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セシリア・カルデローネ伯爵令嬢が王宮から失踪した。
その事件は、数日中にはロンディアの社交界に広がった。王宮側は必死に隠そうとしたが、箝口令を敷く前に周知の事となってしまう。
人々は話題に事欠かない令嬢だともはや苦笑気味だったが、当事者達にとっては冗談ではない。
「どういうことですか!?」
王宮に乗り込んだギルバートは、書類から顔を上げようともしないラッセルを見て声を荒げた。
「……シルワ子爵か。事前に申し入れの無い面会は受け付けていないのだが」
「非礼は承知致しております」
しかし今は、そんな事を気にしている場合ではない。
彼の手から書類をひったくり、ギルバートはデスクに手をついた。ラッセルが緩慢な仕草で顔を上げる。
「……殿下。カルデローネ伯爵令嬢が失踪したとはどういうことですか」
周囲の空気が音を立てて凍り付いた。ギルバートに向けられた黄金の瞳が眇められ、剣呑な光を宿す。
「貴殿には関係のないことだ」
唸るような声。
今すぐにでも回れ右をしたくなったが、ここで帰るわけにはいかない。
「いいえあります。他ならぬセシリアのことなのですから」
彼女の名前を口にして、ギルバートはラッセルを睨みつけた。
「彼女は殿下と婚約される予定だったのでしょう。それがどうして、王宮から失踪などしているのですか」
「フォルテ家には好都合では? カルデローネ家が王家と姻戚関係になれば、力の関係が大きく崩れる」
「そうですね。フォルテ家としては好都合です。
しかしわたし個人には関係ありません」
ギルバートはカルデローネ家の令嬢ではなく、セシリアを気に掛けているのだから。
「……あの子に何をしたのですか」
もしセシリアが本当に姿をくらましたというのなら、理由があるはずだ。
家出の件で、彼女は自分がどれだけ周囲に迷惑をかけたのか理解していた。その上で姿を隠したというのだから、彼女は姿を隠さざるを得なかったのだ。
「何もしていない。まだ」
「……『まだ』ですか」
いずれは何かするつもりだったのか。セシリアにあんな事やこんな事をするつもりだったのか。
(あ、なんか今すごくいらっとした……)
ついでにぷつんといきかけた。危ない。
「もし殿下との婚約が自分の意思ならば、彼女が逃げ出すはずがありません。
……あえて訊ねさせていただきます、殿下」
深く息を吸い、逸る心を落ち着ける。
「彼女と婚約されるというのは、二人の意思でしょうか?」
「そうだ」
即答。
彼の瞳は、まったく揺らがない。
心が鋭い痛みを訴えた。もしそれが真実であるというのなら――セシリアの意思だというのなら、ギルバートには止める事ができない。
けれど。
「それなら」
自分を待っていると言った数日後に、婚約の噂が広がった。ラッセルは明らかに自分を敵視していて、勝ち誇ったような表情を浮かべている。
だからギルバートは、彼女が自分ではなく王太子を選んだのだと思った。
しかし彼女は、ギルバートが腑抜けている間に姿をくらました。周囲に迷惑をかける事を理解し、なんの「けじめ」もつけぬまま。
だから、理由を求める。
「それなら、なぜセシリアは失踪したのです、殿下。納得する理由をお聞かせ下さい」
社交界の中では誰よりも長く彼女を見てきた自分を、納得させる理由を。
金色の瞳が逸らされる。
「……貴殿に話す必要はない」
「殿下」
「話すことはない。お帰り願おうか。……ヴェロニカ」
言い募ろうとしたギルバート遮って、彼は背後に控えていた侍女に視線をやった。
「かしこまりました」
ヴェロニカは頷いて、相変わらず感情の読めない顔でギルバートを追い出しにかかる。
ぐいぐいと体を引っ張って部屋から追い出そうとするヴェロニカに抵抗していると、ラッセルの声が投げつけられた。
「彼女は我々が探している。貴殿は何も心配する必要などない」
「……あの子がそう易々と見つかるはずがないでしょう」
婚約した後ならまだしも、たかが伯爵令嬢一人に、王宮が大がかりな捜索は行えない。もし大がかりな捜索をしたいなら事の次第をつまびらかにしなければならないが、ラッセルはそうしないだろう。王宮側が失踪を隠したがったという事は、それが彼の不利になるという事でもあるからだ。
