炎の軍
そうして数日。碧の軍は何事もなく進み、私もおとなしく春覇に従って歩く日々を送っていた。
どうやら途中で進路が変更になり、迂路を取って国境の巡視も兼ねる事にしたらしい。王都までは一月以上かかりそうだ。そろそろ紅との国境に近づくのだと、章軌が教えてくれた。周囲は岩山が多くなり、山間を縫っていく感じだ。
何気なく歩いていた私は、不意にざわりと空気が騒ぐような感覚を覚えて二の腕を押さえた。何事かと見回すと、緑や白の精霊がわっと逃げていくのが目に入る。
「止まれ!」
やはり異変を感じたらしい春覇が号令をかけた。
その刹那。
山が火を噴いた。
本当にそうとしか形容出来ないほど唐突に、周囲が一斉に燃え始めたのだ。普通有り得る事じゃない。
思わず袖で口元を覆った私は、炎の中に無数の赤い精霊を見た。そこここで馬が嘶き、金属音も響き始める。はっと近くに目を戻すと、炎に紛れるように赤い旗を掲げた軍隊が碧軍に迫っていた。
「紅の炎狂か……!」
忌々しげに呟いた春覇が、すっと目を閉じて何かに集中する。その身に迫る武器は、章軌が全て叩き落としていく。急激に身近に迫る死の気配と煙に混じる血臭に、私は必死で嘔吐を堪えた。
「打ち消せ」
春覇の声が、急に硬質な響きを持って空気を震わす。冷気を感じて目を上げると、上空に渦を巻くように青っぽい精霊が集まっていた。それが纏まり、再び散ったと見る間に大量の水が炎の上に降り注ぐ。
「さすがは碧の覇姫」
すぐ後ろで聞こえた声に、私はびくりと肩を震わせた。
全く気配を感じなかった。
いや、違う。こいつは見事に炎の気配に紛れていたのだ。敢えて言えばこいつ自身の気配が、火に近い。
振り向きながら距離を取ろうとした私は、踏み切る前に後ろから抱きすくめるように拘束された。
「春覇!」
思わず助けを求める。振り向いた春覇は、一瞬見開いた目をすぐに怒気に染めた。
「依爾焔!貴様……」
「やぁ久しぶりだね、覇姫」
笑いを滲ませた声が私の背に密着した体から発せられる。
男だ。私より一回り二回り大柄らしい。暴れてみても拘束は解けそうになかった。
「おとなしくしておくれ。君に手荒な真似はしたくない」
身を捩っていると、そう囁かれる。
わけがわからない。殺す気は無さそうだが、何が目的なのか。
「何、なんだよ!放……むぐっ」
竦んでいた喉から、ようやくまともに声が出る。しかし僅かに叫んだだけで、口に指をねじ込まれる。噛んでやろうと思った瞬間、ぐっと指に力を込められてえづきかけた。その拍子に何かを喉に押し込まれる。すっと手足から力が抜けた。
「何のつもりだ。そやつを放せ!」
春覇が剣を抜く。周囲の火は半ば収まり、人間同士の争いになっていた。
私を捕まえた男は、春覇の怒りを見ても余裕そうだ。
「嫌だね。彼は私にとってとても重要な力を持っているんだ」
「何?」
春覇が眉を寄せる。それを見ながら、私の意識は朦朧としかかっていた。そんな私を、男がひょいと抱える。赤い衣を着た男だった。
「覇姫は占術が苦手だったね。私の占に出たのさ。……彼なら朱雀を身に宿せる」
男が何を言っているのか、もはやわからない。ぼんやりと顔を上げて、春覇を見る。戦場の喧噪の中で、春覇は剣を振った。
「奪い返せ!」
命令に反応して章軌が動く。
そこで、私の意識は途切れた。