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「……え」
少ない知識の中で、何かが訴えている。
急に難しい顔をしたセシリアを見下ろして、ラッセルがくつくつと笑った。
「ラッセル・ハヴェストだ」
「ハヴェスト……」
この国の名前である。
たしか王様には、一人だけ息子がいたはずだ。王子様だ。年は二十四歳で、すごく怖くて、怪物のような恐ろしい顔をしていて、人を頭からばりばりと食べてしまうという――
(……え? え? ええええええええ!?)
間近にある顔をまじまじと見つめる。
どう見ても怪物ではない。格好良い男の人だ。
「……もしかして、王子様?」
「ようやく気づいたのか」
肯定を示す言葉に、セシリアはぽかんと口を開けた。
(嘘ぉおおおおお!?)
「怪物じゃない……!」
衝撃の事実だ。
「……お前は俺を何だと思ってたんだ?」
呆然と呟くと、不可解そうに眉を潜められる。
怪物だと思っていました、とはさすがに言えず、セシリアは視線をさまよわせた。残念だ。怪物の王子様も少し見てみたかった。
「えーっと……何でしょうね……?」
へらりと笑ってごまかすと、物言いたげな眼差しが注がれる。
「それよりも、どうして王子様があんなところにいたんですか?」
慌てて話題を逸らせば、ラッセルは憮然とした表情で「お前と同じだ」と呟いた。
「お腹が空いていたんですね!」
「違う」
違うのか。
「じゃあ、どうしていたんですか?」
王宮での舞踏会は、王子が妃を探すためでもあるのだとヴィヴィアンが言っていた。お妃様を見つけなければいけないのに、なぜ王子様が一人であんなところにいたのだろう。誰かと踊らなければいけないとも言っていたし、広間を抜け出すのはいけない事だったのではないのだろうか。
それを口にすると、ラッセルが苦々しそうな表情を浮かべる。
「貴族が煩わしかったからだ。ある事ない事を勝手に吹聴するし、やれこの娘と踊れ、あの娘と踊れとうるさい」
「吹聴?」
「言いふらす、という事だ」
「なるほど」
セシリアは納得した。それは嫌だ。王子様はじろじろと見られて、色々口出しされて、さぞかし大変なのだろう。
ふむふむと頷いていると、ところで、と声をかけられる。
「お前がいた孤児院は、どんなところだった?」
「孤児院ですか?」
「そうだ。話が聞きたい」
えっと、と記憶をたどる。
「たくさん子どもがいました。ご飯の時は、いつも戦いでした」
「食べ物が無かったのか?」
「あ、いえ、最後に食べ終わった人が皿洗いをする決まりがあったので、それが嫌で」
あれは熾烈な戦いだった。孤児院の子どもはとにかく数が多いのだ。特に冬場の皿洗いは辛い。たかが皿洗い、されど皿洗いなのである。
「服も少なかったから、みんな裁縫が得意でしたよ。寒い時は、くっついて寝ていました」
「……大変だな」
「そうですか? わりと好きでしたけど。あとは……」
ふと口を閉ざす。
懐かしい人の事を思い出して、セシリアは口元をほころばせた。
「……月に一度、貴族の人が、遊びに来てくれました」
「ほう?」
ラッセルが興味深そうな表情を浮かべる。
「定期的に寄付をしてくれる貴族の人がいて、その人は月に一度、お菓子をたくさん持って会いに来てくれたんです。一緒に遊んでくれたり、古着をたくさん持ってきてくれたり。
わたし達はみんな、その人が大好きでした。とても優しいから」
彼の事を話すだけで、胸の奥がぽかぽかとしてくる。
「誰だったんだ?」
「分かりません」
その言葉に、ラッセルが意外そうな表情を浮かべる。
「探さなかったのか? 貴族なら、簡単に探し出せるだろう」
「えっと、わたし、そのころは貴族がよく分からなくて」
家名も、領地も、爵位も、何も知らなかったのだ。
院長に聞いてみようかとも思ったが、当時のセシリアは手紙が書けなかった。ヴィヴィアン達に代筆してもらうのは申し訳ない気がして頼めなかったし、自分で調べようとしても、ものを知らないセシリアには何もできなかった。
彼はいつの間にか心の宝箱に入り込んで、たまに取り出して眺めるような、懐かしいものになってしまったのだ。
「名前は分かるんですけど、さすがにそれだけじゃ探せないですし……」
「そのままになってしまった、と」
「はい」
唇を噛む。思い出したら、なぜか泣きたくなってしまった。馬車の中で、彼の夢を見たからだろうか。
足が止まった事に気づいて顔を上げると、最後の音が響き渡る。
余韻に紛れて、ラッセルの手が伸びてきた。ぽんと頭を叩かれ、がんばれよと囁かれる。
「また孤児院の話を聞かせろ。それと、何かあったら言え。協力してやる」
「わ、ありがとうございます!」
「お互い様だ」
礼を言うと、彼はひらりと手を振って人混みの中に消えてしまった。やっぱり良い人だ。怪物の王子様ではない。
さて、とセシリアは首を巡らせた。予想外に長居してしまったが、美味しいお菓子も食べられた事だし帰りたい。
なにやらギラギラとした目の男達が寄ってくるよりも早く、セシリアは広間を抜け出した。ちらりと背後を見ると、男達が後を着いてきている。あれがラッセルの言っていた「媚びへつらう輩」だろうか。たしかにぼんやりしていたら取って食われそうだ。頭からバリバリっとやられるのはお断りである。
