5
一晩降り続いた雨は、明け方にようやく上がった。
濡れた草の香りが広がり、木の葉を転がり落ちる滴が朝の光を浴びてきらめく。ひんやりとした朝の空気は染み渡るようで清々しい。
街はもう目覚めているのか、あちこちで物売りの呼び込む声が聞こえていた。領主館にも新鮮な卵やミルクが運び込まれ、使用人達が慌ただしく動き回っている。
朝食を摂ったギルバートは、御者が馬車の用意を終えるのを待って領主館を出た。馬車に揺られながら賑やかな街並みを眺め、
(……ん?)
ふと眉を潜める。
「サンザシの花はいかがですかー?」
一人の花売りが、ぴかぴかに磨かれた真鍮製の盥を持って歩いていた。盥の中には大量のサンザシが入っており、花売りは慣れたようにそれを売って歩く。
古びた胴衣とスカートに、すり切れたエプロン。
『あの子を探すんなら、屋敷にでも帰って――』
クリスティの言葉が脳裏を過ぎる。
「…………ああ、うん、そういう事か……あはは……」
しばし呆然としたギルバートは、乾いた笑みを浮かべた。扉を開けて身を乗り出し、ぎょっとする御者へと声を張り上げる。
「馬車を止めろ!」
唐突な命令に、御者が首を傾げた。構わずに再度同じ事を命じると、ようやく馬車が止まる。
「領主館に戻っていてくれ」
御者が頷くのを確認もせずに馬車を飛び降り、ギルバートは駆け出した。昨晩の雨で、道にはところどころ水たまりができている。泥が跳ねて服を汚したが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
足を滑らせそうになりながら、花売りを追いかける。慣れた調子でスタスタと歩く彼女は背が高く、増え始めた人々に紛れてもよく目立っていた。
必死に後を追っていると、子どもを連れた女性に声をかけられた花売りはようやく立ち止まった。花売りは女性から硬貨を受け取り、子どもが花を取りやすいように身を屈めてやる。
微笑みを浮かべるその横顔は、まさしく――
「セシリア!?」
「え? ……あ、ギルバート様」
ギルバートの素っ頓狂な声に、花売りの少女――セシリアが瞳をしばたたかせた。彼女は親子に手を振ってから、息を切らしているギルバートの元までてくてくと歩いてくる。
「おはようございます!」
「うん、おはよう」
ではなくて。
「君は一体なにをしているんだ……!」
ロンディアの社交界では大騒ぎになっているというのに!
「え?」
セシリアがきょとんとしたように首を傾げる。
「働いてますけど」
見れば分かる。
「殿下との婚約から逃げたんじゃないのか……?」
「……ああ、そういえばそうでした」
その言葉に、セシリアはたった今思い出したというように頷いた。
「でもよく考えたら、逃亡資金が無かったんですよ。王宮でのお給金は脱走の時に置いて来ちゃいましたし、返せるか分からないから院長先生に借りるわけにはいかないし。
ちょうど〈春告げの祭〉が近くて人手が足りないらしいので、孤児院の子として花売りをしてました」
「……そう」
「はい」
なんとも彼女らしい回答だった。
なぜだろう、あっさりと見つかった事は嬉しいのに、喜びよりも脱力感に溢れている。
並んで歩きながら、ぽつぽつと言葉を交わす。
「……家に戻る気はある?」
恐る恐る問いかければ、彼女はうーん、と悩むような素振りを見せた。
「戻りたいですけど、王子様に見つかっちゃいそうだなって。あとその前に、やらなきゃいけない事があって」
「やらなきゃいけない事?」
首を傾げる。
「はい」
こくりと頷いたセシリアが立ち止まり、盥を地面に置いた。周囲に振りまいていた笑みを引っ込め、真面目な顔でギルバートを見上げる。
「ギルバート様にガツンと言ってやらないと気が済まなくて」
そう紡ぐ声からは、たしかな怒りが感じられた。
嫌な予感に歯を食いしばると、間髪入れずに拳が飛んでくる。
ギルバートの胸元を殴ったセシリアが、きっと睨みつけてきた。
「ひどいですギルバート様! あたし、何度も何度も助けてってお手紙書いたのに! お返事下さいって書いたのに! ヴェロニカに渡してもらったのに!」
榛色の瞳がうるうると潤む。
ギルバートはぎょっとして目を見開いた。泣くのか? ここで泣くのか!
「家出したら心配されるって分かってたからぎりぎりまで待ってたのに、ギルバート様は迎えに来てくれないし! さては王子様が勝手に流した噂を信じて魂飛ばしていたんですね!」
その通りである。
言葉に詰まっていると、彼女はぷうと頬を膨らませてそっぽを向いた。
「ギルバート様のばか、あほ、へたれ、甲斐性なし、……とんま、いじわる。えっと……捕食されちゃえ?」
思いつく限りの罵声を浴びせるつもりらしく、セシリアは首を捻りつつも言葉を紡ぐ。
「早く花冠をくれないと、嫌いになっちゃいますからね!」
そして最後には、花冠をゆすってきた。ふいっとそっぽを向いた彼女の頬は、ほんのりと赤い。
「ごめんね、セシリア」
愛しさが込み上げてきて、ギルバートは彼女を抱きしめた。
「迎えに行くのが遅くなってごめんね。一瞬でも噂を信じてごめん」
「……それだけですか?」
拗ねたような声。
ああもう、彼女には敵う気がしない。
「セシリアの気持ちを疑ってごめんなさい」
心の底から謝ると、セシリアが抱きついてきた。
「あたしが花冠をもらうのは、ギルバート様からなんです」
笑み混じりの声が耳に届く。
「そうだね」
少し日に焼けた額に口づけると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。ふわふわとした金茶の髪を撫で、榛色の瞳を見つめる。
「一緒に帰ろうか、セシリア。僕の〈春の女王〉。
帰った先で、花冠を捧げる事をお許し下さいますか?」
冗談めかしたその言葉に、セシリアがきょとんとする。
ややあってそれがプロポーズだと気づいた彼女は、とびきりの笑顔を見せた。
「はい!」
直後、ギルバートはセシリア渾身の頭突きを食らう事となる。
「ガツンとやるのを忘れてました」
少し赤くなった額を押さえた彼女は、とても清々しい表情をしていた。