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王宮には、親切な人が多い。
窓から差し込む朝の光に、セシリアは爽やかな気持ちで目覚めた。与えられた部屋は居心地が良いし、一日中体を動かしているおかげか寝付きも良い。
起床の鐘が鳴る前に寝台を抜け出し、壁際に置かれた衣装棚から黒いドレスと白いエプロンを取り出す。手際よく着込んで髪を梳かし、一つにまとめた。
(よし)
壁に吊された小さな鏡で自分の姿を確認し、ひとつ頷く。
朝食を取るために食堂に向かおうと扉を開け――その先に置かれていたものを見つけ、セシリアは顔をほころばせた。
足元で、黒光りする縄状の物体がうねうねと蠢いている。身を屈めて眺めていると、とぐろを巻いているそれは鎌首をもたげてセシリアを威嚇し始めた。
「おお……これはまた、一段と立派な……」
ひょいとそれを掴み上げ、慣れた調子で歩き出す。握りしめたそれはひっきりなしに暴れたり巻き付いてきたりしたが、セシリアにとっては些細な事だった。
庭に出て、敷地内の林へと足を向ける。
「今回は見逃してあげるね非常食ー!」
手にした蛇を木立へと投げ込んで、セシリアは腰に手を当てた。
ここ数日、朝になると必ず扉の前に蛇がいる。食べられるのでセシリアとしてはとてもありがたいが、厨房に持って行ったところ、大騒ぎになってしまった。料理人達は蛇など調理できないと言うし、王宮から出られないので皮を剥いでも売りに行けない。
好意を無下にするのは心苦しかったが、仕方なく林に逃がしていた。
(……孤児院だったら、絶対に逃がしてやらないのに……!)
特に今日の蛇はいつもよりも太くて立派だった。ああ食べたい。皮を剥ぎたい。
未練がましく蛇をぶん投げた木立を見つめていると、ぐうと腹の虫が鳴く。
朝食をまだ取っていなかった事を思い出し、セシリアはしぶしぶと踵を返した。足早に建物へと戻り、食堂へと足を向ける。腹が減ってはなんとやらだ。
元気よく朝食を平らげ、ラッセルの執務室に向かう。
セシリアに与えられた仕事は、ラッセルの身辺の世話だ。別に掃除女でも洗濯女でも良かったのだが、手元に置いておかないと何をしでかすか分からないという、なんとも不本意な理由からだった。
ラッセルは、セシリアと同様に自分の身支度は自分でしている。セシリアがする事といったら、彼の側に控えて仕事ぶりをぼんやりと眺めるか、食事や書類を運ぶか、簡単な小間使いだった。
「おはようございます王子様!」
元気よく挨拶して部屋に入ると、すぐさま別の侍女から睨まれた。
「セシリア。入室の際にはノックをするようにと言ったはずですが。そしてその言葉遣い。殿下に対するものとは思えません」
プラチナブロンドの髪に緑の瞳――セシリアがこの宮殿を訪れた際に出会った少女が、きつい声音で注意してくる。
「ご、ごめんヴェロニカ」
「言葉遣い」
「……すみません、ヴェロニカ」
慌てて言い直すと、彼女はかすかに顎を引いた。とても分かりにくいが、これは頷いているらしい。
ヴェロニカ・ディンナム。今年で十九になるディンナム子爵の令嬢で、数年前から王宮に勤めているらしい。
口を開けば説教が飛んでくるので、セシリアは何となく、彼女が苦手だった。
物言いたげな緑の眼差しを向けられると、ついそわそわとしてしまう。彼女の瞳にはいつもセシリアを責めるような色があって、それが何とも落ち着かないのだ。
「ヴェロニカ」
ラッセルに呼ばれた瞬間、彼女の視線が逸らされる。
内心でほっとしている間に、ヴェロニカはラッセルの指示を受け、書類の束を抱えて部屋を出て行った。
「セシリア」
名を呼ばれて振り向くと、ラッセルから大量の本を押しつけられる。
「それを図書室に戻してこい。終わったらこの書類を届けて、次は――」
次々と指示され、セシリアは頭がこんがらがりそうになった。
