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翌朝。
「……よし!」
手早く身支度を調えたセシリアは、気合いを入れて扉を開いた。部屋の隅に置いたカゴの中でちびが丸くなっていることを確認してから、ラッセルの執務室に向かう。
ギルバートには帰るように言われたが、セシリアはラッセル付きの侍女だ。分かりました帰ります、というわけにはいかない。
とりあえずカルデローネ家に手紙を送り、ラッセルと話し合ってなるべく早く侍女の仕事をやめさせてもらおう。ヴェロニカに相談したかったが、もうラッセルの元へ行ってしまったのか見つからなかった。
「……ここ最近は、王子様のお部屋まで一緒に行ってたのに」
少しは仲良くなれたと思っていただけに寂しい。ギルバートに会わせてくれたお礼も言いたかったのに。
小走りに廊下を進み、執務室にたどり着く。驚いた事に、扉の前にヴェロニカが佇んでいた。珍しい事もあるものだ。
「あ、おはようヴェロニカ」
「……おはようございます、セシリー」
駆け寄ってきたセシリアを見て、ヴェロニカが目を見開く。
その瞳に切迫したような光が浮かんでいることに気づき、セシリアは首を傾げた。
「……セシリー」
いつになく硬い声音で、彼女は囁く。心なしか顔色が悪い。
「もしあの人に思いを寄せているのでしたら――」
何かを言いかけて、ヴェロニカははっとしたように口を閉じた。一拍置いて、扉が内側から開かれる。
「どうした二人とも、早く入れ」
どこか刺々しい雰囲気を漂わせたラッセルが、二人に視線を向けた。
執務室の空気は、いつになくぴりぴりとしている。その中心にいるのはラッセルだ。
(……どうしたんだろう)
ラッセルとヴェロニカを眺めていると、音もなく扉が閉まった。
ついで、ガチャリと鍵をかける音。
(……え?)
嫌な予感が押し寄せる。
「セシリア」
ラッセルに名を呼ばれ、セシリアははっとして彼を見上げた。
昨日の事はとっても気まずいが、彼にもきちんと謝らなくてはいけない。
「あの、王子様、昨日はすみませ……」
「本日付けで、お前を解雇する」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、セシリアはぽかんとした。
「それを言いたかったのだろう?」
こくこくと頷くと、彼は正面まで歩いてくる。
「だから、解雇した」
セシリアがカルデローネ家に帰りやすいように気を遣ってくれたということだろうか。
(……解決? 解決したの?)
昨夜ずいぶんと悩んだのが嘘のようだ。
「あ、ありがとうござ……」
セシリアは困惑しつつ礼を口にし、
「そして今日からお前は俺の婚約者だ」
「…………は?」
絶句した。
婚約者。
誰が。
誰の。
「セシリア・カルデローネ。お前は今日から、俺の婚約者だ」
「……はぃいいいいいいい!?」
意味が分からない。何がどうしてそんなことになったのだ。
「いずれ妃にしても良いと思っていると、昨日言ったはずだが」
「……いやいやいやいやちょっと待って下さい王子様なにを血迷っているんですか!?」
(思いっきり拒絶してたよね!?)
とりあえず断れ。断らなくては。
「お断りします!」
「拒否権はない。カルデローネ家にはお前と婚約したいとの旨をすでに伝えてある」
なんて用意周到な王子様だ!
