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「……これはまずい」
ぐったりとソファに体を預け、セシリアは呟いた。
客室に軟禁されてから、もう五日が経過している。その間に何度も脱出を図ろうとしたが、ことごとく失敗に終わっていた。
客室を訪れるのはラッセルと彼の侍従、ヴェロニカ、そして面識の無い侍女数名のみ。手紙も禁止され、何も情報が得られない。
膝の上にのしかかる重みに視線を下げれば、ちびがセシリアを見つめている。三日間断食して抗議したおかげで、ちびだけは部屋を自由に出入りさせてもらえていた。
にゃあにゃあと鳴きながら体をこすりつけてくるちびを撫で、ふうとため息をつく。
誰につけてもらったのか、ちびの首にはハンカチが巻かれていた。ゆるく結ばれた先には紙を折って作った花がくっつけられていて、体を動かすたびにカサカサと音を立てている。誰が作ったのだろう。
(王宮に小さな子どもっていたっけ?)
内心で首を傾げながら、ちびの首からそれを外す。
そういえば孤児院にいた頃、院長が紙を花の形に折ってくれた事があった。細い指が一枚の紙から花を生み出す様は魔法みたいで、わくわくしながらそれを眺めていたことを思い出す。
(院長先生、元気かなあ……)
こんな時だが懐かしさに駆られ、セシリアは瞳を細めた。幾重にも花弁が重なっているように見える花を指先で弄び、くるりとひっくり返し――目を丸くする。
『セシリー』
殴り書きのような文字が踊っていた。
(手紙!?)
こんな方法で、一体誰が。
部屋に自分とちびしかいないことを確認して、セシリアは花を慎重に開いた。途中で紙を破らないように、そして折り方をしっかりと記憶するように。
一枚の紙に戻したそれからは、ほんのりと柑橘類の香りがした。宛名とは打って変わって流麗な文字が並んでいる。
『あなたの力になります。
つきましては、しばらく大人しくしているように。』
(……これだけ!?)
たっぷりと時間をかけて読み返したが、やはりこれだけだ。送り主の名前も書いていない。
構ってくれとすり寄ってくるちびを撫でながら、セシリアは引きつった笑みを浮かべた。大人しくしていろと言われて、はいそうですかと従うようなタマではない。
悪戦苦闘しつつも何とか花の形に戻し、セシリアは手紙をドレスのポケットに突っ込んだ。日が暮れて侍女達がランプを灯してから、再度手紙を取り出す。
(どうしよう、これ)
不用意に放置するのはまずい気がする。
しばらく悩み、セシリアは手紙を燃やすことにした。ラッセルは手紙のやりとりを禁止している。このまま持っていたら、色々と面倒なことになりそうだ。
ノックもなしにドアが開いたのは、セシリアがちろちろと揺れる小さな炎に手紙をかざした瞬間だった。
「セシリー」
かすかな衣擦れと共に姿を現したヴェロニカを見て、セシリアは固まった。
目の前にはランプ。手には手紙。
「…………えっと」
証拠を隠滅するはずが、むしろばっちりと見られてしまっている。これはまずい。実にまずい。
扉を閉めて鍵をかけたヴェロニカは、セシリアが手に持っているものを見て、呆れたように瞳を眇めた。
「まだ見ていなかったのですか」
(……え?)
