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『何かあったら言え。協力してやる』
あの日、彼は確かにそう言った。自分に怯える事なく話しかけてくる珍獣――ではなく令嬢は珍しかったし、孤児院に定期的に寄付をしているという貴族が誰なのか、興味が湧いたからだ。
だが、しかし。
「……たしかに『何かあったら』とは言ったが」
ハヴェスト王国王太子、ラッセル・ハヴェストは、早朝から頭の痛くなる「案件」を抱えていた。それを持ってきたのは侍従で、彼は近衛兵から、そして近衛兵は城門を警護する門番からその「案件」を引き継いだらしい。
普段よりもかなり早く叩き起こされたおかげで気分は最悪だ。公務に差し支えたらどうしてくれよう。
近衛兵の案内で門番達が待機するための小屋へ向かい、ことわりもなく扉を開け放つ。宙を舞う埃が、光を浴びてきらきらと輝いた。
ぎいと音を立てて開いた扉の先には、門番達が集っている。むさ苦しい男達はなぜか一様に涙ぐみ、小屋の中は鼻をすする音がひっきりなしに響いていた。
(……異様だ)
部屋に戻りたくなるのを全力で堪えて足を踏み出すと、男達の真ん中、テーブルの上に仁王立ちしていた少女が紺碧のドレスと金茶の髪を揺らして振り向く。
やや眦の垂れた榛色の瞳、端整な顔立ち、すらりと伸びた体。
年は十六。ついこの間、社交界にデビューしたばかりの、色々と噂に事欠かない令嬢だ。
「あ、王子様!」
ラッセルを見つけた彼女はぱっと表情を輝かせ、テーブルから飛び降りた。飾り気の無いドレスと金茶の髪が翻り、細い足や華奢な首もとが露わになる。男達の視線が一斉に釘付けになったが、彼女はまったく頓着していなかった。
軽やかに駆け寄ってきた彼女は、ラッセルの正面で足を止める。
「おはようございます王子様! 突然ですけどわたしを匿って下さい!」
とびきりの笑顔で言い放った彼女を見下ろし、ラッセルは眉間にしわを寄せた。
「……セシリア・カルデローネ」
「はい!」
元気よく返事をする彼女を見下ろし、頭を抱えたくなる衝動を全力で堪える。
確かに、何かあったら言えと言った。協力するとも言った。
だが。
「匿えとはどういう事だ」
「そのままの意味です! 協力してくれるって言ってましたよね! まさか王子様が約束を破るなんて事はしませんよね!」
「……ああ」
どうしてこうなった。
暖炉の中で、炎がぱちんと音を立てる。
ソファに横たわって爆睡していたセシリアは、ぱっちりと目を開けた。
(……あれ?)
目元をこすり、きょろきょろと周囲を見回す。ラッセルと話していたはずなのだが、いつの間にか彼がいなくなっている。そういえば部屋も移動している。謎だ。
「お目覚めですか」
首を傾げて立ち上がったところで、セシリアは背後から声をかけられた。
「ぎゃっ」
驚いて振り向けば、プラチナブロンドの髪を一つにまとめ、黒いドレスに白いエプロンを身につけた少女が扉の前に佇んでいる。セシリアよりもいくつか年上と思われる彼女は、淡い緑の瞳でセシリアを睨め付けていた。
「お目覚めですか」
愛らしい面差しを不機嫌を滲ませ、彼女は再度繰り返す。
「え……はい」
こくこくと頷くと、彼女はセシリアのドレスや髪の乱れを直してくれた。自分の後をついてくるようにという言葉に従い、細い背中を追いかける。
彼女の後について部屋を出ると、どこか見覚えのある廊下が広がった。長い廊下をひたすら進むと、徐々に人の姿が増えてくる。
かくして通された先は、執務室のようだった。絨毯を敷き詰めた部屋には大きなデスクが据えられ、書類らしきものが山のように積み重なっている。壁際に据え付けられた本棚には、分厚い本がぎっしりと詰まっていた。
そして、その部屋の主はセシリアを見るなり「やっと来たか」と呟く。
「おはようございます王子様! 良い朝ですね!」
