら大の男でも、骨折した部位を掴まれれば泣き叫んで赦しを乞う筈だった。
けれど、男は何事もなかったかのように、ヴァルカに向かって無事な左腕を振り回す。反射的に飛び離れたヴァルカの着衣の胸元が、一拍遅れてハラリと裂けた。下着も裂け、その下の柔肌には赤い筋が一本走っている。
未だエマヌエルの血が付着したままの腕に、青白い残滓が跳ねた。
「……残念。もうちょっと離れるのが遅かったら、その身体、真っ二つだったのにな」
「……一体」
薄く笑う男に対して、ヴァルカはその深紅の瞳を見開いた。
ヴァルカ自身にフォトン系統の能力はない。
だが、フォトン・エネルギーの応用用途は知っている。
確かに、腕や足に纏い付かせることで、拳打や蹴りの威力の増強は可能だ。やりように依っては、相手が無生物であれ生き物であれ、粉砕したり真っ二つにすることも出来るだろう。しかし、先刻病室で見せたように物体――先刻の相手はベッドだったが――をすんなり通り抜けるように風穴を空けたり、鋭利な刃物代わりになるような能力はなかった。少なくともヴァルカも、エマヌエルも知らない。
「最近研究所とは別に、ある組織が独自開発した能力、とだけ言っておく」
「……それだけじゃないわね。あんた……もしかして、痛みを感じないんじゃ」
「ご明察」
ヴァルカの口から鋭い舌打ちが漏れる。
エマヌエルも、五体満足な状態であれば、同じようにしていただろう。気分的には唾棄したい思いだった。
道理で、右腕を折った筈なのにケロリとしていた訳だ。
「さて、じゃ、疑問は消えたかな。お嬢さんには後でこっちの質問に答えて貰うとして――」
傷口に乗ったままだった男の足が、思い出したようにそこを抉る。
食い縛った歯の隙間から、情けない呻き声が漏れた。
増血作用も追い付かないほどの出血量に、とっくに気絶していてもおかしくないエマヌエルの意識は、皮肉にも辛うじて男のその行為に依って保たれていると言っても過言ではなかった。
「お前は先にウォーレンのところへ逝って、あいつに心から詫びてくれ」
「エマ!」
ジジッ、という音を立てて青い光が男の左腕を疾走る。それを確認するかしないかという刹那で、ヴァルカが持っていた拳銃を男の頭部に向けた。
まだ時間的に夜中だと言っても、ヒューマノティックの視界は周囲の明るさに左右されない。互いに仕掛けようとする攻撃を外しようのない状況で、男のフォトン・シェルが発動するのが先か、ヴァルカが引き金を引くのが早いか、或いは――
「――ウォレス!?」
その時、触れれば切れそうな空気の中に、明らかに場違いな叫びが投げ込まれた。
女性の声だ。
確か、ファランの――けれど、その叫びが象った名前の方が遥かに重要な気がした。
ウォレス――誰だっけ。
しかし、その名に反応したのはヴァルカの方が早かった。
「ウォレス、ですって? ……あんた、……まさか、あんたがウォレス=パターソン博士?」
ウォレス、と呼ばれた男は、ヴァルカの問いには答えなかった。
ただ、少しばかり唖然とした体で、自分の名を呼んだ女性に目を向けている。
「ファラン……」
傷口に刺さった足から、僅かに力が抜ける。エマヌエルはその隙を逃さなかった。
左手に、痛みと失血で散漫になった意識をどうにか掻き集める。足元で上がった遠雷の音に、男は我に返ったようだったが、その時は既に遅い。
まだエネルギーの溜が充分でないが、構わなかった。今は、この男の足の下から抜け出せればそれでいい。男の足首を掴んで、フォトン・シェルを炸裂させる。舌打ちと共に男が体勢を崩した。
「――ヴァルカ!」
呼ばれるよりも前に、彼女は地を蹴っていた。体勢を崩した男の背後から突進し、男の不安定になった足下を思い切り払う。地面へ仰向けに転がった男の左腕を、透かさず足で押さえ付け、その両足関節を撃ち抜いた。いくら痛覚がないとは言え、こうなっては傷が完治しない限りは立つこともままならない。
形勢は完全に逆転したかに見えた。――が。
「ウォレス!」
止めを刺すよりも先に、ファランが割り込んで来た。
「何するの! 退いて、早く!」
必死にヴァルカの足を男の左腕から退かそうとしているようだが、ヴァルカにとってはどういう効果もなかっただろう。
「貴女こそ、邪魔しないで。邪魔するなら、先に貴女から始末するわ」
銃口が自分に向いて、ファランの表情がさっと強張る。しかし、彼女は愛しい男性の頭部から胸部に掛けて、彼を庇うように覆い被さったまま、離れようとはしなかった。
