5
ぎょっとしたような表情を浮かべるギルバートを見て、セシリアは首を傾げた。
(どうして、って……)
「働いているからに決まっているじゃないですか」
見れば分かるだろうに、一体彼はなにを言っているのだろうか。
ラッセルに頼まれた用事をこなしていたら、ギルバートが廊下を歩いているところを見つけた。嬉しくなって思わず声をかけたのだが、彼はなぜかひどく驚いて――今に至る。
「働く!?」
「しーっ。ギルバート様、他の人達の迷惑になりますよ」
素っ頓狂な声を上げる彼に人差し指を突きつけ、適当な部屋に押し込む。廊下で騒いでいたらうるさい事この上ない。ついでに仕事中の私語がばれたら、ヴェロニカにお小言を言われてしまう。
「どうして君がこんな所で働いて……?」
ぱたんと扉が閉まるやいなや、ギルバートが口を開いた。
「家出したからですよ。匿ってもらえそうな知り合いは、王子様しかいなくて」
「家出!?」
「はい、家出です」
こくりと頷くと、彼は眉をひそめてセシリアを見下ろす。
「……いつから?」
「一月と……半分くらいです」
「ご家族はこの事は……?」
「知りません。あ、でも『探さないで下さい』って置き手紙を――」
「帰りなさい、セシリア」
硬い声音で遮られ、セシリアは声を途切れさせた。
恐る恐るギルバートを見上げると、彼は見た事がないほど怖い顔をしている。まるで知らない人のようだ。
「ギルバート様、今、何て……」
小さな声で問うと、がっと肩を掴まれた。指が食い込む痛みに顔をしかめる。
「もう一度言うよ、セシリー。今すぐ家に帰りなさい。家に帰って、君のお祖父様とお祖母様、叔父様と叔母様に『ごめんなさい』を言うんだ」
「……っ、でも」
家に帰れば、縁談が待っているかもしれなくて。
そうしたら、ギルバートが迎えに来られなくなってしまうかもしれなくて。
「わがままは駄目だ、セシリー。良い子だから、家に帰って」
それなのに、彼は家に帰れと言うのだ。
「あの、聞いて下さい、ギルバートさ」
「言いわけは聞かないよ、セシリー」
セシリアの話を、聞いてくれないのだ。
(……ギルバート様は、迎えに、来てくれるんだよね……?)
不意に芽生えた不安が、心に疑いの根を張る。
彼は迎えに来てくれると言った。だからセシリアは、彼の手を取れるように、迎えに来てもらえるように、家を出た。
でも、彼は家に帰れと言うのだ。
そうしたら、迎えに来てもらえなくなるかもしれないのに。
(……それでも良いと、思ってるの?)
分からない。
分からないけれど。
「……や、です」
きっと顔を上げ、琥珀の瞳を睨み据える。
「いやです! 帰りません! 絶対、絶対帰りません!」
セシリアはギルバートと一緒にいたいのだ。家がそれを阻もうとしても、ギルバートがセシリアを拒絶したとしても。
だから今は、絶対に帰らない。
「セシリー!」
ギルバートの表情が、ますます怖いものになる。
「いい加減にしなさい! 帰りなさい! 帰れ!」
きんと耳が痛んだ。いや、痛いのは耳ではなくて、胸なのかもしれない。
「いや、です……!」
じわっと涙が滲んだ。
「……そこまでに、してもらおうか」
ため息混じりの声が聞こえたのは、その時だった。
はっとして顔を向ければ、扉の前にラッセルが佇んでいる。背後にはヴェロニカが控え、感情の読めない眼差しをセシリア達に注いでいた。
「セシリア、仕事中の私語は厳禁だ。せめてもっと小声にしろ。廊下にまで響いていたぞ。