きょとんとして瞬くと、彼女はほんの少しだけ口元を緩める。
「その手紙の送り主、わたしです」
「……は?」
間の抜けた声が唇から零れた。
「ですから、その手紙の送り主はわたしです。セシリー、あなたが殿下から逃げたいのでしたら協力します」
一体どういうことだろう。
ヴェロニカはラッセルの侍女で、彼からとても信頼されている。
その彼女がラッセルを裏切って、セシリアを助けると言っているのだ。
(……だめだ)
思考が追いつかない。ここ最近、柄にもなく頭を使っているせいか、知恵熱が出そうだ。
「……えっと、どうして?」
沈黙の末の問いに、ヴェロニカが肩を竦める。
「わたしがセシリーを大切な友人だと思っているから、ではだめでしょうか?」
「いまひとつ」
決め手にかける気がした。
だってヴェロニカは今、セシリアと目を合わせていない。
「……そうですか」
ぽつんと呟いてから、ヴェロニカはため息をついた。
「では本当のことを言います」
淡い緑の眼差しが、真っ直ぐ向けられる。いつになく強い眼差しに息を飲むと、彼女はふっと微笑んだ。
頑なだった蕾が、一気に綻ぶ。
頬に落ちかかるプラチナブロンドの一房が肌に淡く影を落とし、妙に艶やかな印象を与えた。紅色の唇は優美な曲線を描き、柔らかく細められた瞳は芽吹いたばかりの若葉のように瑞々しい。
(冬の人だ)
そんな感想がふっと脳裏に浮かび、広がっていく。
彼女は冬のような人だ。
冷たい雪で溢れる色彩や命を押し隠して、芽吹きを待っているのだ。
「あなたに殿下と結ばれて欲しくないからですよ」
歌うような声で、ヴェロニカはそう言った。
「わたしは殿下の事をお慕いしているのです」
「お妃様になりたいってこと?」
「違います。ラッセル様の愛する人になりたいのです」
わざわざ言い直したという事は、それは「お妃様になりたい」というのとは違う意味を持っているのだろう。
「だからあなたは恋敵なのですよ、セシリー。あなたがシルワ子爵と結ばれてくれたら、わたしはとても助かるのです。ライバルがいなくなるのですから」
「えっと、じゃあ、今のわたしは邪魔者?」
「とても邪魔です」
ためらいなく頷かれたけれど、彼女を責める気にはならない。はっきりと言ってくるヴェロニカは、なんだかとても魅力的だった。
「じゃあどうして『好きです』って言わないの?」
「爵位が低いからです。わたしの実家はノースエンド州の中でも北方――とても寒い地域で、貧しいのです。ディンナム家は辛うじて貴族の括りに入っているような存在なのですよ。
殿下に愛を告白したとしても、応えていただけるとは思えません。釣り合いませんから」
「王子様は、そんな事を気にしないと思うけど」
真面目な顔で口を開けば、彼女はしばらく黙り込んだ後、困ったような表情で頷く。
「そうかも……いえ、そうでしょうね。殿下なら、気にしないかもしれません。本当は自信がなくて、勇気もなくて、何より殿下に追いかけていただきたいのだと思います。必要としていただきたい、手に入れようとしていただきたい、そういう事なのだと思います。
だからわたしは、そのために謀を巡らせます」
ヴェロニカが満面の笑みを浮かべる。化粧気もないし、装飾品だって付けていないのに、彼女は社交界で見たどの貴婦人達よりも輝いている気がした。
「共同戦線を張りましょう、セシリー。わたしはわたしのために、あなたはあなたのために動くのです。ですから、これはあなたとわたしの謀」
謀。
愛しい人を手に入れるために巡らせる、恋する乙女達の謀。
「セシリー、あなたはラッセル様と婚約したいですか?」
その言葉に唇を引き結び、セシリアは勢いよく首を振った。
ラッセルは良い人だ。優しい人で、すてきな王子様だ。
だけどセシリアの心に住んでいるのは、情けなくて、夢見がちで、頼りない、でもまっすぐにセシリアを見て、大切にしてくれるギルバートだ。王子様の場所なんて、最初から用意していないのだ。
「したくない」
「では、わたしの手を取りますか?」
差し出された手を、迷いなく取る。
「ヴェロニカ、一つだけ聞いて良い?」
「何でしょう、セシリー」
「これは、本当にただの共同戦線?」
ヴェロニカがふいとそっぽを向く。
その頬は心なしか、ほんのりと色づいていた。
「……そうですよ。セシリーが大切な友人だからではありません」
彼女はやっぱり、良い人だった。