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冴えた月の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
「……はあ」
ひとつ寝返りを打って、セシリアはため息をついた。傍らの台に置かれた燭台をぼんやりと眺め、蝋が溶けていく様を見るともなしに観察する。
お腹も空いていないし、まだ眠たくもない。早い時間に寝台に潜り込んだが、暇で仕方がなかった。
(……どうしようどうしようどうしよう)
しかし、頭の中はめったにないほどの勢いで働いている。
ここに来てようやく、このままでは色々とまずいと理解したセシリアだった。
(あたしはギルバート様と一緒にいたくて、そのために家出して、お祖父様達はめちゃくちゃ心配してて、ギルバート様はあたしがばかなことをしたから怒ってて、匿ってくれた王子様はあたしのことをお妃様にしても良いとか言い出して――)
もうしっちゃかめっちゃかだ!
「あああごめんなさいギルバート様、良い子で待っているつもりだったのに……!」
このまま王宮にいたらどうなるのだろう。まさか本当にお妃様にされるのだろうか。
(いやいやいやいや)
冗談だ。冗談に決まっている。明日になったらラッセルが満面の笑みで「はっはっはっ、引っ掛かったな、冗談だ!」と……それはそれで怖い。
寝ることを諦め、もぞもぞと体を起こす。
ここ一月の間にすっかり見慣れた部屋を見渡して、セシリアはもう一度ため息をついた。
(明日からどうしよう)
目下の問題はそれだ。
明日になれば、セシリアはラッセルと顔を合わせる事になる。気まずいことこの上ない。セシリアはお妃様になるつもりなど無いのだから。
実家の事も気になる。一度帰って、きちんと「ごめんなさい」をしなければならない。まさかそこまで心配されているとは思わなかった。
それに、何よりも。
「……ギルバート様……」
彼に謝らないといけない。ギルバートはセシリアを心配して叱ってくれたというのに、セシリアは何も考えずにわがままを言って、困らせてしまった。
でも、どうすれば良いのだろう。ギルバートに会いたくとも彼の家に行く事はできない――そもそも彼の家がどこにあるのか知らないし、手紙を送った事もない。
それに、謝ったとしても、ギルバートは許してくれるだろうか。あんなに怒った彼は初めて見た。
「許してもらえなかったらどうしよう……」
セシリアなんかもう嫌いだと言われてしまったら立ち直れる気がしないけれど、そう言われても仕方がないだけの事をしてしまっている。
(うう……)
珍しく自己嫌悪に陥って、セシリアは頭を抱えた。とりあえずギルバートに謝るのだ。全てはそれからだ。ラッセルのことはどうしよう。どうしようもない。
「セシリア」
不意に扉の外から聞こえた声に、うんうんと悩んでいたセシリアは飛び上がった。その際に踵を寝台にぶつけ、がったんと派手な音を立てる。
じんじんと痛む踵を押さえて涙目になっていると、ノックもなしに扉が開かれた。
「……セシリア?」
床に蹲っているセシリアを見下ろして、彼が首を傾げる。
「ギ……ギルバふがっ!?」
「しっ」
叫びそうになったセシリアの口を、彼は自分の手で塞いだ。そそくさと部屋の中に押し入り、大きな声を出さないように、と念を押してくる。
セシリアがこくこくと頷くと、彼はほっとしたように息をついて手を放した。
「あ……あああああの……」
一日の間に色々な事がありすぎて、もう頭が回らない。
「な、なんでギルバート様がここに……?」
もつれそうになる舌で言葉を紡げば、ギルバートが肩を竦めた。
「君が心配だったからに決まっているじゃないか」
「いえ、そうではなくて……」
ここは宮殿の中でも奥まった箇所に位置する、使用人のための部屋だ。
もっと言うと、女使用人達の部屋が集まる一角である。
「……どうやってここまで入って来たんですか……?」
セシリアだって迷いそうになるくらいなのに。
ぼそぼそと囁くと、彼は得意げな笑みを浮かべて口を開いた。
「そんなの決まっているじゃないか。夜闇の衣で姿を覆い隠して門番や兵士達の目をかいくぐり、運命の女神が導くままに恋の翼を羽ばたかせ――」
「……と呟いていたので、問題を起こされる前にわたしが手引きしました」
「ヴェロニカ!」
ギルバートの背後から聞こえた冷静な声に、セシリアはぱっと顔を上げた。彼の肩越しに扉の方を見ると、入り口にヴェロニカが佇んでいる。
「シルワ子爵はあなたの知り合いですね、セシリー」
「え? ……うん」
戸惑いつつも頷くと、彼女はほんの少しだけ目元を緩めてから扉を閉めた。
「では少しだけです。
シルワ子爵、後ほど迎えに上がりますので、話とやらはそれまでに終わらせておいて下さい。わたしが迎えに来ましたら、速やかに出て行っていただきます」
扉越しに聞こえた声に、セシリアはきょとんとする。
「え……?」
どういうことだ。
「昼間の事もあるし、未婚の女性の元に忍んでくるなんて褒められた事ではないからね。
要するに、僕は不法侵入したんだ」
不法侵入。
セシリアはぎょっとして彼を見上げた。
(……ギルバート様って……)
駆け落ちの件といい、彼はセシリアよりも頭が良いくせに、時々突拍子もない事をする。
「彼女が手引きしてくれて助かったよ。おかげでセシリアに会えた」
琥珀色の眼差しに見つめられ、セシリアは体を強ばらせた。彼と口論になった事を思い出し、気まずい思いで俯く。
(……ごめんなさい、って言わなきゃ)
今回の事はセシリアが悪い。勝手に突っ走って、周囲に散々迷惑をかけて、さらにわがままを言ってしまったセシリアが悪い。
(ごめんなさいって……あと……)
ギルバートに理由を説明しなければ。
そして何よりも、嫌いにならないで下さいと言わなければ。
「ギルバート様……あ、あの……」
意を決して顔を上げ、口を開く。
「先に言わせて、セシリア」
謝罪の言葉を紡ぐ前に、ギルバートの指が唇に触れた。
ぴたりと口を閉ざしたセシリアを見下ろして、彼は気まずそうな表情を浮かべる。
「……昼間はごめんね、セシリア」
その言葉に、セシリアは目を見開いた。
(え!?)
