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「ギルバート様!? え、嘘本当に!?」
朝の光が燦々と差し込む部屋に、素っ頓狂な声が響き渡る。
両耳に手を突っ込んで、セシリアは顔をしかめた。
「……リタ、うるさい」
頭一つ分小さな彼女を睨め付ければ、リタは赤銅色の瞳を瞬かせてから肩をすくめる。
「ごめん、セシリー」
言葉と共に押しつけられたドレスを受け取って、セシリアは頷いた。しょぼしょぼとする目を擦って欠伸をすると、リタがけらけらと笑う。
紺色のお仕着せを着たリタは、セシリアが孤児院から引き取られる際に、カルデローネ家に雇われた一人だ。セシリアと一番仲が良かったので、祖父が気を利かせて側に置かせてくれたのだった。
セシリア同様に学が無いので、勉強は一緒に習っている。名目上は侍女になっているが、実質的には学友や話し相手といったところだった。
他にも何人か引き取られているが、彼らはリタのように教育を受けてはいない。カルデローネ辺境伯は当初、全員に教育を受けさせていたのだが、彼らは訛りの修正と文字を覚えるあたりで次々と脱落してしまった。今は厨房係や洗濯係、庭師、厩番達についてそれぞれの仕事を学んでいる。
リタがセシリアの側にいられるのは、彼女がセシリアと共に必至になって教養を身につけているからだった。
寝間着を脱いで、綿モスリンのドレスに着替える。明るい緑とクリーム色の生地で仕立てられたドレスは、セシリアのお気に入りだった。
化粧台の前に腰を下ろすと、背後に回ったリタが髪を梳いてくれる。
「何か話はしたの?」
興味津々といった体のリタに頷いて、セシリアも口を開いた。
「馬車を待ってる時だったから、あんまり話せなくて」
「何も聞かないで帰って来ちゃったの? うわ、もったいない」
「あたしもそう思う」
どうして家名を聞かなかったのかが悔やまれる。そうしたら手紙くらいは書けたのに。
「ギルバート様って、あのギルバート様でしょ? 孤児院にお菓子を持ってきてくれて、花冠の作り方を教えてくれて、畑仕事を手伝おうとして、ミミズを見てびびって転んだ」
「そうそう」
「いいなー。あたしも会いたかった! 元気そうだった?」
「うん」
鏡の中のリタは、そっかそっか、と頷いている。
「他には? 舞踏会って本当に踊るの?」
「踊るよ。あたしも鷹みたいな人に申し込まれた」
「え、……それ踊ったの?」
「うん」
鷹みたいな王子様は親切で面白かった。
リタに髪を結い上げてもらい、セシリアは食堂へと向かう。
ロンディアにあるカルデローネ家のタウン・ハウスは三階建てで、食堂は一階にある。セシリアの部屋から食堂へは、階段を下りて客間と書斎、一部の使用人達の部屋がある二階の廊下を進み、さらに別の階段を下りなければならなかった。領地のカントリー・ハウスよりは狭いが、それでも一階に下りるだけでかなりの時間がかかってしまう。
「おはようございます!」
元気よく叫んで食堂の扉を開ければ、既にテーブルに着いていた彼らが顔を上げた。
「おはようセシリー。よく眠れたかしら?」
セシリアよりも遅く帰ってきたというのに、ヴィヴィアンは朝から爽やかだ。にこにこと笑っている彼女は、その横で机に突っ伏しているクラレンスとは対照的だった。
「おはようございますヴィーお義姉様、クレアお義兄様」
会釈をしてから、穏やかな眼差しでセシリアを見上げる二人へと顔を向ける。
「おはようございます、お祖父様、お祖母様」
その言葉に、セシリアの祖父母――カルデローネ辺境伯エドマンド・カルデローネとその妻であるパトリシアが微笑んだ。
「おはよう、セシリー」
にっこりと笑って、セシリアは自分の席に着く。クラレンスとヴィヴィアンの間にはまだ子どもがいないので、カルデローネ家の人間はこれで全員だ。
「そういえばセシリー、舞踏会はどうでした?」
料理が運ばれてくるのをそわそわしながら待っていると、パトリシアが話しかけてきた。まだ五十をいくつか過ぎたばかりの彼女は、豊かな栗色の髪と明るい茶色の瞳を持つ優しげな貴婦人だ。
「あなたが窮屈な思いをしていないか、心配していたのよ。……まあ、いざとなったらトンズラすれば良いけど。えっと、使い方、これで合っているかしら?」
「バッチリですお祖母様!」
――そして色々と、好奇心旺盛な御仁である。
彼女は「下町訛りを話せるようになりたい」という理由でセシリア達の訛り矯正役に立候補し、根気強く教えてくれた。矯正が終わった後も何かと理由をつけてセシリアやリタと一緒に過ごし、あれこれと世話を焼いてくれる。年頃の娘を構いたくて仕方がないのだろうとヴィヴィアンが苦笑していた。
