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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之陸 氷雪の国
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衝突

 五、六日進んだだろうか。


 山を迂回して平地に出る所に、重厚な関所が有った。昏の領土がここで終わる。

 その関を抜けて間もなく、碧の防衛線に当たった。しかしそこに抵抗する兵士の影は無く、関門を破れば易々と通過出来る。

「守備兵は逃げたか……いや、無益な抵抗を避けて軍に合流するよう命じられたな」

 諭伴が呟く。

 双方、関を巡って攻城戦を繰り広げる気は無いという事だ。碧側は峰晋を警戒しているのかも知れない。


 緑豊かな丘を望みながら平地を進んでいくと、前方に土埃が見えた。

「止まれ」

 号令がかかって、軍が停止する。碧軍も止まったようだ。土埃が収まって、青い軍隊がちらちらと見え始める。

 帥将である公子の兵車が動いた。峰晋の兵車がそれに続く。兵士達は動かない。

 碧側からは、騎馬が二騎出てきた。多分、絃鞍と角融だ。碧軍はあまり兵車を使わず、騎兵を多く用いるのが特徴らしい。

 双方から進み出た将は一定の距離を保って止まると、言葉の応酬を始めた。いわゆる宣戦布告だ。

 私の位置からは、辛うじて声は聞こえても内容まではわからない。やがて双方が背を向けて自陣に戻ると、太鼓が鳴った。


 喊声を上げて、兵士達が走る。

 私も走った。


 異様な雰囲気だ。


 前線がぶつかり、血煙が舞う。鐘と太鼓が鳴り響き、旗が翻って命令を伝える。

 兵士達はただその命令に従い、必死に目の前の敵を倒すだけ。軍全体がどうなっているかなんて、わかる筈もない。


 これが、戦だ。


 軍の中程に居た私達はまだ敵にぶつかっておらず、緩やかに前進しているだけだったが、指示が変わったのを皮切りに猛然と動き始めた。

 呆れた事に、峰晋が先頭切って進んでいる。

 ――まさか。

 私の脳裏に、不安がよぎった。

 峰晋のように高位にいる者が、武力自慢でもないのに先頭で敵軍に突入するなんて普通考えられない。だとしたら。

 突出した峰晋の兵が碧軍に食い込み、私の身辺にも敵兵が現れ始める。私は剣を使って相手の武器を叩き落とすと、後は剣の柄で撃つか体術を使って気絶させた。

 殺してしまえば、この空気に呑まれてしまう気がして。

 そうして戦いながらちらりと峰晋の方を見た時、狭い視界に、騎馬を率いて峰晋の隊を止めに来た春覇が映った。

 嫌な予感が、背筋を走る。


 それは、一瞬の出来事だった。


 峰晋が手を翳したと思ったら、波状に溢れだした氷が碧軍を呑み込む。

