急変
翌日。
日が高くなると、すぐに黒零は離宮を出た。勿論私と蕃旋を従えている。
門番に許可証を見せて外の土を踏んだ黒零は、本当に嬉しそうだった。
「あまり人の多い場所には行くなと言われている。郊外へ行こう」
そう言って歩き出す。
「黒零様、馬車は……」
「せっかく出られたのだ、己の足で歩かないでどうする」
念のためにした問いかけはばっさりと切り捨てられる。内心苦笑しながら彼の後に続いた私は、蕃旋がやけに静かなのに気づいた。何か考え事でもしているように、黙りこくっている。
「どうした、蕃旋」
不審に思った私が声を掛けると、はっとしたように顔を上げる。
「いや……」
何でもない、と歯切れの悪い誤魔化し方をして、蕃旋は私を追い越した。
すぐ傍の木で、鴉が一声鳴いたのが、やけに耳についた。
市街を避けて歩いた私達は、やがて町の外れに辿り着いた。
黒零は道端の草花が珍しいのかあちこち視線をさまよわせ、陽光に目を細めている。それを微笑ましく見守っていた私は、日が中天にさしかかったのを見て黒零に歩み寄った。
「黒零様、昼食はいかがなさいますか」
本来なら離宮に戻って食事をするべきなのだろうが、この様子では戻りそうにない。とすればこの辺りで調達する事になるな、と周囲を見渡した。
その私の視界に、たまたま黒零の真後ろにいる蕃旋が映った。
蕃旋も黒零に付き従っているのだから、後ろに居るのは何らおかしい事ではない。
なのに、私は妙な違和感を覚えた。
「まだ帰りとうはないな……」
「ならばこの辺りで調達致しましょう」
内心首を傾げながらも、私はそう言って一歩下がった。
黒零からは右斜め後ろの位置。
唐突に、私は背筋が凍り付くのを感じた。
「それがよいな」
さっきの違和感は、何だ?
「おや、農作業をしておるな。蕃旋、あれは麦か?」
蕃旋は、黒零の、「真後ろ」に居た。
「……そうですね」
蕃旋が低く答えた瞬間に二人の間に割り込んだのは、半ば本能だった。
同時に反射的に左手で鞘ごと持ち上げた剣が嫌な音を立てる。
「……え……?」
振り向いた黒零がこぼした声は、酷く幼く聞こえた。
それはきっと、あまりにも大きな驚愕のせい。
「黒零様、お下がりを」
私だって、内心混乱している。しかし今すべき事だけはわかっていた。
「何の真似だ、蕃旋」
黒零に届く前に私の腰の剣に防がれた刃は、蕃旋の手に握られている。
私の詰問に舌打ちを返した蕃旋は、素早く刀を引いて鞘に収めた。そのまま、柄に手を添えて腰を落とす。噂の通り、居合いの構えだ。
私は蕃旋から目を離さず、黒零を庇いながら鞘を腰から抜いた。指先で探ってみると、鞘は完全に貫通されていて、剣身にも傷が入っていそうだ。蕃旋の腕と刀の切れ味が相当なものだとわかる。
これを相手にして、鞘ごとでは戦えない。
私は剣を鞘から抜き、構えた。
無言の蕃旋との間に緊張した空気が満ちる。
「蕃旋……?何故……」
黒零が呆然と呟いた。まだ信じられないのだろう。声が震えている。
「何故、か」
ようやく、蕃旋が口を開いた。
「あんたが王家の人間だからだ」
答えながらも、私から目を離さず、構えも解かない。私は眉を寄せた。
「王家だから……?」
理由が掴めずに思わず呟くと、蕃旋は眉間に憤りを表した。
「五百年前、王家の人間が馬鹿な事しなければ、俺だってこんな事しなくて済んだよ」
吐き捨てるように言われた言葉に、私は目を見開いた。
五百年前の怨み……?
