6
セシリアが社交界にデビューして、三月が経った。
「セシリア」
今年四回目になる王宮での舞踏会で、広間を抜け出そうとしていたセシリアは、背後から声をかけられて立ち止まった。きょとんとして振り向くと、ラッセルが佇んでいる。
「あ、こんばんは王子様!」
「……ああ」
元気よく挨拶をすると、彼はすっと目を細めた。言葉少なな上に目を細められるとまさに鷹が狙いを定めたように見えるのだが、これは笑っているのだ。その証拠に、眼差しはとても優しい。
彼は表情がほとんど変わらないのだと、セシリアは最近気づいた。そのくせ呆れたり不機嫌になったりすると表情筋が働くのだから、彼も損な人物だ。楽しい時にも表情筋が働けば、きっと美人な令嬢達が押し寄せてくるのに。
「珍しいですね、王子様がわたしに声をかけるなんて」
「声をかけようにも、お前はいつもすぐに姿をくらますだろう。誰とも踊らずに」
その言葉に視線をさまよわせる。
「……ばれてました?」
「ああ。お前は一体何をしに来ているのかと思ったぞ」
もちろんギルバートに会いにである。
しかしそれを言うのははばかられて、セシリアは口を引き結んだ。ギルバートからも、自分と会っている事は内緒にするようにと言われている。変な噂を立てたり、文句を言ったりする輩がいるかもしれないとの事だった。王子様はそんな事はしないと思うが、念のためだ。
しばらくセシリアを見下ろしていた彼は、ふっと息を吐く。
「……まあ、それは良いのだが」
お前に情報をやろうと思って、と彼は言った。
「情報?」
きょとんとして目をしばたたかせる。一体なんの情報だろう。
「孤児院を訪れていた貴族の名前しか分からなくて、探せないと言っていただろう」
「え? ……ああ、はい」
もう見つけましたけど。
そういえば、彼は何かあったら言え、と言っていた。もしかして、セシリアのために何かしてくれたのだろうか。それなら、見つけた事だけは言っておいた方が良かったのかもしれない。
「頻繁に寄付を行っていた人物が分かったぞ。孤児院が建てられていた土地の領主だ」
「わ、ありがとうございます!」
王子様も忙しくて大変なはずなのに、わざわざ調べてくれたらしい。本当に良い人だ。
「お前のいた孤児院は、イーストエンド州のクリスティ孤児院だったな」
「はい」
こくりと頷くと、何かを言おうとしたラッセルが、ちらりと周囲を見て舌打ちをする。
彼の視線を追うと、なぜか周囲の視線を一身に浴びていた。特に、燦然と光り輝く頭部を持つ老人からの視線がとても熱い。熱々だ。あれはたしか何とか大臣だった気がする。
(……そういえば、王子様が誰かと仲良くするのは珍しいんだっけ)
広間で堂々と話をしていたら、そりゃあ注目を浴びるだろう。
深々とため息をついたラッセルが、再び口を開く。
「手短かに言うぞ。あそこはシルワ子爵領だ。つまり領主はシルワ子爵という事になる」
「シルワ?」
聞いた事がない。
「数年前に爵位を継いだ、まだ年若い領主だ。孤児院に定期的な寄付を行うだけではなく、農地の改良にも意欲的に取り組んでいる。他にも色々と着手しているらしい。領民からも梳かれているようだ。
……しかし、そのおかげでお前の家とはますますいがみ合っている。俺としては頭が痛い」
いがみ合っている?
眉を潜める。彼の言う事がよく分からない。
セシリアを見下ろして、ラッセルが目を眇めた。
なんだろう、聞いてはいけないような、とてもいやな事を言われるような気がする。
「……シルワ領は、フォルテ家が所有する領地の一つだ。つまり孤児院がある土地を治めているのも、孤児院に定期的に寄付をしていた人物も、フォルテ家の人間という事になる」
フォルテ家。
「フォルテ家については知っているか?」
ぶんぶんと首を振る。
セシリアを見下ろす王子様は、哀れむような目をしていた。
「カルデローネ家とフォルテ家の仲の悪さは筋金入りだ。当代は関税や貿易で揉めているし、先代は王宮に娘を送り込もうとして争っていたな。その前は宝石と一部の領地を巡ってだったか」
「……えっと?」
混乱しているセシリアに、彼は噛んで含めるように告げる。
「つまり、お前達の家はとんでもなく仲が悪い。万が一再会してもお前達は家族達に引き裂かれるか、……お前をカルデローネ家の令嬢だと知った相手が仲良くする事を拒むだろうな」
引き裂かれる。
相手が仲良くする事を拒む。
頭の中で、言葉がぐるぐると回る。きっとこれは、聞いてはいけなかった事なのだ。
(ギルバート様は、この事、知っているの……?)
頭の中で、誰かが囁く。
たしかめなければ。
もつれそうになる足を踏み出して、セシリアは広間を飛び出した。
靴を脱いで片手に持ち、空いた手で豪奢なドレスの裾をたくし上げて走る。
「セシリア!?」
待ち合わせ場所である東屋にたどり着くなり、セシリアはその場にへたりこんだ。素っ頓狂な声を上げたギルバートが慌てて駆け寄ってくるのを眺めつつ、肩で息をする。
「こ……んばんは、ギルバート、様」
「……こんばんは、セシリア」
琥珀色の瞳が、どうしたの、と訊ねている。
セシリアは靴を手で持っているし、髪もぐちゃぐちゃだし、ひどい格好だった。
「あの、ギルバート様」
ラッセルに言われた事を問おうとして、セシリアはふと口を閉じる。
ラッセルは、セシリアの家と、ギルバートの家の仲が悪いと言った。だから自分達が仲良くしていると周囲に――エドマンド達に引き裂かれてしまうし、ギルバートがセシリアを拒絶するかもしれないと言った。
(……言って、良いの?)