 とっさに手綱を引いて身をかわした春覇のすぐ脇を通って、一直線に氷の塊が出来た。その線上にいた兵士は全て一瞬で氷漬けになる。

「峰晋、貴様!」

 春覇の声が、やけに静かになった戦場に響いた。

 峰晋は何も答えようとはせず、返事の代わりに翳した腕を振る。春覇をめがけて、氷柱が飛んだ。それを剣で弾き落として、春覇が叫ぶ。

「息吹たる木、同胞たる風を呼べ」

 言霊に応じて木精霊が風精霊と手を繋ぎ、風を起こす。木精霊と風精霊はいわば双子だ。こういう使い方が出来るのは知らなかったけど。

 春覇を庇うように渦巻いた風は、峰晋が放った第二波の氷柱を止めた。しかし数秒拮抗する様相を見せた直後、木精霊と風精霊が悲鳴を上げた。風が破れて、氷柱が通過する。

「な……」

「春覇!」

 春覇の胸を貫こうとした氷柱は、寸前で別のものに刺さった。

「章軌!」

「……っ」

 ぼたぼたと血がこぼれて、血溜まりを作る。章軌が氷柱を受けた腕を押さえて小さく呻いた。


 いつの間にか、戦場は静まり返っている。

 敵も味方も、このあまりにも一方的な対峙を言葉もなく見守っていた。

 その中に、峰晋が小さく息を吐き出す音が響く。


 笑って、いるのだ。


「主には忠実というわけかい、嘗ての女神の守護よ」

 す、と腕を前に出す。

「愚かだね」

 氷を出すまでもなかった。

 元来狐狼は神に仕える者であるが故に、玄武が神気を放つだけで吹き飛ばされた。背後の兵車にぶつかって、崩れ落ちる。

「章軌!」

 思わず後ろを見た春覇を、氷柱が襲う。それを脇腹に受け、春覇が落馬した。


 見ていられなかった。

 私は固まっている兵士達を押し退け、走った。




 地面に手をついた紀春覇は、片手で傷口を押さえながら何とか身を起こした。しかし膝に力が入らず、立ち上がる事が出来ない。

 こんな圧倒的な力の差を見せられたのは初めてだった。

 速く浅い呼吸を繰り返しながら、兵車の上から自分を見下ろす男を睨む。

「馬鹿げた争いは終わりにしよう」

 鎧すら着けずに超然と佇み、峰晋は言った。

「私が終わらせる」

 再び、手が翳される。

 ここまでか。

 春覇は目を閉じた。

 水精霊がざわめき、殺意が向かって来るのを感じる。

「……?」

 しかしいつまで経っても衝撃が訪れない事に首を傾げながら、春覇は目を開いた。


 最初に目に入ったのは、膝を浸す己の血。

 目を上げていくと、少し先の地面に砕けた氷が落ちているのが見えた。

 そして北国の靴を履いた足と、煌めく剣刃。


「……誰かな?」

 峰晋の冷たい誰何が聞こえる。頭を擡げた春覇の視界に映る背中は、昏の下級兵である事を示す石の鎧を纏っている。兵士にしては小柄なその人影は甲を身に着けていて容貌は伺えないが、甲の下から短めの細い髪の束が覗いている。