「あれにはあまり知人がいないだろう。そこを当たっていけばすぐに見つかる」
その言葉に、ギルバートは唇を吊り上げて笑ってみせた。
(……甘い)
たしかに貴族の知人は少ないが、彼女は一人ならば貧民街だろうが農村だろうがどこにでも身を隠すことができる。
「殿下にはきっと見つけられませんよ。あの子のことを知らないのですから」
「……それなら、お前には見つけられるというのか?」
「あなたよりは確率が高いでしょうね」
はっきりとした声音でそう告げれば、彼は唇を噛んだ。
剣呑な眼差しを、今度はしっかりと受け止める。
睨み合う二人を遮るように、扉が閉まった。
「玄関広間までお送りします」
淡々と告げるヴェロニカを眺め、ひとつ嘆息してからその後を追う。彼女はセシリアの元に手引きしてくれた人物だが、何かを聞き出せるとは思えなかった。
互いに黙りこくったまま廊下を進む。
「……あなたはばかですか?」
ヴェロニカが口を開いたのは、玄関広間が見えてきた頃だった。
「いいえ、ばかですね。ばかに違いありません」
冷静な声でそう断言する彼女からは、僅かに呆れの色が見える。
(……どうして僕は彼女に罵られているんだろう)
わけも分からずに小さな背中を眺めていると、彼女は深々と嘆息した。
「議会の際にお配りした資料」
「は?」
いきなり何だ。
「あなたに渡したものは、他の方に配ったものよりも若干多いのです。それはあなたには誰よりもしっかりと目を通していただきたかったからなのですが、……どうやらご覧になっていないようですね。失望しました。資料はもう、火にでもくべてしまいましたか?」
ああそうそう、と彼女は続ける。
「わたしがあなたに資料を配ったのは、半月前からつい先日まででしたね。今後は資料を多めにお渡しすることはありませんので、そのつもりで」
半月前から先日まで、ギルバートに渡された資料は他の者に渡されたものとは違う。
今後は配る事がない。
(……まさか!)
「ではシルワ子爵、わたしはこれで」
ギルバートを迎えの馬車に押し込め、一歩下がったヴェロニカが頭を下げる。
その足元で、灰色の猫がにゃあと鳴いていた。
帰宅したギルバートは、すぐさま書斎へと足を向けた。
ここ一月分の議会の資料を取り出し、人払いを行う。資料に記された日付を確認し、半月前からのものを時系列にそって並べた。
そして、ようやくある事に気づく。
「……白紙?」
半月前から、白紙が挟まれているのだ。
ご丁寧にも右下には「書き込み厳禁」と流麗な文字で綴られている。
それを全て取り出し、ギルバートはどうしたものかと首を傾げた。これがヴェロニカの言っていた「資料」なのだろうが――
(どうやって『目を通せ』と言うんだ……)
困惑し、白紙の束を持ち上げる。
香水でも振りかけたのか、ほのかに柑橘類の香りがした。
『火にでもくべてしまいましたか?』
ヴェロニカの言葉が脳裏を過ぎる。
火。柑橘類の香り。
(……ああ、そういう事か)
苦笑して、ギルバートはランプを引き寄せた。上部のかさを外し、ちろちろと揺らめく炎に紙をかざす。
少しして浮かび上がったのは、たどたどしい文字で綴られた手紙だった。
『助けて下さい』
『王子様に閉じこめられました』
『お妃様にされてしまいます』
「……っ」
手に汗が滲む。
『手紙が禁止されています』
『ヴェロニカがギルバート様に渡すと言ってくれました』
『オレンジは字を書くのではなく食べたいです』
『お返事待ってます』
何やら関係ない事まで書いてあったが、気にしない事にした。
『今日のスコーンは最高でした』
『お茶も美味しいです』
『ジャムは酸っぱかったです。でも美味しかったです』
『書き忘れていました。助けて下さい』
……気にしてはいけない。
『王宮から逃げようと思います』
『ヴェロニカと、侍女仲間と、あと門番さんが助けてくれるそうです』
『前は誰にも言わないで心配させたので、ギルバート様には教えておきます』
『やっぱりオレンジは食べたいです』
『脱出したら、しばらくの間――』
そこまでで十分だった。
唇を引き結んで、ギルバートは紙の束を折り畳んだ。隠しポケットにしまい、ランプのかさを元に戻す。
数時間後、フォルテ家のタウン・ハウスの門を、二台の馬車が潜った。