なぜギルバートが謝るのだ。
じっと見つめていると、彼は言い訳をするように言葉をつむぐ。
「急に君と会えなくなって、変な噂も流れて、すごく心配していたんだ。カルデローネ伯はすごくやつれていたし。何かあったんじゃないかって、気が気じゃなくて……」
ぎゅっと胸が痛くなる。
「でもそんな時に君を王宮で見かけて、家出してきたって聞いてかっとなって、君が何か言おうとしていたことも気づいたんだけど、止められなくて……」
本当にごめん。
ため息混じりに紡がれた言葉に、胸の奥でぽっと火が灯る。
「あ……あたしこそ」
目の裏が、じわっと熱くなった。
「あたしこそ、ごめんなさい! 何も考えてなくて、自分のことばっかりで、心配かけてるとか気づかなくて……」
ごめんなさい、ともう一度囁くように謝ってしゃくり上げる。
「わがまま言ってごめんなさい! すごくわがままで、迷惑ばっかりかけて、嫌われても仕方がないけど、でも……」
ぼろぼろと涙が零れる。本当は声をあげて子どもみたいに泣きたかったけれど、彼のためにもそれは堪えた。
「……嫌いにならないで、下さい……」
掠れた声で告げる。
嗚咽を噛み殺していると、そっと頬を撫でられた。こめかみに温かいものが触れ、すぐに離れていく。
「嫌いになんてならないよ。……泣かれると困るなあ」
セシリアに触れていた唇が、弱り切ったように言葉を紡ぐ。
(……ギルバート様だ)
心の中に、すとんと何かが落ちてきた。
昼間は別人のようだと思ったけれど、優しい声も、触れる指先の温かさも、与えてくれる安心感も、セシリアが知っているギルバートだ。大好きなギルバートだ。
彼の首に腕を回してしがみつくと、ぽんぽんと背を叩かれる。
「あのね、セシリア」
ちゃんと言うよ、と彼は呟いた。
「僕はね、セシリア。君が孤児院にいた時から好きだったよ。ずっと前から、君を愛していたんだ。……君は、気づいていなかったみたいだけれど」
うっ、と言葉に詰まる。
「……聞いて良いかな、セシリア。どうして家を出たの?」
「それは――」
エドマンドとクラレンスが、セシリアの縁談について話していた事。
このままでは、知らない相手と結婚させられるかもしれないと思った事。
セシリアのつたない説明を、ギルバートは頷きながら聞いてくれる。
全てを聞き終えてから、彼は納得したように頷いた。
「そっか、僕のためだったんだね。……ありがとう、セシリア」
その言葉に、胸の奥に温かなものが満ちていく。ほっと息をつけば、より強く抱きしめられた。
「でもね、セシリア。ご家族を心配させてはいけないよ。君は家出をする前に、辺境伯と叔父様と話をするべきだったね」
優しい声で諭される。
「……はい」
「昼間も言ったけれど、ご家族のためにも、君は一度家に帰るべきだ。きちんと話し合って、もし縁談の話が出たら、僕の名前を出して断れば良い」
彼にしがみつく腕に力を込める。
「……だめって言われて、知らない人と結婚させられそうになったら……?」
そっと体を離された。彼の顔が近づき、互いの額がこつんと触れ合う。
「そうしたら……その時こそ、本当に駆け落ちでもしてしまおうか。今度は『許してくれるまで戻りません』って書き置きを残して」
(……迎えに来てくれるんだ)
心の奥で凝っていた疑いが、セシリアをがんじがらめにしていた不安が、一気に解けていく。
「……だから、生活力も労働力も持っていないギルバート様とじゃ、のたれ死んじゃいますって……」
呆れと笑いと涙でぐちゃぐちゃになった顔で、セシリアは彼を見つめた。
色々と問題は山積みだけれど、ギルバートがセシリアを愛していると、迎えに来てくれると言ってくれたから、今だけは忘れてしまおう。
「じゃあ、のたれ死にしないようにがんばって迎えにいかないと」
冗談めかした言葉と共に、唇に吐息が被さる。
待っていますと囁いて、セシリアは瞳を閉じた。
なんだか頼りなくて、夢見がちな事ばかり言って、生活力も労働力もないけれど、彼が大好きだと思った。