 一体誰だ。

 春覇にしても、昏兵に庇われる謂われなど無い。

 峰晋の問いかけに名乗る代わりに、その人物は甲を取った。

「……誰かな。邪魔をするなら、排除するよ」

 その人物に見覚えの無かったらしい峰晋の声が険を帯びる。同時に、氷柱が兵士をめがけて飛んだ。

「護れ」

 低く、短く、その人物はそれだけを呟いた。

 言霊とも言えない筈の、簡潔な指示。

 しかし、その指示に、精霊は確実に反応した。

 素早く風精霊が凝縮し、渦を巻いた風が氷柱を砕く。

「ほぅ……」

 峰晋がすっと目を細めた。この人物の力は、五国方士に勝るとも劣らないのだ。

「なっ……」

 春覇にしても、目の前の光景が信じられなかった。風を身辺に集めながら、その人物が振り返る。

「……!」

 春覇ははっと息を呑んだ。

 中性的で、すっきりと整った顔立ち。

 それに、春覇は見覚えがある。

「灯宵……?」

 呆然としたまま問うと、灯宵は僅かに口端を上げた。

「久しぶり、春覇」


 以前に会ったのは、紅の炎狂にさらわれたあの時。

 朱宿として利用された灯宵は、精霊に助けられて脱出したという。その後は白で捕らえられ、牢の中から忽然と姿を消したという事しか聞こえてこなかった。

 それが、何故ここに。


 数多の疑問を飲み込んで目を見開く春覇に軽く苦笑してから、灯宵は前を向いた。

「兵を引け、峰晋」

 凛とした声が響く。峰晋が目を眇めた。

「はいそうですか、とこちらが引くとでも?」

 冷たく投げられた疑問に応ずるように、峰晋の兵車の後ろに控えていた二騎が前に出る。

「お前、あの時の……」

 鋭い目つきをした男が呟くように言う。灯宵はそちらに少し目を遣ったようだが、すぐに視線を峰晋に据えた。

「引いて貰うさ。これは人の戦であるべきだ」

 何を言っているのか、春覇にはわからない。しかし対峙する三人には僅かに動揺が走った。

「……言っている事がわからないのだけれど?」

 峰晋が探るように問う。灯宵は背筋を伸ばした。

「人の争いを人ならざる者がかき回すべきではないと言っているんだ。……北の守護神、玄武」

 周囲に聞かせるように声を張る。言い終わると同時に飛んできた矢を、灯宵は剣で両断した。矢を放った危謄が二の矢をつがえようとするのを、虚廉が止める。


 ざわざわと、両軍に動揺が波及した。春覇も唖然とする。しかし同時に、納得する部分もあった。

 神である玄武なら、あの圧倒的な力も頷ける。

「……気付く人間がいたとはね」

 否定はせずに、峰晋は含むような笑みを浮かべた。動揺の広がる軍を一瞥し、前に出ていた二人を下がらせる。

「しかし私にはこの混乱が人の力だけで収まるとは思えないのだよ」

 峰晋のその言葉を受けても、灯宵は揺らがなかった。

「確かにこの一件には女神も関わっているし、人ならざる者の力を借りる必要も出てくるだろう」

 その時は遠慮なく借りるつもりだ、と言った灯宵は、直後に逆接を紡ぐ。

「だからといって、あんた達が自ら介入するのはお門違いだ」

 鋭く言い放たれた言葉に、峰晋は目を細めた。

「なるほど……我々は手を貸すだけ、介入は飽くまで人の願いによってせよというわけだね」

 一理ある、と認めた峰晋は兵車を少し進めて灯宵の眼前に位置すると、周囲の軍隊を悠然と見渡した。

「君の言い分を認めて私は手を引こう。君がどう動くか、様子見をさせて貰うよ」

 但し、と言って、峰晋は笑んだ。

「軍は引かない。君はどうやってこの場を切り抜けるつもりかな」

 春覇は戦況をざっと見渡して、唇を噛んだ。

 春覇が峰晋に敗れた事で戦況は大きく傾き、昏軍が優勢になっている。増して灯宵は碧軍を掌握しているわけではない。この状態から昏軍を振り切るのは至難の業だった。

「……確かにこれは俺の力では無理だ」

 凛々しく立っていた灯宵の肩から力が抜けたのが見て取れる。

「っていうかこんな目立つ事するつもりじゃなかったのに……」

 予定が狂った、とぼやきながら、灯宵は周囲を見回した。

「悪いけど、この場は手っとり早く片づけたいんでね」

「……どうする気だい?」

 無力な人間に何が出来る、と峰晋の目が語っている。

 事実、いかに有能な方士でも、これだけの規模の軍を相手にするのは不可能だ。朱宿の炎が軍隊を焼いたのは、偏に朱雀の力あっての事なのである。

 問いかけに答える代わりに、灯宵は腕を持ち上げた。

「怪我をしたくない奴は下がっていろ」

 その言葉と同時、翳された腕に霊力が凝縮して燐光を発する。

 春覇は目を見開いた。こんな規模の術は見たことがない。

「来い」

 灯宵が低く呟く。

「――青龍」

 突如、風が吹き荒れた。灯宵の見据える先、昏軍の上に、長大な龍が姿を現す。

「青龍……?」

 眉を寄せる峰晋を前に、灯宵は腕をゆっくりと左から右へと振った。それに従うように、龍が昏軍の頭上すれすれを駆け抜ける。土埃が舞い上がり、兵士達は頭を抱えて逃げ惑った。一周した龍は、反転して逆回りに高速でもう一周して土煙を散らす。