そちらは……シルワ子爵か。先程の議会でも顔を合わせたな。俺の侍女に手を出すのはやめてもらおう、これでも大切な預かりものだ」
黄金の瞳を向けられたギルバートが、はっとしたようにセシリアから手を放す。すかさずラッセルに手を掴まれ、引き寄せられた。
「大丈夫か」
「え? ……は、はい」
危害を加えられたわけではない。
戸惑いつつも頷くと、彼はほっとしたように息を吐いてセシリアを解放した。
「殿下、彼女は……」
「言っただろう、『預かりもの』だ」
ギルバートの言葉を遮って、ラッセルが強い調子で答える。
気圧されたように口を閉ざしたギルバートを見て、彼はふんと鼻で笑った。
「ヴェロニカ、彼を玄関広間まで案内して差し上げろ。久方ぶりの議会だったからな、道に迷ってしまったそうだ」
「かしこまりました。……シルワ子爵、こちらへ」
淡々とした調子でヴェロニカが答え、半ば強引にギルバートを連れて行く。彼は何度かセシリアを振り返っていたが、それも扉が閉まると見えなくなった。
「セシリア」
二人きりになった部屋の中で、何とも言えない表情を浮かべたラッセルがセシリアを見下ろす。
目元にハンカチを押しつけられ、セシリアは自分がぼろぼろと泣いていた事に気づいた。
受け取って目元を押さえると、ぐりぐりと頭を撫でられる。
「……シルワ子爵とは顔見知りだったか」
「……はい」
「孤児院にいた時に世話になったのだったな」
「……そうです」
ぎゅっと目を閉じる。
「王子様。……わたし、家に帰れって、言われました」
彼のために、家を出てきたのに。
「……わがまま言うなって、言われました」
「そうか」
唇を噛みしめて俯く。
彼にとって、セシリアの行動は迷惑だったのだろうか。彼と一緒にいたいというセシリアの思いは、わがままなのだろうか。
それとも――
「そうだな。お前はもう少し、周りを見るべきだ」
その言葉に、セシリアは顔を上げた。
目の前の王子様は、厳しい表情を浮かべている。
「……セシリア。たしかにお前は、一度家に帰るべきだ」
息を詰めるセシリアを見下ろして、彼は「誤解するな」と呟いた。
「お前を追い出したくて言っているわけではない。
……社交界では今、お前が出奔しただの、病気療養で領地に引っ込んでいるだの、根も葉もない噂が広がっている。シルワ子爵は心配していたんじゃないのか」
「……心配」
されていたのだろうか。
「それと、もう一つ。カルデローネ家は、お前がここにいる事を知っている。俺の元には、毎日のようにお前を家に戻すようにと懇願する手紙が届いている」
「知って……!?」
よろめくように後ずさる。
頭から冷水を浴びせられたような気分だった。
「辺境伯とは先程の議会で顔を合わせたが、ひどく憔悴していたぞ。パトリシア夫人は寝込んだというし、クラレンス夫妻もここ最近は社交界に姿を見せていない。
……俺の言いたい事が分かるか?」
「わたしのせいで、王子様にも、お祖父様達にも、迷惑をかけて……」
「違う」
苛立ったような声が言葉を掻き消す。
やや乱暴に体を引き寄せられ、セシリアはラッセルの胸に額をぶつけた。
「……心配しているんだ」
ため息混じりの言葉に、目をしばたたかせる。
「カルデローネ家は心配しているんだ、お前が何も言わずに出て行ったから。『探さないで下さい』と書き置きして姿を消したら、心配するのは当然だろう。ましてやカルデローネ家は、かつて実際に令嬢が出奔している」
「……あ」
いまさらのようにその事を思い出す。
途端に後悔が押し寄せ、セシリアは歯を食いしばった。
(あたし、ばかだ……!)