確認のために復唱していると、ラッセルがため息をついて一枚の紙片を渡してくる。
「リストだ。分からなくなったら見ろ」
「あ、ありがとうごさいます! 行ってきます!」
小さな文字で指示が書かれたそれをポケットに突っ込み、セシリアは図書室へと足を向けた。途中で何度か躓きそうになったが、抱えた本だけは死守する。古そうだし高そうだ。もし破ったり汚したりして「弁償」と言われたら困る。
よたよたと階段を下りていると、頭上から何かが降ってきた。
何とか踏み止まったセシリアは、顔に激突して床に落ちたものへと視線を向ける。
「おお……!」
灰色の猫だった。上の階から落ちてきたらしい。
本を抱えたまま、ちっちっと舌を鳴らす。
薄汚れた猫は毛を逆立ててセシリアを睨んでいたが、じっと見つめていると、そろそろと近寄って来た。
(……かわいい)
足に体をこすりつけてくる猫を見下ろし、セシリアはほっこりとする。
それにしても、なぜ猫が落ちてきたのだろう。クモやムカデはよく落ちてくるが、さすがに猫は初めてだ。王宮は謎が多い。
図書室へ向かおうとすると、猫はにゃーんと鳴いて後ろをついてくる。
後で綺麗に洗ってやろうと心に決めて、セシリアは本を抱え直した。
セシリアが王宮に仕え始めてから、一月が経った。
相変わらずヴェロニカは口を開けば説教だし、ラッセルからは仕事のリストをもらわなければ動けない。ぴかぴかにした猫はすっかり懐いてしまったのかずっと後をついてくるし、蛇はやはり料理できないと言われて林に放している。
しかし――
「……うーん」
鳥の羽だらけになった自分の部屋を眺め、セシリアは腕を組んだ。足元では「ちび」と名付けた猫がにゃーんと鳴いている。
部屋の中に入ると、むわっとした臭気が押し寄せてくる。これは紛れもなく血の臭いだ。よく見ると、足元には赤黒い水たまりができていた。
「……あー」
ここまでされれば、さすがのセシリアも気づく。嫌がらせを受けているのだ。
とりあえず掃除用具を取りに行き、床の血溜まりと散乱する羽を片付ける。小さな窓を開けて空気を入れ換えると、臭気が幾分か和らいだ。
その事にほっとして、寝台の上に腰を下ろす。今日は窓を開けて寝てしまおうか。
膝の上に乗ってきたちびを撫でつつ、セシリアはどうしたものかと首を傾げた。嫌がらせ程度で落ち込むような柔な精神は持っていないが、部屋を荒らされるのは困る。
部屋の空気が入れ替わるのを待っていると、かつんと足音が聞こえた。規則正しいリズムを刻みながら近づいて来た足音は、セシリアの部屋の前でぴたりと止まる。
「……何をしているのですか?」
「あ、ヴェロニカ、こんばんは」
寝台に腰を下ろしたまま手を振ると、開け放たれた扉から顔を覗かせたヴェロニカが首を傾げた。
「何を、しているのですか?」
「換気。空気が悪かったから」
セシリアが答えると、彼女は無表情のまま部屋の中を見回し、かすかに眉をひそめる。
それから頷いて、自分の部屋に入っていった。
次の日、セシリアが荒らされた部屋(今日は泥水だった)を片付けていると、昨夜と同じようにヴェロニカが現れた。
「何を……」
「掃除。汚いから」
彼女の言葉を遮って答え、セシリアは壁に飛び散った泥を拭き取る。昨日よりも片付けるのには手間がかかりそうだ。
ヴェロニカは黙々と部屋を片付けるセシリアを眺めていたが、ふと何かに視線を止めて目を眇めた。
「……そうですか」
彼女は昨夜と同じように頷いて姿を消し――掃除道具を手にして戻ってくる。セシリアがきょとんとしていると、彼女は水を汲んできて、勢いよく床にぶちまけた。
モップで床を擦り始めるヴェロニカを、セシリアはぽかんとした表情で眺める。
「早く終わらせなければ寝られなくなりますよ」
「え……あ。うん」
その言葉に我に返る。
セシリアも彼女にならい、慌ててモップを手に取ったのだった。
そして、さらに次の日。
「…………わお」
扉を開けるなり落ちてきた花瓶を眺め、セシリアはさすがに引きつった笑みを浮かべた。