「もう昼も過ぎたぞ。説明もせずに立ったまま寝るとは何事だ」
「……すみません」
セシリアはしょんぼりと謝った。途中から記憶がないとは思ったが、寝ていたのか。道理で体が軽いはずだ。気分も爽快である。
呆れたようにため息をついたラッセルが、セシリアを連れてきた少女や控えていた男性に目配せをする。彼らは何とも言えない表情でセシリアとラッセルを見ていたが、渋々といったていで部屋を出て行った。
「で?」
人払いを済ませた彼は、改まった表情でセシリアを見据える。気のせいか目つきが険しい。
「なぜお前は俺の安眠を妨害した上にここに転がり込んできたんだ。しかも匿えとはどういう事だ」
「そのままの意味です!」
ぐっと拳を握りしめて答えると、彼はあのな、と眉間に皺を寄せる。
「理由を話せ、理由を。意味が分からん」
「えっとですね……」
正直に説明しようとして、セシリアはぴたりと口を閉ざした。
なにも考えずにここまで来てしまったが、正直に話しても良いものだろうか。
セシリアの様子を見て、ラッセルがため息をつく。
「……説明できないのなら、俺の質問に答えろ。
お前がここにいる事を、カルデローネ辺境伯は知っているのか」
「知らないです」
「伯は心配しているんじゃないのか?」
「置き手紙をしてきました。『探さないで下さい』って」
「……そうか」
しばしの沈黙の末、ラッセルはどんよりとした口調で呟いた。おかしな事を言っただろうか。
内心で首を傾げていると、彼は軽く頭を振ってから質問を再開する。
「俺に匿ってもらおうと思ったのはなぜだ」
「貴族に仲良しの人がいなかったので。王子様なら、助けてくれるかなと思って。何かあったら言えとも言われましたし」
「……お前は誰から匿ってもらいたいんだ」
「お祖父様と、お義兄様と、えっと――ざっくり言うと、カルデローネ家の人です」
「なぜ家族から逃げたがる」
「……縁談が」
小さな声で答え、セシリアは俯いた。言葉にすると、自分がとてもわがままな事を言っているような気がしてくる。いや、実際にそうなのだろう。
セシリアを引き取って育ててくれたのは、カルデローネ家だ。たくさん愛情を注いでくれて、孤児院にも寄付をしてくれて、ちゃんとした教育を受けさせてくれたのも彼らだ。なにも言わずに出てきたのは悪い事だし、縁談がいやだからと逃げて、王子様に助けてもらおうとするのもおかしいと分かっている。
でも、それでも縁談はいやだ。
セシリアはギルバートが迎えに来るまで、誰とも結婚しないで待っているのだ。
「俺が匿ったとしても、いずればれるぞ。その時はどうするつもりだ」
その言葉にぐっと唇を噛む。何も考えていない。
黙りこくったまま時を数えていると、かたんと物音がした。磨き抜かれた靴が正面で立ち止まった事に気づいて顔を上げると、ラッセルがセシリアを見下ろしている。
「……手元に置いておいた方が安心か」
セシリアの頭をぐりぐりと撫でて、彼はそう呟いた。
「え?」
「仕方ない、客人としてここに置いてやる。ただしカルデローネ家が返せと言ってきたら手放すからな。敷地から出る事も許可しない。縁談については自分で何とかしろ」
話の展開についていけず、しきりに瞬きを繰り返す。こんなにあっさりと王子様に匿ってもらえるとは思っていなかった。
「それと、今ではなくて良いから事情を隠さずに話せ。だいたい予想はつくが」
そこまでを口早に告げ、彼はひらりと手を振る。
「分かったら、早くこの部屋を出て行け。邪魔だ」
おい、という呼びかけに、先程セシリアを案内してくれた少女が姿を現した。
「こいつを客間に。指示は追って出す」
「かしこまりました」
ご案内いたします、と歩き出した少女を追おうとして、セシリアは立ち止まった。振り返ると、ラッセルはすでにデスクに戻り、紙の束に視線を落としている。
「お、王子様!」
「なんだ」