口をぱくぱくとさせているセシリアを見て、彼は満足げに口の端を吊り上げる。彼の背後に獲物を捕らえた鷹の幻が見えたような気がして、くらりと目眩がした。
「あのですね王子様、あたしには好きな人がですね――」
飛び出た下町訛りにラッセルは眉をひそめたが、何とか聞き取れたらしい。
「そうだな、お前は俺を愛していないな」
「そうです! 愛の無い結婚には反対です!」
勢い込んでまくし立てたが、次の瞬間、ふんと鼻で笑われてしまった。
「俺は愛しているのだから問題ない」
セシリアの意思はどうなる。
「お前はシルワ子爵と想い合っているのだろうが、どうせカルデローネ家とフォルテ家だ、結ばれるはずがない。
顔も知らない相手に嫁がされるくらいなら、俺のものになっておけ、セシリア。大切にしてやる」
(なんて上から目線の求婚……)
呆れてものも言えない。いや言うが。言わせてもらうが。
「とにかくいやです! お断りします! お仕事もなくなったので家に帰ります!」
一方的に言い放って、セシリアは踵を返した。とにかく一度家に帰ろう。エドマンド達に婚約やら何やらの件は誤解だと訴えて、きちんと話し合おう。最初に逃げたツケが回ってきたのだ、ここはがんばるしかない。
突っ立っていたヴェロニカと侍従を押しのけ、扉へと手をかける。――開かない。
(……そういえば、鍵をかけていたような……)
背に冷や汗が滲む。これはもしかして、いやもしかしなくとも相当にやばいのではないだろうか。
「もう一つ言っておく事があった。少なくとも正式に婚約が結ばれるまで、お前は家に帰さない。カルデローネ家には悪いが、王宮に転がり込んできた時のように逃げ出されてはたまらないからな」
横暴だ!
きっとラッセルを睨み付けると、彼は楽しそうに目を細めて口を開いた。
「ヴェロニカ、俺の婚約者殿を客室へ。見張りを付けて、抜け出せないようにしておけ。手紙の類は、渡す前に俺を通せ」
「……かしこまりました」
感情の読めない声で答えて、ヴェロニカがセシリアの腕を掴む。反対側の腕は、従者に掴まれた。
そのままズルズルと客室まで連行され、ぽいと放り込まれる。
外側から鍵をかけられる音が響いた。慌てて扉を開けようとするが、びくりとも動かない。窓から脱出しようとも思ったが、階下には兵士達が佇立していた。
軟禁状態だ。
「……嘘でしょ?」
その場に座り込み、セシリアは呆然と呟いた。
新たな噂が広まったのは、彼女と再会した二日後のことだった。
「聞いたか、カルデローネ家の令嬢が婚約されるとか――」
耳に飛び込んできた囁きに、ギルバートははたと足を止めた。
(……なんだって?)
いつになく議場が騒がしいと思ったら、とんでもない噂が飛び交っている。
「しかも相手はあの殿下――」
「たしかに親しそうではあったが――」
「現在は王宮で王子と共に過ごしているとか――」
曰く、カルデローネ家の令嬢が王太子と婚約した。彼女は彼に乞われて王宮に滞在しており、彼女がここ最近姿を見せなかったのは、婚姻の準備に奔走していたからである――。
(そんな、ばかな)
セシリアは縁談から逃れるために王太子の元へ転がり込んだのだ。再会した時も、ギルバートを待っていると言ってくれた。
王太子と婚約するはずがない。
(……でも)
王太子の方はどうなのだろう。
ふとその疑問が頭をかすめる。
彼には今まで、浮いた噂など一つもなかった。舞踏会でも、誰かと踊る事はなかった。
――セシリアが、現れるまでは。
だから失念していたのだ。ギルバートと同じように、彼がセシリアに惹かれる可能性もある事に。
一際大きなざわめきに顔を上げると、普段は絶対に遅刻などしない王太子が、侍女を伴って議場に入ってくるところだった。
「すまない、遅れた」
堂々とした声音でそう告げ、彼はふとギルバートを見る。
「……『俺の』婚約者の元にいたら、つい遅れてしまった」
ギルバートにしか聞こえないように抑えられた声が鼓膜を震わせる。
途端に、周囲の音が遠のいた。頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。
勝ち誇るようなラッセルの表情が、視界の端にちらついた。
(……セシリア)
心の中で愛しい少女の面影を追うが、なぜだか見つけられない。
(……まさか、本当に殿下と……?)
彼の後について入室してきた侍女から議会の書類を受け取りつつ、ギルバートは呆然と王太子を眺めた。




