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シャンデリアの下で、たくさんの色彩がくるくると回っている。
早々に広間の隅に引っ込んだセシリアは、すみやかに退散すべく周囲の様子を窺っていた。幼い頃夢に見た舞踏会は、想像と実際に参加するのでは大違いだ。
まず歩きにくい。ひっきりなしに視線を向けられて落ち着かない。
そして何よりも――
「……お腹空いた」
ぐうっと鳴った腹を押さえて、セシリアは呟いた。
準備に時間がかかったせいで、昼から何も口にしていない。普段なら昼下がりに料理長がお菓子をくれるのだが、今日はそれも無かった。由々しき事態である。
(あああ、料理長のお菓子が食べたい……!)
もしリクエストを聞いてもらえるならショートブレッドだ。彼が焼いてくれるショートブレッドは、サクサクとしているのに口の中でほろほろと崩れて、バターの風味が豊かで、少しだけ塩が聞いていて、とにかく絶品なのだ。
人にぶつかりそうになりながら、ふらふらと広間を出る。
最低限の責務は果たした。ヴィヴィアンに付き添われて王様に挨拶をしたし、相手の足を踏まないで一曲まるっと踊った。もう帰っても許されるはずだ。
広間の隣の部屋に軽食が用意されている事を思い出し、セシリアはせっかくだしなにか食べてから帰ろうと足を向けた。礼儀作法の教師達には「人前で食事をするな」と口をすっぱくして言われていたが、空腹の前では些末な事だった。
時々すっ転びそうになりながら廊下を歩き、少しだけ開いた扉から体を滑り込ませる。
まだ二曲目が始まったばかりのせいか、部屋の中はがらんとしていた。料理や飲み物を運ぶ使用人達が行き来しているだけで、舞踏会の参加者は見当たらない。
貸し切りだ。
(好きなものが好きなだけ食べられる……!)
心の中で歓声を上げ、セシリアは料理が並べられたテーブルに突進した。目についたものを片っ端から皿に盛り、いそいそと部屋の隅に引っ込む。
セシリアは邪魔な長手袋を外して首にかけ(テーブルに置くという考えはない)、宝石のようにきらきらと輝くベリーのタルトを頬張り――
唖然とした表情で自分を見下ろす男に気づいた。
(……あ、やば)
心の中で呻き、フォークをくわえたまま見つめ合う。孤児院時代の癖で、横取りされないように皿はがっちりと抱え込んだままだ。
テーブルマナーをこれ以上ない程に無視したセシリアを眺め、男は口を開いた。
「……お前」
低く、威圧感のある声。
なんだか、ずいぶんと偉そうな男だった。
さらさらとした金色の髪を襟足で切り揃えて、紫紺の三揃えを着ている。襟や袖口には金糸銀糸で刺繍が施され、カフスには紫色の宝石が使われていた。まるで夜空みたいだ。
切れ長の双眸も金で、こちらは少し赤みがかっていた。形の良い顔にはすっと通った鼻筋や薄い唇が完璧なバランスを保って配置され、肌は貴族にしては日に焼けている。
(……鷹みたいな人だ)
もぐもぐと口を動かしながら、セシリアはそう思った。獲物がいたらひとっ飛びで捕らえて、鋭い爪と嘴で捕食してしまいそうな顔をしている。
「何をしている……?」
困惑も露わに問い質してくる男は、セシリアの行動がいまひとつ理解できていないようだった。
「食べてます。お腹が空いたので」
口の中のものを飲み込んでから答えると、男はますます訝しげな表情になる。
「……今、何と?」
「だから、食べて……」
律儀に繰り返そうとして、セシリアは男が困惑している理由に行き当たった。
下町訛りだ。
孤児院、それもロンディアから遠く離れた田舎で育ったセシリアは、下町訛りが酷い。引き取られてから矯正したが、今も気を抜くとぽろっと出てしまうのだった。
何度か深呼吸をしてから、改めて口を開く。
「食べています。空腹だったので」
訛りを全く感じさせない発音に、男がかすかに目を瞠った。
「……ああ、なるほど」
合点がいったのか、彼は納得したように頷いて口を開く。
「カルデローネの令嬢か」
「あ、はい、そうです」
こくこくと頷いて、セシリアはサンドイッチを頬張った。冷肉とキュウリのサンドイッチだ。下の上で肉がとろけていく感覚がたまらない。今度料理長にも作ってもらおう。
「お前はデビュタントだろう。広間にいなくても良いのか?」
「ひょれは」
「答えるのは口の中のものを飲み込んでからで良い」
応えようと口を開いたら、眉間にしわを寄せて注意されてしまった。
「……居心地が悪くて」
言われた通り、口の中のものを飲み込んでから答える。初めて社交界にデビューする娘――デビュタントはセシリアの他にもいたが、なぜか自分にばかり視線が集中して落ち着かなかったのだ。
それを告げると、男は「だろうな」と呟いた。
「お前の一挙一動をあげつらいたくて仕方がない連中に見られているんだろう。あいつらにとって、お前は珍獣のようなものだからな。
逆に、下手に爵位が高いから、媚びへつらって寄ってくる輩も多い。年頃の男の前でぼんやりしていると取って食われるぞ、気をつけておけ」
「そうなんですか?」
知らなかった。なるほど、老若男女問わず視線を感じると思ったら、そういう事だったのか。早々に広間を出て正解だった。
「知らなかったのか?」
「貴族の勉強は、まだしていないので。字と、作法と、言葉と、ダンスの練習しかしてないです」
むしろ社交界にデビューするまでにそれを身につけるだけで精一杯だった。
「字も書けなかったのか?」
男が不思議そうな表情を浮かべる。
