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男女がひっそりと会う事を、逢瀬というらしい。
東屋に佇むギルバートを見つけ、セシリアは彼に駆け寄った。高いヒールと動きづらいドレスが邪魔だが、舗装された小道のおかげでそう苦にならない。建物を出てからずっとセシリアを苛んでいた寒さも、彼の姿を見た瞬間に吹っ飛んでしまった。
「こんばんは、ギルバート様!」
「こんばんは、セシリア」
差し出された手に自分の手を重ね、ギルバートの手を引っ張る。再会した当初は互いにぎこちなかったが、いつの間にか、孤児院にいた時と同じように気軽に接する事ができるようになっていた。
「ギルバート様、さっき、あっちにへんてこな花が咲いていたんです! 見に行きましょう!」
「変な花?」
「そうです、変な花です! まるでキュウリみたいな! 温室で見つけました!」
「……それはキュウリそのものじゃないの?」
苦笑するような声に、むうと唇を尖らせる。彼は物知りだから、セシリアの「大発見」にもあまり驚いてくれないのだ。
再会してから今までに彼が驚いたのは三回で、セシリアの訛りが消えている事に気づいた時、彼を待つ時に木に登っていた時、そしてセシリアがラッセルと踊った事があると告げた時だった。どうやら、王子様が誰かと踊るのはそうとう珍しかったらしい。
その事に関してはなぜか事細かく聞かれたが、理由は聞いても教えてもらえなかった。なんだか不公平だ。
「それよりもセシリア、抜け出してきて大丈夫?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと撒いてきました」
「そういう意味じゃ……まあいいや、神に誓ってやましい事は無いんだから。今は」
「やましい事?」
首を傾げると、よしよしと頭を撫でられる。
「セシリーにはまだ早いかな」
「……ギルバート様、あたし、もう十六歳ですけど」
ぼそぼそと呟いて、セシリアは頬を膨らませた。
彼と再会してから、もう二月ほどが経っている。
「またね」とは言われたが、セシリアは彼の素性やどのパーティーに出席するかを知らなかった。リタに指摘されて初めて、彼にもう一度会うためにはどうすべきか考えた。
無い知恵を絞った結果、セシリアにできそうなのは、とにかく外に出る事だった。
屋敷にこもっていては、ギルバートと再会できない。ちょうど社交シーズンが始まったばかりだったので、パーティーやお茶会にはできる限り参加して彼を探した。
そうして、王宮で行われた三度目の舞踏会で、ようやくギルバートと再会できたのだ。
それ以来、セシリアは定期的に彼と会っている。互いの予定を確認し、二人とも出席するパーティーがあると、待ち合わせ場所を決めてこっそりと広間を抜け出していた。
「そういえばそうだったね。でも、僕にとってセシリアは孤児院で子ども達を仕切っていたセシリーだからなあ……」
彼にとって、セシリアは十四歳の子どものままという事だろうか。
それはちょっと、とても気に入らない。
「あたし、そんなに子どもっぽいですか?」
ギルバートの手を放して、セシリアは自分の格好を見下ろした。
紅色の布地に濃い赤と銀の糸で刺繍がされたドレスはヴィヴィアンの見立てで、膨らんだバッスルから白いフリルやレースが流れるように縫いつけられている。アクセサリーはガーネットの一揃えで、髪には紅い薔薇と真珠が飾られていた。
ヴィヴィアンやパトリシアは「大人っぽく見えてすてきよ」と言ってくれたが、ギルバートはそう思わないのだろうか。そう考えたら、食べられないくせにパンよりも高い宝石や複雑にセットされた髪が、とてつもなく無駄なものに思えてきた。
「そういう意味では無いけれど」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
「セシリーには教えてあげない」
「ギルバート様、いじわるな男の人は嫌われるんですよ。そういう男の人は、将来奥さんができても逃げられちゃうんですよ」
「それは困るなあ……」
「じゃあ教えて下さい」
曖昧に笑ってごまかそうとするギルバートに詰め寄る。
間近にある琥珀の瞳を睨め付けると、ふとその眼差しが真剣味を帯びた。目をしばたたかせていると、彼の顔が近づいてくる。
額に温かいものが触れ、すぐに離れた。
「……ギルバート様」
彼の頬を両手で挟み、セシリアは目を据わらせる。
「あたし、まだ寝ませんよ!? 子ども扱いするのはやめてくださいってば!」
これはどう見ても「おやすみのキス」だ。小さな子どもにする、悪い夢を見ないためのおまじないだ。
「うん、そう言うと思っていたよ……うん……」
ギルバートはなぜか遠い目をして、乾いた笑みを浮かべている。ごまかそうとしたくせに、まったく悪びれていないのが気に入らなかった。
彼から手を離し、腰に手を当てて睨み上げる。
「で、やましい事って何ですか?」
話を元に戻すと、ギルバートが深々とため息をつく。
「……おやすみのキスだと思っているセシリーには、教えてあげない」
何度問いつめても、やっぱり彼は教えてくれなかった。
「……セシリー、あんたそれ、本当にギルバート様に言ったの?」
呆れたような声に、化粧台の前の椅子に腰かけたセシリアは首を傾げた。