 後には戦意を喪った兵士達が残った。

「馬鹿な……」

 春覇は思わず呟く。

 青龍は東方の守護神。大陸東部の土地を護る神なのだ。どう考えても、人間が易々と使役出来る相手ではない。

 昏軍を散らした青龍は、悠々と灯宵の側に戻って来ると全身から燐光を放った。その光がみるみる縮まって蟠り、人の形に凝固する。淡い粒が散って、一人の男が姿を現した。

「まさかいきなりこんなに手荒く使われるとは思わなかったな」

 呆れたように言いながら、灯宵に歩み寄る。灯宵は口角を上げた。

「使えるものを使うべき時に使っただけだ」

 事も無げに言い切って、峰晋に向き直る。その視線の先に捉えられた峰晋は、何とも複雑な顔をしていた。

「青龍……まさかまた繰り返す気かい」

「違う」

 低く言った峰晋に、青龍も真剣な面もちで答える。

「繰り返さない為に、俺はこいつに与する」

 何の話だか、春覇にはわからない。どうやら灯宵にもわからないらしく、首を傾げて二人の様子を見ていた。

「……そう、なら私は様子見に回らせて貰うよ」

 言いたい言葉を呑み込むような間を開けて言葉を紡いだ峰晋は、そのまま雲を呼んで姿を消した。控えていた危謄と虚廉も、相前後して立ち去る。

「大丈夫か、春覇」

 名前を呼ばれて、春覇ははっと顔を上げた。事態の急変についていけず、ぼうっとしてしまっていたらしい。青龍は灯宵と何事か言葉を交わしてから去り、灯宵が目の前に膝をついている。

「良かった、深くはなさそうだな」

 春覇の傷を見ながら、灯宵が言う。春覇は口を開いたが、問いたい事が多すぎて何も言えなかった。


 戦場の混乱が収拾し、部下達が駆けつけてくる。昏の兵は散り散りに逃げ散ったようだ。

 兵を纏めて都に帰ったら、昏の今後の動きを探らなければ。

 やけに冷静にそんな事を考えながら、春覇はゆっくりと目を閉じた。




 春覇が静かに目を閉じ、その体から力が抜ける。

「ちょ……春覇!?」

 私は慌てて春覇の肩を揺さぶった。

 傷は深くないと思ったのだけれど、他に怪我でも有ったのだろうか。

 焦る私の肩を、誰かが掴んで押し留めた。振り向いてみると、見えたのは琥珀色の髪と瞳。

「章軌……」

「心配無い。気が弛んだんだろう」

 そう私を宥めると、章軌は春覇の手当にかかった。その腕には、未だ血がこびり付いている。

「章軌、お前自分の手当しないと……」

「必要無い。俺は治りが早い」

 いやいや、治りが早いからって放っておいていいわけじゃないだろう。

 私はとりあえず春覇の治療を手伝い、それが終わると普通に兵の掌握に向かおうとした章軌の袖を捕まえた。

「何だ」

「何だじゃないだろう」

 溜息を吐きながら、袖を捲って血を拭う。ざっくりと傷ついた皮膚に眉を顰めながら、薬草を貼って布を巻いた。

「俺の治療などいいのに」

 章軌がそんな事を呟くから、巻きかけの布を思い切りきつく引っ張ってやった。僅かに息を詰める音が聞こえる。

「投げやりすぎるよ、お前等は」

 淡々と処置をしながら、私は言った。

「俺は旅をして、何人かの狐狼に会った」

 章軌の腕が微かに揺れる。巻き終わった布を結ぶ。

「皆優しい良い奴だった」

 橙の老人も、総華も。

「優しすぎて、簡単に自分を捨ててしまう」

 人は狐狼が嫌いだ、と寂しげに言った老人。小さな部屋で十分だと微笑んだ総華。

 罪なんて、彼らには無いのに。

 私は治療の終わった腕にそっと袖を被せ、手首の枷を隠した。

「何とかしたくて、いつの間にか大きな事になってしまった」

 章軌の腕を離しながら、私は苦笑する。まさか軍隊のど真ん中で啖呵を切る羽目になるとは思わなかった。

「……お前は、何者なんだ」

 暫しの沈黙の後、章軌が呟いた。私は苦笑を深めて周囲を見渡す。

「それを今、探してるところさ」


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