「ああそれ、わたくしも聞きたかったのよ、セシリー」
クラレンスをつついて遊んでいたヴィヴィアンが顔を上げ、きらきらと輝く目を向けてくる。
「あらヴィー、クレアはどうしたの?」
「二日酔いですわ、お義母様。昨夜飲ませ過ぎましたの」
「あらあら」
くすくすと笑ったパトリシアは手を伸ばし、向かい側にいるクラレンスの頭をつついた。うめき声らしきものが聞こえてきて、なんだか彼がかわいそうになる。
ヴィヴィアンは酒に強くて、一瓶を空けたくらいなら平然としているのだ。きっと彼女に付き合わされて飲み過ぎたのだろう。
母と妻にいじめられている息子を、エドマンドがにこにこと笑いながら眺めている。金茶の髪と榛色の瞳を持つ彼はほっそりとした体と長身の持ち主で、セシリアは彼とクラレンスを見て初めて、体格が家系によるものだと知った。セシリアは、周囲の女性よりも頭半分ほど飛び抜けて背が高いのだ。
「それはわたしも聞きたいな」
好々爺然とした笑みを浮かべて、彼はセシリアを眺める。
「セシリー、舞踏会はどうだった?」
「楽しかったです!」
元気よく答えると、エドマンドは満足そうに目を細めた。領主である彼は多忙だが、事あるごとにセシリアを気に掛け、優しい言葉をかけてくれる。リタを側に置いてくれたのも彼だ。
「聞いて下さいな、お義父様、お義母様」
待っていました、とでもいうようにヴィヴィアンが身を乗り出した。
「セシリーったら、誰と踊ったと思います?」
「最初の一曲はクレアだろう? 大切な孫娘を下手な輩に預けるわけにはいかんからな」
「ええ、そうですわ。一曲目はクレアと踊ったのですけれど――セシリーったら、途中でいなくなったと思ったら、殿下にエスコートされて戻ってきましたのよ!」
「殿下?」
まあ、とパトリシアが瞳をしばたたかせる。
「殿下!? あの!?」
エドマンドが驚いたように声を上げ、問うようにセシリアへと顔を向けた。こくんと頷けば、彼はぽかんと口を開けて固まってしまう。
「セシリー、それは、……命令か何かで?」
首を傾げていると、パトリシアが言いにくそうに口を開いた。
「違いますよ?」
きょとんとして答えてから、彼の言葉を付け加える。
「貴族がうるさいので、一緒に一泡吹かせましょうって言われました」
その瞬間に、何とも言えない沈黙が降りた。
「……あれ、もしかして、王子様と踊っちゃ駄目でしたか?」
「え……いいえ、そうではなくて」
まずかったかと問いかければ、呆気にとられていたヴィヴィアンが我に返ったように首を振る。
「殿下はその、……少し、威圧感がある方でしょう」
「ああ、たしかに鷹みたいでした」
「……そうね。
貴族のご令嬢達はあまり殿下には近づきたがらないのよ。けれど、でっぷりと太った醜い有象無象は自分の娘を殿下の元に嫁がせたがるでしょう? 嫌気が差したのか、ここ最近の殿下はすぐに姿をくらまして、誰とも踊らないのですわ」
よく分からない。
「簡単に言うと、貴族の人達は、自分の娘をお妃様にしたいのよ、セシリー」
難しい顔をしていたのか、パトリシアが苦笑して噛み砕いてくれた。
「そのためにも王子様に娘の事を知って欲しいのだけれど、娘さんたちは王子様が怖いから、びくびくしてしまうの。王子様はそれが嫌で、いつも逃げてしまうのよ。
でも、その王子様がセシリアと踊った。自分の娘をお妃様にしたい貴族達は、セシリアと王子様が仲良くしているのを見て、悔しがるっていう事」
「あたし、お妃様にはならないですよ?」
思わず声を上げると、分かっているわ、と彼女は頷く。
「そうね。でも、仲良しには見えたのじゃないかしら。だからびっくりされたのよ」
そうだったのか。
「王子様も大変ですね」
ふむふむと頷いて、ちょうど運ばれてきた料理に手を伸ばす。
焼きたてのパンにバターを塗り、口の中に押し込んだ。香ばしい麦の味を楽しみながらクラレンスの方を見れば、彼はのろのろと果物を口に運んでいる。食欲がないらしい。
ナイフとフォークを使って厚切りのハムを切り、ぎこちなく口に運んでいると、彼はようやく顔を上げてセシリアを見た。
「……他は」
唸るような声だが、これは不機嫌なのではなくて二日酔いのせいである。
「他は、何か楽しい事はあった?」
「他ですか? えっと、サンドイッチが美味しくて、タルトが美味しくて……」
ギルバートに再会した。
