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『セシリー』
とっても懐かしい声がした。
セシリアの前で、その人は笑っていた。内緒だよ、といたずらっぽく笑って、セシリアの掌にきらきらとしたものを落としてくれる。
『ギルバート様、これ、宝石ですか?』
渡されたそれをつまみ上げて、セシリアは首を傾げた。彼にもらえる物ならなんでも嬉しいけれど、宝石はちょっと困ってしまう。孤児院の子ども達が飲み込んでしまうかもしれないし、宝石でパンが何個買えるか、計算できないからだ。
『あたし、宝石よりもパンかお金が良いです……』
しょんぼりと肩を落とすと、彼はきょとんとした後、弾けるように笑った。
『違うよセシリー、これは飴』
『飴ですか?』
『そう、お菓子だよ。宝石みたいにきれいだから、みんなには内緒で、セシリーにあげる』
試しに一つ口に入れてみるととても甘くて、思わず頬がゆるむ。
飴はきれいで、おいしくて、まるで幸せがぎゅっと固まったみたいだった。
『ありがとうございます!』
感謝の気持ち込めて彼に抱きつき、背伸びをして頬に口づける。驚いた顔を見ていると胸がどきどきしてきて、顔が熱くなった。
『セシリーが喜んでくれるなら、また持ってくるね』
『本当ですか!?』
『うん、約束する』
彼はにこにこと笑って、セシリアに約束をしてくれる。
――その約束は、果たされなかったけれど。
***
ぽつぽつと街灯が灯るロンディアの街を、馬車は滑るように進んでいく。
うとうととしていたセシリアは、一際強い揺れに目を覚ました。
のろのろと首を巡らせ、榛色の瞳を瞬かせる。まだ夢の余韻から抜け出せなくて、頭の中が少しだけ混乱していた。
「うー……」
小さく唸っていると、クスクスと小さな笑い声が聞こえる。
「おはようセシリー」
正面に腰を下ろした女性に声をかけられ、セシリアはこくりと頷いた。
「おはようございます、ヴィーお義姉様」
回らない口で言葉を紡げば、彼女はふんわりとした笑みを浮かべる。
「よく寝ていましたわね。昨夜は寝付けなかったのかしら?」
「いえ、準備に疲れて」
「あらあら」
苦笑する彼女を尻目に、頭を振って眠気を追い払う。
ガラス窓に映る自分の姿を眺め、セシリアはこっそりと嘆息した。
肩や背が露わなドレスはシフォンで作られていて、胸の下で切り替えられた生地が優雅なドレープを生み出している。ランプの光を受けて艶やかに輝く布地には、銀糸で花の刺繍が施されていた。
肘までを覆う長い手袋と靴下、髪を飾るリボンは揃いのレースだ。やたらと細いヒール靴の生地はサテンだと聞かされた。
全てが真っ白な中で、丁寧に梳って結い上げ、白い花を挿した金茶の髪と、ミントグリーンのショールが鮮やかに映えている。
(……うん、似合わない)
とっくりと自分の姿を検分し、セシリアは改めて評価を下した。ドレスを着ているのではなくて、ドレスに着られている状態だ。
「似合いますわよ」
セシリアの心中を察したのか、義姉――実際には叔母――ヴィヴィアン・ウォルトン・カルデローネが手を伸ばしてくる。
薄く化粧を施された頬を撫でて、彼女は目を細めた。
「懐かしいわねえ。わたくしが社交界にデビューしたのはついこの間の事だと思っていたのに、いつの間にか人妻になっていましたわ。わたくしももうおばさんね」
そう言って笑うが、彼女はどう見ても三十路を超えているようには見えない。それどころか、十六歳のセシリアと同年代と言っても差し支えがないほど若く見える。
「お義姉様はおばさんには見えませんけど」
首を傾げれば、彼女は当然よ、と唇に笑みを刻んだ。
「だってわたくし、この美貌を保つ事に全力を傾けているのよ。いつまでもあの人の心を独り占めしていたいんですもの、当然でしょう?」
ブルネットの巻き髪を揺らし、少女のように頬を染めて恥じらう様は、セシリアもどきっとしてしまうほどにはかわいらしかった。叔父であるクラレンスが骨抜きになってしまうのもよく分かる。
「そういえばお義姉様、お義兄様は?」
「先に王宮に行きましたわ。広間に入ってから落ち合う予定ですの」
なるほどと頷いている間に馬車が止まり、扉が開けられた。ヴィヴィアンに続いて地に降り立つと、きらびやかな衣装に身を包んだ人々が一斉に視線を向けてくる。
「あれがカルデローネの……」
どこからともなく聞こえてきた声に、セシリアはぴくりと眉を跳ねあげた。
「あらまあ」
おっとりと声を上げて、ヴィヴィアンが手にした扇を額に当てる。薔薇色の唇は緩やかな弧を描いているが、目が笑っていなかった。
「まったく、うるさい有象無象だこと」
輝くばかりの笑顔で言い放ち、彼女は行きましょう、とセシリアを促す。
堂々と道の真ん中を進む彼女を追い、セシリアもドレスを捌いた。背筋を伸ばし、堂々と視線を受け止める。
社交界に出るのは今日が初めてだというのに、セシリアの存在は、もう十分に知れ渡っているようだった。
セシリアは、十年以上前に出奔したカルデローネ辺境伯の娘、エメリン・カルデローネの娘だ。イーストエンド州の田園地帯で育ち、十四歳の秋に叔父のクラレンス・カルデローネに見つけられるまで、孤児院で暮らしていた。
クレランスによると、エメリンは申し込まれた縁談を蹴って姿をくらましたらしい。カルデローネ家は母を探したが、ついぞ見つける事はできなかった。
それを聞いたセシリアは何てもったいない事をと思った(だって貴族だ、日々の糧に事欠かないのだ)が、直後に相手が金と権力だけはある、年の離れた好色親父だったと告げられて納得した。それは嫌だ。セシリアは生まれて初めて母に喝采を送った。
その母は数年前に捜索を打ち切られ、今も足取りは掴めていない。セシリアが見つかったのは、奇跡に近かった。カルデローネ家の紋章が刻まれた釦を持っていなかったら、今も孤児院で子ども達を仕切っていたに違いない。
その年の冬が来る前に、セシリアはカルデローネ家に引き取られた。カルデローネ家は孤児院に莫大な寄付を行い、さらに孤児院の年長者を何人か雇ってくれた。
年老いたカルデローネ辺境伯はセシリアをかわいがってくれるし、母の弟――時期当主のクレランスとその妻のヴィヴィアンも優しい。
彼らに支えられて、セシリアは伯爵令嬢としての生活を始めたのであった。