世界を乱した怨み?それはあまりにも抽象的だ。なら、蕃旋と五百年前の事件とにどんな関連があるのか。
暫時考え込んだ私を、白銀の閃きが襲う。
辛うじてそれを剣で止めると、続けざまに二撃目、三撃目の斬撃が来た。それを何とか弾き、反撃しようと踏み込む。同時に蕃旋が飛び退って間合いを開け、刀を鞘に収めた。再び構える。
「退け、鴻宵」
お前には関わりの無い事だ、と言われるが、私は頑として退かなかった。
「今、俺の仕事は黒零様の護衛だ」
油断無く剣を構えながら言い切る。
蕃旋の腕はかなりのものだ。気を抜いたらやられるのは確実だった。
「そうか……ならお前も消すしかねぇな」
蕃旋が呟く。消されてたまるかと睨み返す私の肩に、炎精霊が一匹、ふわりと乗った。
「赤鴉、怒ってる」
囁くような声。馴染みの無い単語に私が首を傾げるより早く、蕃旋が炎精霊を睨んだ。
「当たり前だ。自我の無ぇお前等が首突っ込むな。引っ込んでろ」
そう言えば、蕃旋が夢魔と契約出来る方士だった事を思い出す。精霊も見えるようだ。
もっとも、今のやりとりからして、方士ではなかったようだが。
「赤鴉……?」
私が呟くと、蕃旋が舌打ちする。その瞳が、見る間に色を変えて燕脂色に染まった。
「俺は赤鴉の一族だ」
ざわりと空気が騒いで、あちこちで鴉の鳴き声がする。私ははっと思い当たった。
「妖怪……」
青龍が妙な事を言っていたのはこの為か。
彼はきっと、蕃旋が妖怪だと知っていたに違いない。
「それが何故吾を……」
当然の疑問を、黒零が呟いた。蕃旋の瞳が鋭利に煌めく。
「赤鴉は朱雀の眷族だ」
そこに宿るのは確かな怒り。
「五百年前の事件のせいで、朱雀は病んじまった」
私は、朱雀がこの身に入った時に伝わってきた悲しみと憤りを思い出した。
確かに朱雀は病んでいる。半ば狂ってしまったとも言える。
しかしそれは、黒零を殺してどうにかなるような問題ではない。
「そんなの……」
「わかってる」
私に皆まで言わせず、蕃旋は苦々しげに言った。
「王家の人間を殺しても仕方無ぇことだ。でもやっぱり、元凶は赦せねぇ」
だから黒零を殺して王家を根絶やしにする、と言った蕃旋は口笛を吹いた。
呼応するように無数の羽音が響く。鴉の大群が空を黒く埋め尽くしながら向かって来るのが見えた。
それに思わず気を取られた瞬間。
蕃旋の刀が鞘を走った。
これは間に合わない。
刃が迫る様がスローモーションのように脳裏に焼き付く。
最期の瞬間というのは、こういうものだろうか。
一瞬後に響いたのはしかし、肉を断つ鈍い音ではなく、固いものに刃が食い込む音だった。
「え……」
私を庇うように、地から突き出した氷柱が刃を受け止めている。
私は何もしていない。
蕃旋にとっても予想外だったのか、一瞬動きが止まる。その一瞬に飛来した鋭い氷柱を紙一重でかわし、また刀を収めながら跳躍して下がった。その視線が、氷柱が飛んできた方へ向く。私も目を転じた。
「黒零、様……?」
思わず呟く。私達の視線の先には、酷く悲しげな顔をした黒零が居た。
「蕃旋……」
黒零の周囲に、水精霊が大量に集まり、渦を巻いている。今まで、黒零の周りの精霊に偏りは無かった筈なのに。
「そういや王家は方士の血筋だったな……」
舌打ち混じりに蕃旋がこぼす。その肩に、一羽の鴉が止まった。蕃旋が反応しないところを見ると、親しい相手なのかも知れない。黒零もそれに構う様子は見せず、周囲に幾つもの氷塊を生じた。
「吾は悲しい」
年相応の幼さを見せた黒零の瞳から、一粒の涙がこぼれる。後ろから彼に飛びかかろうとした鴉は、一瞬にして氷に叩き落とされた。
「手を出すな」
蕃旋が鋭く鴉達を制す。黒零の力を感じ取って警戒しているのだろう。
今の黒零が纏っている霊力は五国方士と比べても何ら遜色は無い。蕃旋は自ら黒零の前に立ち、柄に手をかけた。
私は蕃旋の行く手を塞ぐ事はせずに、鴉の群に相対する。蕃旋の相手は黒零がする筈だ。
仲良くなれると思っていた相手に裏切られた、そんな絶望を抱えていると思うから。
だから、この対峙の邪魔をしてはいけない。
「吾を殺すか、蕃旋」
黒零の問いかけに、蕃旋は構える事で答えた。
「それが俺の務めだ。赤鴉の一族としての」
