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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之漆 草萌の国
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碧の太子

「顔を上げて良い」

 こちらへゆっくりと歩み寄りながら、太子が言った。


 さあ、どう出る。


 言葉に従ってゆっくりと顔を上げた私の目に、柔らかな表情を浮かべた穏やかそうな青年が映る。とりあえずここで討たれるという可能性はなさそうだと察して、私は肩の力を抜いた。

 目上の人間に対して目を合わせるのは非礼だと習っていたので、視線は太子の襟元の少し下に留める。

「鴻宵」

 名前を呼ばれたので、少し視線を上げてみた。真っすぐに目を見られていることに気づいて、少し躊躇ってから見返す。

 目が合うと、太子の穏やかな笑みに少し別の感情が乗った気がした。

「まったく」

 苦笑を含んだ声と、細められた灰色がかった瞳。

 私は首を傾げた。


 こんな穏やかな雰囲気を持った青年を、私は知らない。

 知らないのだが。


 ……この端正な顔立ちを、どこかで見たような気がしないか。


「相変わらず無茶をする奴だ」

 少し口角を上げて呟かれた瞬間。


 かち、と音を立てて記憶が一致した。


「……はぁっ!?」

 思わず叫んだ私を、誰が責められようか。

 急に大声を出した私に、春覇と中津が目を丸くする。対照的に、目の前の男は口元を押さえて肩を震わせていた。

 爆笑ですか。


「己凌!何であんたが……」


 そう。

 口調も雰囲気も表情もまるきり違うが、目の前に居るのは間違いなくあの己凌だった。

「いや……っ、それはこちらの……くっ」

「笑い過ぎだ!」

 私の驚愕がツボに入ったらしい己凌は、まだ肩を震わせている。

 殴ってやろうかと私が不穏な事を考え始めた時、呆気に取られていた春覇がようやく口を開いた。

「知り合いか……?」

 ああ、うん。一国の太子と私みたいな流れ者に面識があるのは普通に考えておかしいですよね。というか、己凌がここに居る事がおかしい。

「いや、実は白からの帰路、私は追っ手の目を欺く為に昏を通ったのだ」

 やっとの事で笑いを収めたらしい己凌が、春覇に説明する。

 追っ手の目を欺く為に、って、じゃあ紅で殺された太子っていうのは元からダミーだったわけだ。そして本物は旅人に身を窶して全く違う道を通っていた、と。

 ……本物も追われてたけど。

 というか、ようやく己凌が沃縁に追われてた理由がわかった。碧の太子なら追われて当然だ。よくもまぁあっさり山賊だと誤魔化してくれたものだ、この王子様は。

「その途中で出会って、暫く旅を共にしていた」

 それはともかくとして、この変わりようは一体何だ?

 口調から何から、同一人物とは思えないような有様だが。

 でも、この場では敢えて突っ込まない方が良い気がする。何となく。

「では、改めて」

 己凌、いや、碧の太子はふわりと微笑んで手を差し出した。

「私は紀蒼凌(きそうりょう)。この国の太子だ」

「……鴻宵です。宜しくお見知り置きを」

 この国の太子は大した猫をかぶっているようだ。

 多少疲れた顔をしながら差し出された手を握った私に続いて中津とも握手をすると、蒼凌は春覇に目を向けた。

「それで、鴻宵の処遇についてだったか」

「はい。王からは下士の身分を賜っておりますが……」

 気を取り直して、春覇が話を進める。

 蒼凌は少し考えるような素振りを見せた。

「下士、か……」

「私の下に置くとなると、司馬府の官ということになりますが、その後のことです」

 王から春覇の下に置くようにという指示が出た以上、初めは春覇の麾下に入る事になる。しかし私の目的からいえばずっとそのままでいるわけにはいかないわけで。

「ふむ。大望があるとなると、少なくとも大夫……いや、やはり卿に登っておかねばなるまい」

 蒼凌が呟く。春覇が難しい顔をした。身分制度が分かっていない私の袖を、中津が引く。

「卿ってのは事実上臣下としては最高位だよ。大夫はその下」

「その通り」

 私にこそりと教えた中津の声を聞き咎めて、蒼凌がひょいと眉を上げた。

「現在この国で卿の身分になる官職は六つ。六卿と呼ばれる。概念上ではその上に三公があるが、これはとうに形骸化して、ほぼ存在しないと扱っても問題が無い」

 そう解説した蒼凌と、未だに難しい顔をしている春覇。

 その卿に登るということはどうやら尋常じゃなく難しそうだというのが嫌でもわかる。

「因みに現行の六卿は宰相、大司徒、大宗伯、大司馬、大司寇、及び大司空なのだが」

「鴻宵の性質からいえば、大宗伯ですか」

 春覇が言うと、蒼凌は少し眼差しを下げた。

「しかし青龍との関わりは切れた事にしてあるのだろう。いや、大宗伯でも別にかまわないのだが、あの職は実際の政治に関わりにくい」

「大宗伯は早い話が神殿の管理と祭祀を司る役職。鴻宵は適任だけど、俗世間から遠ざかっちゃ困るよね」

 春覇と蒼凌の議論に、中津が解説を加えてくれる。

 私は頭を抱えた。

「あ~……因みに他の職は?」

「それなのだが、現在の宰相、大司徒、大司馬、大司空はまず動くまい。大司寇も……あれは法令に詳しくなければ務まらない。鴻宵には荷が重い」

 私の質問は、春覇の渋面にあっさり潰された。

「手が無い事は無い」

 不意にそう言った蒼凌に、視線が集まる。蒼凌は真っすぐに私を見て、言った。

「官職は大宗伯でいい。今の大宗伯は神官としての資質は春覇に劣る。鴻宵なら十二分に代われるだろう」

「しかし」

 春覇の反論を手で制して、蒼凌は続ける。

「政権から離れないようにするには、武官として卿に登ればいい」

 春覇がはっとしたような顔をする。私は首を傾げた。

「いや、まぁ文官として昇進するのは時間がかかるだろうし、難しいと思ってるけど」

 何しろ官位制度すら把握していない現状である。

 事務仕事で昇進していくのは難しいに違いない。それに、文官では目覚ましい功績というのは上げにくく、私のような後ろ盾のない者が上に行くのは至難のわざだ。

 当然、武官として仕事をする事になると思うのだが。

「……覚悟はできているのか?」

 蒼凌に問われて、私は一瞬言葉に詰まった。

 すぐに軽く目を閉じ、振り切るように首を振る。

「殺さなくても、武功は上げられるよ」

「……この上難しい道を選ぶか」

 寸時、蒼凌と睨みあう形になる。

 やがて、蒼凌はふっと笑った。その笑みは相変わらず穏やかだが、目には己凌として接していたころと同じ鋭さがあった。

「いいだろう。そこまで考えているのなら」

 そう言って、蒼凌は私の目指すべき道を口にした。

「大将軍の位に登るがいい。幸い、現在三人を定員とする大将軍には一つ空位があり、該当者も現れそうにない。大将軍になれば、卿の身分は自ずとついてくる」

 大将軍は該当者が無ければ空位になる地位であり、官職ではなく名誉号であるらしい。

 従って、大将軍になった者は官職として六卿のいずれかの仕事を与えられる。


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