その事を思い出した瞬間に、手からフォークが落ちた。カラン、と軽い音を立てて床に転がったフォークを見下ろして、セシリアは目をしばたたかせる。
「セシリー?」
ヴィヴィアンが驚いたように目を瞠った。
「顔が真っ赤ですわ」
え、と声を上げて、頬に手を当てる。たしかに熱い。
そういえば、頭もくらくらしていた。ちょうど、ギルバートの事を考え始めた頃からだ。
「……風邪?」
昨夜の舞踏会で体を冷やしてしまったのだろうか。
(でも頭も喉も痛くないし、食欲もあるし……何か違う気がするんだけど……)
よく分からない。何なのだろう。
うーん、と首を傾げていたが、セシリアはサラダのおかわりが来た事に気づいて考えるのをやめた。小難しい事を考えるよりも、腹を満たす方が重要だ。
四人がこちらを見ていたが、セシリアは気にせずに目の前の食事を平らげた。食後にお茶を飲み、満足して席を立つ。
今日も、カルデローネ家の食事は美味しかった。
軽やかな足音と共にセシリアが去っていった後も、食堂には沈黙が広がっていた。誰もが黙々と料理を口に運び、食器やカトラリーが音を立てるくらいだ。
「……見たか」
そうエドマンドが口を開いたのは、全員が食事を終えた後だった。
使用人達が茶器を残して食器を下げ、最後に執事が退室していく。優秀な彼らは、エドマンドが人払いをせずともすみやかにその場を離れたようだった。
「ええ見ましたわ、お義父様。セシリーったら、顔が真っ赤でしたわね」
きらきらと輝く瞳で、ヴィヴィアンが力強く頷く。パトリシアはにっこりと笑って、傍観に徹する事にした。
「普段は色気より食い気とか言っている癖に、あのセシリーが頬を染めたぞ」
「染めていましたわね。本人は自覚が無いみたいでしたけれど」
「相手は分からないのか? クレアとヴィーも一緒に参加しただろう」
「分かりませんわ。セシリーが踊ったのはクレアと殿下だけですもの。殿下の事を話した時は、普通でしたし……」
「ヴィー、広間を抜け出した後に誰かに声をかけられた可能性もある。玄関広間までは距離があったし、セシリーは目立つから」
「でもクレア、声をかけられたからって、セシリーが簡単に惚れる事は無いと思いますわ。孤児院でお世話になった方を想っていたそうですし」
「何だそれは、わたしは初耳だぞ」
「あら、お義父様も初耳でしたのね。リタが教えてくれましたわ。もっとも、セシリーは自覚が無かったようでしたけれど」
姪の初恋をあっさりと暴露したヴィヴィアンは、身を乗り出した夫と義父を眺めてにこにことしている。血相を変えた男性陣とは対照的に落ち着いたものだ。
「いいではありませんか、お義父様、クレア。セシリーも十六ですもの、恋の一つや二つや三つや四つくらい経験して羽ばたく時ですわ」
「三つも四つも恋をされてたまるか!」
思わずといったようにクラレンスが叫ぶ。
「落ち着いて下さいなクレア。ものの例えですわ。
とにかく、セシリーが恋をするくらい良いではありませんか。きっと、とてもすてきな方だったのですわ」
ほう、とヴィヴィアンが悩ましげな吐息を溢した。
「わたくしもお会いしてみたかったわ……」
じっとりとした視線を向けてくる夫は丸無視である。
「ねえお義母様、お義母様もそう思いますわよね?」
その言葉に、パトリシアは茶器をテーブルに戻した。エドマンドとクラレンス、ヴィヴィアンの視線を受け、そうね、と口を開く。
「爵位はクラレンスが継ぐのだし、そう目くじらを立てるような事ではないわね」
ああ見えて、セシリアはよく人を見ている。変な男に引っ掛かる事は無いだろうし、王太子と踊ったからといってエドマンドは彼女を王太子妃にしようとは考えない。セシリアに政略結婚を押しつける気はないのだから、好きにさせれば良いのだ。
そう告げれば、エドマンドとクラレンスがむすっとした表情で黙り込む。
まったくもう、とパトリシアは大人げない二人を見て笑った。この二人はセシリアの母――エメリンが出奔した事が尾を引いていて、セシリアに関して過保護すぎるきらいがあるのだ。
「自由にさせてあげましょうよ。せっかく戻ってきたあの子を手放したくないのは分かりますけれど、だからといって縛るのは良くないわ」
何だか面白そうな予感がするし、と思っている事は内緒だ。
貴族に染まりきっていないセシリアなら、ありとあらゆる意味でパトリシア達を翻弄してくれそうである。
「……そうだな」
笑みを浮かべた女性陣を見て、エドマンドが深々と嘆息する。
「エメリンみたいに出奔されてはかなわぬし、……まあ、あの家でさえなければ構わないか」