落ちてきた青磁の花瓶は、足元で無惨な姿になっている。
ちびが前足を伸ばそうとするのを見たセシリアは、慌てて子猫の首根っこを掴んで持ち上げた。じたばたと暴れるちびをぶら下げたままヴェロニカの部屋へと向かい、目元を擦りながら出てきた彼女にちびを押しつける。
「おはようヴェロニカ。ちょっとちびを預かってて」
「ちび?」
「その猫」
首を傾げた彼女が小さく頷いたのを確認して部屋に戻り、セシリアは片付けを開始した。これはさすがにやりすぎのような気がする。ちびがけがをしたらどうしてくれるのだ。
「……ああなるほど」
ヴェロニカの声が降ってくる。
セシリアが顔を上げると、ちびを抱いた彼女は納得したように頷いてからを見下ろしてきた。
「殿下にご報告しないのですか?」
「どうして?」
「どうして、て……」
ヴェロニカがかすかに眉を寄せる。
首を傾げていると、ヴェロニカは呆れたようにため息をついた。
「これは嫌がらせです。平然としているように見えますが、あなたは内心、ひどく傷ついているのでは? それともあなたにとって、これは傷つくような事ではないのですか?」
「……えっと、それなりに傷ついてはいるけど」
この程度の事を気にするほど繊細ではないだけだ。
「気にしたってどうにもならないし」
ヴェロニカがまじまじとセシリアを眺めた。心なしか緑の瞳が和らぐ。
ややあって、そうですね、と彼女は呟いた。
「下らない事を気にするくらいなら、あなたは別の事に尽力するのでしたね。……セシリー」
(……今、セシリーって呼ばれた?)
セシリアがきょとんとしていると、彼女はちびを抱えたまま背を向ける。
「急がなければ朝食に間に合いませんよ、セシリー。字の勉強に精を出すのは良い事ですが、早く手を洗って、着替えるべきです」
笑み混じりの声。
「朝食抜きでも良いのですか?」
その言葉に、セシリアは慌てて自分の部屋に飛び込んだ。
その日を境に嫌がらせはぱったりと止み、蛇が扉の前に置かれる事もなくなった。
「……で、嫌がらせを行っていた侍女達を脅したのか、ヴェロニカ」
腹心の侍女の報告を聞いて、ラッセルは目を据わらせた。
「はい」
目の前に佇む彼女は、口の端に淡い笑みを浮かべている。
「セシリーの邪魔をしていたので」
「……ずいぶん入れ込んでいるんだな」
彼女はセシリアの事を嫌っているように見えたのだが。
驚きもあらわに呟くと、ヴェロニカが不思議そうに首を傾げる。
「入れ込んでいるのは殿下の方でしょう?」
何も聞かずに手元に置いて差し上げるなんて、と彼女は呟いた。まったくもってその通りで、ラッセルは言葉に詰まる。
「ところで殿下、セシリーを今後どうするおつもりですか。カルデローネ家からは、彼女を家に戻すようにと催促されているのでしょう。王宮に留め置くのならば、それなりの理由が必要になるはずですが」
「……どうしたものか悩んでいる」
嘆息と共にその言葉を吐き出して、ラッセルは眉間を押さえた。一月半が経ったが、セシリアはいまだに事のあらましを話してくれない。縁談から逃げてきたというが、それ以外の事を知らないから、なんの手も打てないのだ。
カルデローネ家に返しても良いのだが、楽しそうに王宮を駆け回るセシリアを見ると口に出せない。なにより彼女は見ていて楽しいので、もうしばらく置いておきたいとも思っていた。
視線をさまよわせたその時、ふと、ある考えが脳裏を過ぎる。セシリアが王宮に来た時、彼女の滞在を認めさせるためにでっち上げようとした事だ。
(……いや)
とっくりと考えて、ラッセルは首を振った。
ありえない。たしかに彼女は見ていて飽きないし、側にいても気に障らないが、それとこれは別だ。身分的にも――いや身分的には問題ないが、しかし――
黙然と思考を巡らせる主を、ヴェロニカは何も言わずに眺めている。
奇妙な沈黙は、セシリアが図書館から戻ってくるまで続いた。