もしかしたら、彼はセシリアが貴族の家に引き取られた事は知っていても、それがカルデローネ家だと知らないかもしれない。だから仲良くしてくれて、こうして会ってくれるのかもしれない。
でも、セシリアがカルデローネ家の人間だと知ったら彼はどうするのだろう。今までのように会って、話して、手を繋いで、おやすみのキスをしてくれるのだろうか。
「……どうしたの、セシリー」
膝をついたギルバートが手を伸ばし、セシリアの肩に触れる。
黙ったままドレスを握りしめていると、そのまま引き寄せられた。
ぎゅっと抱きしめられて、頭を撫でられる。孤児院にいた頃と同じ、小さな子どもにするような優しい抱擁。
「セシリー、言ってくれなきゃ分からないよ」
涙が滲んでくる。ギルバートに抱きしめられるといつも嬉しくてたまらないのに、なぜか今は泣きたかった。
(仲良くしてくれないのはいや)
「……王子様が」
震える声で、ギルバートに告げる。
「……王子様が、ギルバート様はフォルテ家の人だって」
息を飲むけはいが伝わってきた。セシリアを抱きしめる腕の力が緩む。
それが、とても悲しい。
「……あたしとギルバート様は、仲良くできないって」
震える手を伸ばし、セシリアは離れていこうとする腕を掴んだ。彼の瞳が、ゆらゆらと揺れている。
「どうして、それ、を」
隠していたのに、と彼が呟いた。
「あたしが、カルデローネ家の人間って、知ってたんですね」
「知っていたよ」
「……お家同士が仲が悪いって事も?」
「もちろん」
じゃあ、と囁く。
「じゃあ、なんであたしと仲良くしてくれたんですか……?」
セシリアと仲良くしていたら、ギルバートは家の人に怒られてしまうのだ。セシリアだって、きっとエドマンド達に怒られる。
(……だから、誰にも言っちゃ駄目だよって、内緒だよって言ったんだ。家の名前も、教えてもらえなかったんだ)
「仲良くしない方が良かった?」
その言葉に、きゅっと唇を引き結ぶ。ギルバートはいじわるだ。
再会しなければ、何度も会って話さなければ、仲良くできなくても平気だったのに。会えなくても平気だったのに。
「やだ……」
それなのにギルバートはセシリアに会ってくれたから、仲良くしてくれて、昔みたいに一緒にいてくれたから。
思い出の中ではなくて、手が届く場所まで出てきてしまったから。
「やだ……!」
だからきっと、セシリアは寂しがりやになってしまったのだ。
昔より、よくばりになってしまったのだ。
「いやです、ギルバート様と仲良くできないの、いやです! お祖父様達がだめって言っても、ギルバート様が仲良くしたくないって言っても、絶対にいやです!」
彼にすがりついて、セシリアはまくしたてた。
絶対にいやだ。セシリアはギルバートともっと話したいし、もっと一緒にいたい。家同士の仲が悪いから仲良くできないなんておかしい。そのせいでこっそりと会わなければいけないなんて、もっとおかしい。
「あたし、あたしは――」
「落ち着いて、セシリー」
宥めるように頬を撫でられた。その仕草で、いつの間にか自分が泣いていた事に気づく。
「ギルバート様が一緒にいてくれなきゃ、いやです……!」
涙混じりの声で、そう告げた時だった。
不意に彼の顔が近づいた。二人の間を流れる空気が深みを増し、琥珀の輝きに魅せられる。
「ねえ、セシリア」
唇に吐息がかかった。柔らかい声音なのに、どこか硬質な響きを感じる。
「それは、知り合いとして?」
「ギルバート、様?」
体の力が抜けた。セシリアはまばたく事もできずにギルバートを見つめる。
理由も分からず、逃げ出したくなった。彼と一緒にいたいけれど、今は逃げ出したい。
「それとも――」
頬に添えられた手が唇を撫でた。ぎゅっと目を瞑った瞬間、唇に何かが押しつけられる。
口づけられたのだと理解したのは、彼の唇が離れてからだった。
「――っ、ギル」
「黙って」
混乱する頭で彼の名前を呼ぼうとすると、再び唇をふさがれる。
おかしい。これは、好きな人にすることだ。家族のような好きではなくて、恋人に向ける好きの方だ。セシリアには、こんな口づけをしてもらう理由は――
『セシリアは、特別だよ』
二年前の言葉が脳裏を過ぎる。まだ孤児院にいた頃、野遊びの時に言われた言葉だ。
花冠は、花嫁の証。花婿から花嫁に贈られるもの。
それを告げるとギルバートは驚いたような表情を浮かべて、それから日だまりのような笑顔で言ったのだ。
『それでも――だからこそ、僕は君には花冠を贈らなくちゃね』
あの言葉が、彼の心だったとしたなら。
今も、そう思ってくれているのだとしたら。
(……リタが言いたいこと、分かった)
心の奥が熱を帯びる。その熱は勢いを増し、今まで知らなかった、しかしずっと胸の奥にあった感情を引っ張り出した。
そっと離れていった唇が、言葉を紡ぐ。
「花冠を受け取ってくれる、一人の淑女として?」
頭がくらくらとした。
答えはもう、分かっている。
「……そう、です」
セシリアはきっと、彼に恋をしているのだ。