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ロンディアの社交界では、ここ一月ほど、ある「噂」が席巻している。
議会のために王宮に出仕したギルバートは、その噂を思い返して顔をしかめた。閉会と同時に議場を出てきたが、そこここで囁かれていた噂は耳の奥にこびりついて離れない。
曰く、カルデローネ家の令嬢が出奔したというのだ。
この一月半、彼女は社交界に姿を現していない。カルデローネ家によると療養のために領地で過ごしているとの事だったが、母親の例もある。もしかしたらどこぞの馬の骨とも知れぬ男と手に手を取って駆け落ちしたのでは――
(……ばかばかしい)
その「どこぞの馬の骨」はここにいて、彼女はギルバートを待っているのだ。セシリアが出奔するはずもない。
社交界に出てこないのは、ギルバートの言葉を額面通りに受け取って家で大人しくしているだけなのだろう。そうであると願いたい。
しかし。
(……まったく会えない上に、連絡手段もないからなあ……)
彼女に真偽を問えない事が、思った以上に辛かった。
自分達の関係が露呈しないように、手紙の類は一切交わしていない。互いの予定を確認し、同じ舞踏会やパーティーに出席する時だけ顔を合わせるようにしていた。
しかし、一月前――会う約束をしていた舞踏会を、彼女は欠席した。それ以降は社交界に姿を見せていないので連絡も取れないし、カルデローネ家にさぐりを入れることもできない。手詰まりである。
協力を申し出てくれたレイラも探りを入れたが、セシリアには会えず、手紙を交わしたいと言っても文字を勉強中で手紙は書けないと言われたらしい。
その矢先に、出奔の噂である。
よく考えたら彼女一人だけならばどうとでもなりそうだし(なにせ彼女は孤児院育ちだ)、先日「けじめをつけろ」「現実を見ろ」「生活力も労働力もない」などと色々言われたギルバートだ。愛想を尽かされる心当たりがありすぎる。
要するにものすごく不安なのだがどうしよう。
「……いやどうしようもないんだけど」
嘆息し、玄関広間へと足を向ける。彼女の事は気になるが、迎えに行くと宣言した以上、ギルバートはやらなければならない事が多いのだ。
(……うちは問題ない。重要なのは、カルデローネ家をどうするかだ)
フォルテ家の爵位はすべてギルバートが継ぐ事が決められ、勅印が入った書類が作られている。王宮に保管されているから、書類が破棄される事は無いだろう。
問題は、セシリアだ。
(法がなあ……)
婚姻は男女共に十四歳から認められるが、十八歳になるまでは親の同意を必要とする。二十一になるギルバートはともかく、十六歳のセシリアが婚姻を結ぶためには、カルデローネ家の許可が必要不可欠なのだ。
彼女が十八歳になるまで待つという手もあるが、それもやや不安が残る。貴族の娘達は十六歳で社交界にデビューし、早い者はその年の間に婚約してしまう。セシリアが十八になるのを待っている間に縁談が持ち込まれたら、ギルバートには何もできない。
つまり何としてでもカルデローネ家とは早急に仲良くなりたいのだが、その糸口が掴めない。先日顔を合わせた時も当主達は嫌味の応酬を交わしていて、ギルバートとカルデローネ家の次期当主であるクラレンスは場を鎮めるので精一杯だった。お互いに苦労するなあと同族意識を抱いてしまったのは内緒である。
(……互いに利もあるし、セシリアのためにも仲良くしたいんだけど……)
それがうまくいかないのが現状だった。
あきらめてしまえば、きっと楽になるのだろう。互いに無かった事にして、他人のふりをして、思いを閉じこめてしまえば。
しかしギルバートは、彼女を諦めるつもりはさらさらない。何せ、彼女が孤児院にいた時からずっと見守ってきたのだ。
初めて会った時、セシリアは遊びたい盛りの子ども達をまとめ上げ、ガキ大将として頂点に君臨していた。子ども達に慕われている彼女は表情豊かで、たまに暴走するが見ていて飽きなかった。
ギルバートは彼女のくるくると変わる表情が、真っ直ぐな眼差しが、意外と強かな内面が、そのすべてが好きだったのだ。
多分それは、妹に向けるようなものだったのだろうけれど。
(……変わったのは、きっと)
彼女に花冠を贈った頃からだ。
あの後、すぐに彼女は引き取られてしまった。
院長に引き取られた先を聞いても教えてもらえなくて、彼女の笑顔は段々と色褪せて、心の奥にひっそりとしまわれていくはずだった――のに。
舞踏会で再会してしまったのだ。
記憶にあるよりもやや大人びた彼女は昔とまったく変わらない笑顔をしていて、真っ直ぐな眼差しを持っていて。
なりをひそめていた恋心は、今度ははっきりとした自覚と共に燃え上がった。
セシリアの側にいると楽しい。ずっと一緒にいたいし、暴走する様や突拍子もない事を言い出すのを眺めているとつい笑ってしまう。
そしてあの頃には見せなかった表情に、魅せられてしまうのだ。
「……はあ」
彼女の事を考えると同時にままならない現実を思い出し、ついため息が漏れてしまう。こういう時、セシリアなら何と言うだろう。
「ため息をつくと幸せが逃げちゃうんですよ、ギルバート様」
そう、きっとこんな事を言うのだ。
「とは言ってもね、現実は厳しいんだよ。問題は山積みなんだよ。やっぱり駆け落ちした方が楽――」
「いえ、駆け落ちなんてしたってのたれ死ぬだけですって。現実を見ましょう、ギルバート様がいなくなったら孤児院はどうなるんですか」
「それは――」
つい普段の調子で答えようとして、ギルバートは言葉を途切れさせた。
ぎこちなく首を巡らせると、黒いドレスに白いエプロン姿の少女が視界に映る。
「……セシリア?」
彼女の事を心配するあまり、幻覚でも見始めたのだろうか。それにしたって侍女の格好はおかしいだろう。あれか、自分の隠れた願望でも出てきたのか。隠れた願望ってなんだ。
硬直したギルバートの横で少女は榛色の瞳をしばたたき、柔らかそうな唇を開く。
「そうですよ?」
……肯定した。
(え)
待て。ちょっと待て。色々と待て。
カルデローネ家の言葉を信じるならば、彼女は領地にいるはずで。
噂を信じるならば、彼女は見知らぬ男と手を取りあって出奔したはずで。
王宮で侍女の格好などしていないはずで。
とっさに彼女の両肩を掴む。薄い肉の下に硬い骨の感触と、子どものように高い体温。間違いなく、生きた人間の感触。
つまりここにいる彼女は幻覚でも何でもなく――
「ど……どうして君がここに!?」
その言葉に、セシリアはきょとんとした表情を浮かべた。