「……何なの。貴女、何なの。ウォレスが殺されるほどの何をしたって言うの!?」
「……人体、改造、だよ」
背後から声を掛けると、振り向いたファランが驚愕に目を見開いた。多分、彼女の目に映ったのは、脇腹から明らかに血液と思しき液体を垂れ流す自分が起き上がろうと足掻いている姿だ。僅かな月明かりに見えたその顔色は、血の気を失っていた。
「あ、……貴方も彼女に?」
「バカ……言ってんじゃ、ねぇよ」
彼女の頭の造りと来たら、本当にどこまでおめでたく出来ているのだろう。脱力してしまうと、危うく意識が飛びそうになる。
「そいつ、が…裏に、関わってたのは、……あんただって、見た、だろ。ゲホッ、……人間の、身体を…兵器化する、研究、して、やがった…一人だよ」
「な……」
「おまけに彼自身も進んで改造手術を受けてる。精神的にも肉体的にも、彼は人間でいることを辞めて久しいのよ」
喘ぎ喘ぎ話すエマヌエルを見兼ねたのか、ヴァルカが聞く者を凍てつかせるような声音で後を引き継ぐ。
「だ、だからって……」
「命まで取ることはないでしょ、って?」
クス、と微笑った声は冷え切っていた。怒りと憎しみが固く冷えたら、ちょうどこんな声になるのだろう。
「ふざけないで。自分の意思と無関係に遺伝子までめちゃくちゃにいじり回されても、貴女、同じように彼を庇える?」
「そ、そんなこと」
「『彼がする筈ない』? それとも、『そんなことない、私でも彼を殺したくなる』?」
反論が咄嗟には見つからないのか、ファランは遂に黙り込んでしまった。
「言うことがなくなったら、さっさと退いて。この男は救いようのない悪魔の中の一人よ。償う気がないなら、せめてこの手で始末しないとあたしの気が済まない」
俺の気も済まない。その役は俺に譲れ。
そう言いたかったが、今はもう意識を保っているだけでもやっとのエマヌエルに、それを口に乗せる気力はない。
一方のファランはファランで、人の恨みなどそっちのけで、男の命を諦めていなかった。
「……償いなら、私がする」
「何ですって?」
「何をすれば気が済むの。何でもするわ。私が彼の代わりに償うから。何が欲しいの? 謝罪が欲しいの? 気が済むまで謝るから、お願いだから――」
「……ふっ……」
鼻先から笑いが漏れた。
呆気に取られたような女性二人と男の視線が集中する。誰の笑いかと思ったら、自分だった。クスクスと拡がる笑いの振動が傷口に響いて痛覚を刺激する。けれど、止められなかった。
「何……何がおかしいのよ」
「ちょっとエマ……あんた、大丈夫?」
「大丈夫っつーか……大丈夫、じゃねぇのは、…その女の……頭って、言うか……クッ、ふふっ…ゲホッ……なぁ、あんた、本気で、謝罪、くらいで、……赦される、とか……思ってんの」
咳込んでいるのか笑っているのか、自分でも判らなくなって来る。それでも、ファランの言い分はおかしくて、どうしようもなく笑いがこみ上げる。
ああ、おかしい。おかしすぎる。この世には、謝られても水に流せることとそうでないことがあるというのに。闇の世界なんてないと思い込めるその頭が、この上なく憎たらしくて羨ましい。
「甘ぇよ、お嬢さん。……そいつが、した、こと、なんて……そいつの、命、くらいじゃ、…償い切れ、ないね。……百万回、…殺した、って……足りねぇ、よ」
「それは、……でも、……でも、お願い。この人が例え人体の兵器化に手を染めてたとしても、私には掛け替えのない男性なの。私にとっては、ただの『ウォレス』という男性でしかない。死んだと思ってたのに、生きていたのよ。お願いだからっ……」
「じゃあ、死んだ、ままだ……ったと、思って、諦めろよ」
ちらりと上げた視線をヴァルカと見交わす。ジリッ、と細い腕に微かに青白く這った閃光に、こちらの意図を察したヴァルカが、巧く隙を突いてファランを腰から浚うように肩へ担ぎ上げた。
「えっ」
ファランが目を瞬く。
自分といくつも違わない、身長差も余りない少女に腕一本で抱えられているという事実に理解が追い付かないのだろう。担いでいる彼女の抵抗のない内に、驚異的な速度でヴァルカがフォトン・シェルの射程から離れる。その間にエネルギーを溜めた左手で、すぐ傍に転がった男の腕を掴む。
せいぜい、あの世で兄貴と宜しくやってろよ。
皮肉の一つも言いたかったが、その余裕はなかった。