少し考えて、セシリアは手近な部屋に飛び込んだ。素早く靴と靴下を脱いで手に持ち、ドレスの裾をたくし上げて窓枠に足をかける。少し高いが、問題ない。
窓から飛び降りたセシリアは、片膝をついて着地した。
よいしょ、と体を起こして周囲を見渡す。ここは庭園のようだ。
ぽつぽつと灯された明かりに、木や花が浮かび上がっているように見える。少し離れたところにある小道は石畳が敷かれ、奥へと続いていた。
庭園を見たかった訳ではないので、建物沿いに回り込んで御者を探す事にする。
靴を両手にぶら下げたまま、セシリアはてくてくと歩き出した。ドレスの裾を引きずっている事が気になったが、たくし上げて歩くわけにもいかない。
怒られるかなあと思いつつ、結局そのままにした。不可抗力だ。
幸いにも、そう時を置かずに馬車を降りた場所が見えてきた。靴をはき直し、靴下は畳んでドレスの中に突っ込む。馬車に乗るまでの間、裸足だとばれなければ良い。
建物の影から出ると、すぐに御者が見つけてくれた。セシリアのために許可を取って馬車を近場に停め、待機していてくれたのだ。
小さく手を振って、駆け寄ってきた彼に謝る。
「遅くなってごめんなさい。サンドイッチが美味しかったから、つい」
「……セシリア様らしいですね」
苦笑した御者は、すぐに馬車を取ってくると言って離れていった。手持ちぶさたになったセシリアは建物の端に寄り、ぼんやりと空を眺める。
ロンディアは雨が多くて、一年を通して晴れる日が少ない。今も雲が星を隠していた。
イーストエンド州では、雪が降り始める頃だ。孤児院にいた時には身を寄せ合って眠った事を思い出して、懐かしさが込み上げた。ラッセルに孤児院の事を話したせいかもしれない。
(みんなに会いたいなー……)
引き取られてから、一度も孤児院には顔を出していない。
周囲に誰もいないのを良い事に近くの手すりに腰かけ、セシリアはぷらぷらと足を揺らした。
「 Aはアップルパイ
Bがひとかじり
Cが切り分けて――」
適当に口ずさんでいると、無性にアップルパイが食べたくなってくる。
「……セシリー?」
訝しげな声をかけられたのは、セシリアが今度料理長にアップルパイを焼いてくれるように頼んでみようと決意した時だった。
「セシリア・クリスティ?」
声のする方へと顔を向ける。
「え」
思いも寄らない人物の姿を見つけて、セシリアは凍り付いた。
建物から出てきた男が、こちらを見てぽかんと口を開けている。彼は柔らかそうな茶色の髪を一つに括り、モスグリーンのコートとグレーのズボンを身につけていた。中に見えるウエストコートは焦げ茶色だ。所々に色鮮やかな草花の刺繍が施されていて、落ち着いた色彩ではあるものの、地味に見える事はなかった。
瞬きを繰り返す瞳は琥珀色だ。白くてすべすべとした肌や長い睫毛、作り物のように整った顔のせいでやたらと女性的に見える事を、そして彼がそれを気にしている事を、セシリアは「知って」いた。
「……ギルバート、様ですか?」
恐る恐る口を開く。
本当は、聞かなくても分かっていた。
だって、二年前とほとんど姿が変わっていない。声だっていつも夢で聞くものとそっくりだし、セシリアを「クリスティ」の姓で呼ぶ人なんて、彼以外には思いつかない。
何よりも、彼の事をセシリアが分からないはずがない。
慌てて手すりから飛び降り、乱れたドレスの裾を直す。
「そうだよ」
彼が頷くのを見た瞬間に、頭が真っ白になった。
(ど……どうしよう)
何を言えば良いのか思いつかない。
会いたかった。彼は貴族だから、もしかしたら会えるかもしれないとこっそり期待していた。
でも、本当に会えるとは思わなかったのだ。
「引き取られたと聞いたけれど、まさか貴族の家だったなんて」
彼はセシリアの手を取り、驚いたように呟く。どうやらセシリアがカルデローネ家に引き取られた事は知らなかったらしい。
「元気そうで良かった。君と話せなくなって寂しかったよ」
「わ、わた……」
わたしもです、と言いかけて、セシリアは言葉を途切れさせた。
蹄鉄と、車輪が回る音が近づいてくる。首を巡らせれば、馬車がすぐ側まで来ていた。
セシリアの視線に気づいたのか、ギルバートが手を放す。
「君の迎え?」
こくこくと頷くと、待たせてはいけないよ、と背を押された。つんのめるように一歩を踏み出したセシリアは、自分を呼ぶ御者へと歩を進める。
「セシリア」
呼び止められて振り向けば、彼は瞳を柔らかく細めていた。それはセシリアが一番好きな表情で、一番見たかった表情だ。
「またね、セシリア」
その言葉に頷いて、セシリアは今度こそ御者の元へと駆け寄った。御者はセシリアを見て驚いたような表情を浮かべたが、何も聞かずに扉を開け、踏み台を用意してくれる。
馬車に乗り込むと扉が閉められ、少しして動き出した。窓から王宮を眺めれば、ギルバートがぽつんと立っているのが見える。
やがて彼の姿が見えなくなり、セシリアは知らずの内に詰めていた息を吐き出した。
窓に映る顔は、林檎のように赤かった。