なぜ、今まで平気でいられたのだろう。彼らが心配しないはずがない。
彼らだけではない。リタ達も、きっととても心配している。
だってセシリアは、何も言わずに出てきてしまったのだから。
(……そっか)
だから、ギルバートは怒ったのだ。セシリアが勝手に家出して迷惑をかけているから。縁談の事について話し合いもせずに、一人で逃げ出したから。
だから、ラッセルはカルデローネ家に連絡したのだ。心配している家族が、少しでも安心できるように。
「カルデローネ家の者だけでは無いぞ。ヴェロニカも心配していた」
しゃくりあげていると、大きな手があやすように背を叩いていく。子どものころに戻ったような気分だ。
「もちろん、俺もだ」
顔を上げると、彼の顔が思った以上に近くにある。
とっさに下がろうとすると、背を叩いていた手がセシリアを引き寄せた。
もう片方の手で頬を撫でられ、さらに顔が近づく。
「お前は、大切なことは何も話さない。だから俺は困っている。
……セシリア・カルデローネ」
金色の瞳が、榛色の瞳を捕らえる。
(……鷹だ)
鷹の王子様は、狙いを定めたのだ。隠れる前に見つかった獲物は、逃げられないのだ。
「お前は何を考えている。何を望んでいる」
「何、って……」
ギルバートと一緒いたいと考えている。それを強く、望んでいる。
けれど、なぜだろう。
それを、この人には言っていけない気がする。
「……言わないのか」
ふっと彼が笑った瞬間に、金色の瞳が剣呑な光を宿す。王子様はいつも優しいのに、今日は少しだけ怖かった。何を考えているのか分からなくて、不安になるのだ。
「……王子様こそ」
掠れる声を絞り出す。
「王子様こそ、何を考えているんですか……?」
「俺か。そうだな。お前を心配している。お前が何を考えているのか考えている。それと――」
目の前がかげり、周囲の空気がぐっと重たくなる。焦点が合わないほど近くに迫ったものが彼の顔だと、一瞬理解できなかった。
動けないセシリアの唇に、唇が触れる。
(……捕食された!)
セシリアはぎょっとして目を見開いた。
我に返って身をよじるが、いつの間にか身体が押さえ込まれている。身体の奥から恐怖が込み上げてきて、鳥肌が立った。
僅かに唇が離れた瞬間に思い切り顎を引き、彼の顔に頭突きをお見舞いする。
ぱっと体を離され、セシリアは飛び退くようにして距離を取った。ドレスの袖で唇をごしごしとこすっていると、ラッセルは平然とした様子で口を開く。
「――シルワ子爵とお前が話しているのを見て、気に入らないと思っている。お前が彼に泣かされているのが、腹立たしいと感じている。
セシリア。俺はどうやら、お前の事をずいぶんと気に入っているらしい。ずっとここに置いて、いずれ妃にしても良いと思うほどには」
なんだそれは、という言葉が喉の奥で凍り付く。
(…………嘘でしょぉおおおおお!?)
心の中で絶叫しているセシリアをしばらく見つめてから、彼は踵を返した。
「額にけがをしている。ヴェロニカを呼ぶから、彼女の指示に従え」
一方的に告げて、ラッセルはさっさと部屋を出て行く。
ゆったりと歩み去る彼を、セシリアは呆然と見送った。思い出したように額に手を当てれば、指先に何かぬるりとしたものがつく。
血だった。どうやら、切れてしまったらしい。
体から力が抜け、セシリアはへなへなとその場に座り込んだ。
(……まずい)
この状況は色々とまずい。カルデローネ家にいるよりまずい。
まさか王子様があんな事を言い出すなんて思わなかった。
「殿下から手当てをするようにと言われましたが……何かあったのですか?」
戻ってきたヴェロニカが首を傾げていたが、何も答えられなかった。
セシリアを置いて部屋を後にしたラッセルは、その足で執務室に戻った。
書簡をしたため、侍従に命じて封蝋を押させる。
「こちらはカルデローネ家へ。そしてこちらは――」
淡々とした声音で命じ、全ての手配を終えてから、ラッセルは笑みを浮かべた。
血の味が残る唇を押さえる。
目を閉じると、臆することなく見つめ返してくる榛色の瞳がまなうらに浮かんだ。