夜会から帰ってきて湯浴みを行い、リタに髪の手入れをしてもらっている最中の事だ。例によってギルバートに会った事を報告していたら、なぜかため息をつかれてしまった。
「そうだけど……リタ?」
放り出された櫛を拾い上げ、頭を抱えたリタを見上げる。どうしたのだろう。
自分で髪を梳きながら、セシリアはリタが口を開くのを待った。
ここ最近、毎日のように夜会があるせいで寝不足だ。早く寝たいが、わざわざ起きて待っていてくれたリタを追い出すわけにもいかない。
セシリアが香油を塗りおえた頃、ようやくリタが顔を上げた。
「……あのねセシリー」
子どもに言い聞かせるような声で、彼女はひどく深刻そうに言葉を紡ぐ。
「それはセシリーが悪い。人目を忍んで密会して、額にキスしてもらって、なんで『おやすみのキス』になるかなあ……」
「え、だって孤児院にいた時にしてもらったでしょ?」
「ここは孤児院じゃないし、セシリーはもう十六でしょ」
「うん」
それなのに、子ども扱いされてしまうのだ。
(どうしてだろう……)
うーんと悩みながら、鏡に映っている自分を観察する。
孤児院にいる時よりも身長や髪が伸びたし、毎日たくさんご飯を食べられるから、少しだけ肉付きも良くなった。十四歳の時に比べれば、それなりに大人っぽくなったはずだ。……胸以外は。
「胸か……胸なのかな……そりゃあリタみたいに大きくないけど。成長していないけど」
「……あんたね」
鏡に映るリタ(の胸)を睨め付けていると、頭にげんこつが落とされる。ひどい。セシリアは一応、彼女の主のはずなのに。
「あんたが成長していないのはこっち。そのおつむでしょ」
「え、ひどい。毎日勉強してるのに」
「……だめだこりゃ」
リタが目を据わらせて、セシリアを寝台に追い立てる。もう夜も遅いので大人しく寝台に潜り込むと、彼女は顔を寄せてきた。
「……大人扱いされたかったら――」
リタはセシリアの頭を撫で、額に唇を押しつける。この屋敷に引き取られてからは一度もされた事がなかった、「おやすみのキス」だ。
「あたしとギルバート様のキスの違いでも考えてみること」
きょとんとしたセシリアににんまりとした笑みを向けて、リタは部屋を出て行った。
彼女の言った事を考えるべく、セシリアは指先で額に触れる。
リタのキスは心がほんのりと温まる、優しいキスだ。きっと今日は良い夢が見られる。
では、ギルバートは?
そう考えた瞬間、心の奥でぽっと明かりが灯った。
(え?)
心だけでなく、頭までぽかぽかする。それなのに胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気がして、急に寂しくなって、もう一度「おやすみのキス」をして欲しくなって――
「……うーん……?」
頭がこんがらがって、分からなくなってしまった。たしかにリタのキスとは違う。でも、どう違うのかがよく分からない。
ごろんと寝返りを打って手足を折り曲げ、セシリアは寝台の上で小さくなった。体中が熱くて、寝ようとしてもギルバートの事を考えてしまって眠れない。
(わ、分からない……)
結局、セシリアが眠りについたのは空が白み始める頃だった。
ほとんど眠れなかったセシリアはリタに叩き起こされ、しょぼしょぼする目を擦って食堂へ向かう。ときおり舟を漕いでいるセシリアを心配してか、リタは珍しく食堂まで付き添ってくれた。
「おはようセシリー」
今日も爽やかなヴィヴィアンが、ふと表情を曇らせる。
「……セシリー? 顔色が悪いですわよ?」
気遣わしげに眉をひそめた彼女は、セシリアの肩に手を添えて顔を覗き込んできた。
「……眠れなかったそうです」
「あらまあ……」
リタの言葉に何とも言えない表情を浮かべ、彼女はそっとセシリアの目元に触れる。寝不足のためにできた隈は、化粧では隠しきれなかったらしい。
「今日は屋敷でのんびりしなさいな、セシリー。勉強もお休みして、お昼寝でもすると良いですわ。最近は夜更かしが多かったもの、疲れてしまったのね」
その言葉に頷いて、セシリアはもそもそと朝食を詰め込んだ。ぱりっと焼き上がったパンや色とりどりの果物はいつもならとても魅力的に映るのに、眠すぎて何も感じない。これは重症だ。
食堂を辞して、ふらふらと自室を目指す。さすがに見かねたのか、一階に部屋を持つリタが寝台を貸してくれた。
回らない口で礼を言って、遠慮なく横になる。
自分のものよりも硬い寝台で微睡んでいると、瓶に挿された花が視界に入った。ふと、孤児院にいた頃、ギルバートと野遊びをした事を思い出す。
『セシリアは特別だよ』
そういって、彼は花冠を頭に乗せてくれたのだ。
孤児院の近くにある村では、結婚の時に、花嫁は花冠を頭に乗せる。ギルバートにそれを告げたら、彼は少しだけ驚いたように目を瞠っていた。
『じゃあ、またいつか、君には花冠を贈らなくちゃね』
『ギルバート様、花冠は花婿さんが作るんですよ、仲良しさんが作るんじゃないんですよ』
目を細めるギルバートに告げると彼は何とも言えない表情を浮かべ、ため息と共に言葉を吐き出す。
『……それでも、――――』
(……なんて、言ってたんだっけ……)
それを思い出せば、リタの言った事が分かるような気がするのに。
しばらく考えたが、セシリアは結局考えるのをやめた。途端に意識がぷつんと途切れる。
その日一日、セシリアはひたすら惰眠を貪った。
そしてしゃっきりと目覚めた時、寝る前に考えていた事をすっかりと忘れていた。