「字が書けてもお腹一杯にならないじゃないですか」
孤児院では字が書けるよりも、畑を耕せる方が生活のためになるのだ。
「今はもう書けますよ。絵本なら読めるようになりましたし」
皿に残っていたスコーンを一気に詰め込む。ジャムとクリームを付け忘れたと気づいたが後の祭りだ。
リスのように頬を膨らませているセシリアを見下ろして、男は珍獣でも見るような顔をしていた。貴族にとってセシリアは珍獣らしいので、あながち間違いではない。
ぱんぱんに張った頬を動かしていると、男がふと手を伸ばしてくる。
セシリアがきょとんとしていると、彼は自分のポケットからハンカチを取り出して押しつけてきた。
「お前は小動物か。口の周りが食べかすだらけだ」
呆れたような声と共に頭をわし掴まれ、ごしごしと乱暴に口元を拭われる。
されるがままになっていると、男はようやくセシリアを解放した。
「意外と親切ですね」
「お前はずいぶんと失礼だな」
え、と声を上げる。
「褒めたつもりでしたよ」
「あれでか」
「はい」
失言をしていたらしい。具体的にどの辺りがいけなかったのだろう。
内心で首を傾げつつ、セシリアは周囲を見渡した。男と話している間に、他の貴族達が部屋に来てしまったようだ。
その中の一人が壁際のセシリアと男の姿に気づき、あ、と声を上げる。
「あれはカルデローネの……」
囁くような会話の合間に、ちらちらと視線を向けられた。
観察するような眼差しに、むっとして眉をひそめる。とっても不愉快だ。
美味しいものも食べられたし、さっさと帰ろう。玄関広間を出たところで御者が待ってくれているはずだ。
「たくさん人が来たので、これ以上ボロを出さないように、わたし、とっととずらかりますね」
「ずら?」
男が首を傾げる。
「逃げるって事です」
口早に説明し、それじゃあ、と背を向けた瞬間、セシリアは腕を引っ張られた。
「……なんですか?」
男を見上げれば、彼はなんだか楽しそうな表情を浮かべている。
「おいお前、あいつらの鼻を明かす気はないか?」
唐突な提案に、セシリアは目を瞬かせた。
「は?」
「ずらかる? のではなく、あいつらに一泡吹かせる気はないかと言っているんだ」
内緒話をするようにセシリアの耳元に手を添え、彼はこそこそと囁く。
「俺と一曲だけ踊れ」
どういう事だ。
眉を寄せて男を見上げると、彼はいたずらっ子のような表情を浮かべたまま笑った。
「完璧に踊りきって、優雅に礼の一つでもしてみろ。貴族達の面白い顔が見られるぞ」
面白い顔。
それは少し――いや大分心惹かれるものがある。
「わたし、相手の足を踏む達人なんですけど」
「……問題ない。あいつらの家の娘と踊る事に比べたらまだマシだ。我慢してやる」
「だったら踊らなきゃ良いじゃないですか」
「踊らないと周囲がうるさい。足を踏まれても怒らないから、暇なら付き合え」
要するに、誰かと踊らなくてはいけなくて、しかし貴族の令嬢とは踊りたくないから、珍獣に目をつけたという事だろうか。
そしてそれが、なぜか貴族達に一泡吹かせる事にもなる。
(……なんで?)
理由がさっぱり分からない。
分からないけれど、答えは決まっていた。
「あなたは良い人だから、付き合います!」
にっこりと笑って、セシリアは手袋をはめ直した。差し出された腕に手を絡め、誘われるままに歩き出す。じろじろとセシリアを観察する貴族達の面白い顔が見られるなら、そして足を踏んでも怒られないなら、べつに断る理由なんてないのだ。
「俺は良い人なのか? 貴族達は怖がって近づかないが」
「え?」
その言葉に、セシリアはきょとんとして首を傾げた。彼は一体何を言っているのだろう。
「確かに顔は怖いですけど、凶悪って程じゃないですよ? 面倒見も良いですし」
「……あのな」
「なんとなく鷹に似てますよね。隙を見せたら爪と嘴にやられちゃうんです。あ、でもわたしは好きですよ、鷹。格好良いですよね」
「見た事があるのか」
「孤児院にいた時に、猟師のおじさんに見せてもらいました。美味しかったです」
「……そうか」
広間に足を踏み入れた途端、その場が静まり返った。一斉に向けられた視線にセシリアはたじろいだが、行くぞ、という男の声に慌てて頷く。
少しして、喧噪が戻って来た。向けられていた視線が徐々に逸れていき、やがてなくなる。意図して目を逸らされているようだ。
(変なの)
セシリアは首を傾げた。相変わらず、考えるのは苦手だ。
「おいセシリア」
名前を呼ばれて我に返る。
「わたしの名前、知ってたんですね」
「当然だ。大抵の貴族なら、名前と顔が一致するぞ」
「おお……!」
それはすごい。
「そういえば、あなた、どこの誰なんですか?」
いまさらのように彼の名前を知らない事に気づいて訊ねると、男が呆れたような表情を浮かべた。
「なんだ、やはり知らなかったのか」
広間の中央で向かい合って佇んだ彼は、セシリアの手を軽く握る。もう一方の手を腰に添えられ、二人の距離がぐっと狭まった。
目の前にある金色の瞳は、楽しそうに笑っている。
「俺の名は――」
ふっと音が響き渡った。その瞬間に、滑らかな動きで体を引かれる。ドレスの裾がふわりと風をはらみ、柔らかな曲線を描いた。
(おお……!)
初っ端から足を踏まないかとひやひやしていたセシリアは、内心で驚きの声を上げた。すごい。ダンスの教師と練習した時よりも踊りやすい。
しかし。
「――ラッセルだが」
次の瞬間、セシリアは足をもつれさせそうになった。