視線を上げる事もせずに返す彼に、セシリアはにっこりと笑いかけた。
「ありがとうございます! 怪物の王子様だなんて思っていてすみませんでした!」
俯いて肩を震わせる彼を眺め、セシリアは今度こそ、少女を追うべく身を翻す。
ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえなくなってから、ラッセルは漸う顔を上げた。
「……殿下、なぜあの令嬢を家に帰さなかったのですか?」
不思議そうに訊ねてくる侍従へと視線をやり、目を据わらせる。
「仮にも伯爵令嬢を無下に扱うわけにもいかないだろう。
それに、あの娘を家に帰してみろ。……今度は何をするか怖くて見ていられない」
「ああ、……そういえば夜中に宮殿に乗り込んできましたしね……身の上話で門番たちを籠絡して……」
遠い目をする侍従に、ラッセルは渋い顔で命じた。
「カルデローネ家に書簡を。令嬢がここに乗り込んできたので保護している、安心されよと書いておけ」
「かしこまりました」
さて、と親指と人差し指で眉間をもみほぐす。さしあたって、彼女が宮殿に留まるための理由をどうするかだが――
ほどなくして、それは解決された。
「……一応聞くぞ、セシリア・カルデローネ」
ずきずきと痛みだしたこめかみを押さえて、ラッセルは口を開いた。
彼女に部屋を与えるようにと指示して、じつに数時間後の事である。
その短時間の間に、彼の元には様々な問題――もとい彼女の奇行について苦情が寄せられた。
その一。
「侍女はいらないと言ったそうだな」
「身支度くらい一人でもできますし」
その二。
「いきなり厨房に押しかけたそうだが」
「昨夜から何も食べていなかったから、お腹が空いちゃって」
その三。
「……なぜ、侍女の真似事をしている」
数ある苦情の中で最も多かったのが、これだった。
しばらくは大人しくしていた彼女だったが、すぐに働かせろと騒ぎ出したのだ。あちこちでそれを繰り返し、その度にラッセルの元へ苦情が寄せられている。
「お世話になるのにただ飯食いは申し訳ないと思って。それならいっそ、わたしも働こうかと思ったんですけど」
その思考がまずおかしい。
「俺は客人としてお前をここに置くと言ったはずだが」
「はい」
「客人は働かなくて良いのだが」
「落ち着きません」
「……カルデローネ邸では一体どうやって過ごしていたんだ……」
「勉強と、時々使用人さん達に混じって洗濯とか料理とかですけど。最初は止められたんですけど、お祖父様達に『働かざるものは食うべからずです!』って力説したら許してくれました」
それは多分、許されたのではなく諦められたという。
ラッセルは深々と嘆息した。
カルデローネ家の面々の苦労が忍ばれる。よく彼女に教養を叩き込んだものだ。
「衣食住さえ保証されていれば全然構わないので、というか暇なので、働かせて下さい! ついでにお給料ももらえたら嬉しいです!」
「必要な物があるならば用意するが」
「駄目ですよ、それじゃ。わたしは自分が自由に使えるお金が欲しいんです。いざという時の逃亡資金にするんですから」
どさくさに紛れて本音をぶちまける彼女に、ラッセルは頭を抱えた。黙ったままでいると、彼女はぎゃあぎゃあとかしましく騒ぎ立てる。とんだ令嬢もいたものだ。
「……分かったから騒ぐな」
ついに根負けし、ラッセルは侍従に命じて書類を用意させた。彼女を自分付きの侍女として雇う旨が記された書類を差し出すと、セシリアはたっぷりと時間をかけ、ときおり辞書――途中で持ってこさせた――で単語を確認しつつ読み、満足そうに頷いてペンを取る。
その裏で、彼は彼女のために用意していた書類をインクで塗りつぶし、火にくべるように命じた。侍女として雇うのだから、この書類は必要ない。
面倒な事になったと思いつつ、ラッセルは上機嫌で書類を抱きしめるセシリアを眺めた。