鞘走った刀が氷塊とぶつかる。ほぼ同時に、私は飛びかかってきた鴉を剣の鞘ではねのけた。
乱闘が始まる。
蕃旋と黒零の鋭い応酬を横目に見ながら、私は攻撃を仕掛けてくる鴉達を防ぎ続けた。はねのけられても叩き落とされても、動けるようになれば何度でも向かってくる。
業を煮やした私が精霊を使おうかと考え始めた時。
「――呼び声に応えよ」
蕃旋が何かを唱えた。彼の周りに妖気が渦巻く。
ようやく、私は思いだした。
蕃旋は夢魔と契約していた。
あの質の悪い妖魔の力が、眠った時にしか発動しないわけではないとしたら。
最悪の経験を、最悪の結末で見せられるとしたら。
私は走った。妖気が届く前に、無我夢中で黒零を庇う。
今の傷ついた黒零は、そんな物を見たら壊れてしまいそうだと思ったから。
庇った瞬間に、ぱっと目の前が真っ白になった。すぐに炎が広がる。
「――っ」
その白昼夢から私を救ったのは、皮肉にも腹部に食い込んだ衝撃だった。
ゆっくりと、視線を落とす。
正面には驚いた様子の蕃旋。
そして、私の懐に飛び込んだ黒い塊。
「鴻宵!」
まるで黒零の叫びが合図だったかのように、黒い塊――蕃旋の肩に止まっていた鴉が離れる。その鋭い嘴から滴る赤い液体を認識した瞬間、私は膝から崩れ落ちた。周りにいた精霊達が悲鳴を上げる。
「鴻宵!」
慌てて私の肩を支える黒零に、私の血を浴びたままの鴉が飛びかかろうとする。それを、私は剣の鞘を振って渾身の力で叩き落とした。
「姉さん!」
蕃旋が地に落ちた鴉に駆け寄る。脳震盪を起こしたのか痙攣しているが、命に別状は無い筈だ。
それを見るともなく眺めていた私の喉から咳がこみ上げて、口元から朱が散った。おろおろと私の傷口を押さえる黒零の背後に、襲いかかろうとする鴉の群が見えた。
結局、守れないのかな。
そう、諦めかけた時。
唐突に、鴉達の上から水が降り注いだ。鴉達は驚惑の声を上げて算を乱す。
「命が惜しくば去れ、赤鴉」
低い声が響いた。顔を上げた蕃旋が舌打ちをする。
「黒蛇かよ……分が悪いな」
鴉を抱えて立ち上がり、腕を振る。それに応えて鴉達が飛び去って行った。
「また来るからな、必ず」
不機嫌な口調でそう言って、蕃旋も去って行った。
現れたのが何者なのか、と振り向こうとした私は、腹部に走った激痛に呻いた。
「大丈夫ですか?」
不意に柔らかな声がかけられ、痛みに閉じていた目を薄く開く。狭い視界に、柔らかな笑みを浮かべた青年が見えた。
「救援が遅れて申し訳ありません、璃氏様。お怪我は?」
「吾は無事だ。だが鴻宵が……」
傷口を押さえる黒零の手にぐっと力が籠もる。
出血を止めようとしてくれているのはわかるんだけど、正直、痛いです。
「心配要りませんよ。お手をどけて頂けますか」
青年がそう言って黒零の手を離させ、私の傷口に掌を当てる。痛みに思わず短く呻いたが、すぐに何か暖かいものが流れ込んでくる感覚に気づいた。呼吸が楽になり、激痛が引いていく。
「な……っ」
黒零が驚きの声を上げた。青年が手を離した時には私の傷は綺麗に塞がっており、痕すら見えない。
「終わったか、虚廉」
青年に問いかけたのは、先程聞いた低い声だった。
振り返って見ると、吊り目がちの痩せた男がこちらを見下ろしている。虚廉と呼ばれた青年はにこりと笑って立ち上がった。
「治ったよ」
私はもう一度傷のあった場所を確かめ、黒零に凭れていた体を起こす。痛みも綺麗に消えていた。
「そなたらは……」
黒零が驚愕と不審の綯い交ぜになったような表情で問う。私と黒零の前に並んで立った彼らは、腕を組んで一礼した。
「申し遅れました。私は峰軍師の補佐をしております、虚廉と申します」
「同じく、危謄です」
二人とも峰晋……即ち玄武の部下だと言う。さっきの力から考えても、二人とも人間ではないだろう。蕃旋が黒蛇と言っていたのも、それを示している。
「護衛にお付けした者が璃氏様に危害を加えようとした事、我が主は大変気に病んでおります」
虚廉がそう言って、黒零に詫びる。
「さぁ、城へ戻りましょう。我々が護衛致します」
促す虚廉に従い、私達は帰路に就いた。
ちらりと、今朝までは蕃旋が居た隣に目を向ける。
「馬鹿……」
彼らの気持ちも解る。
しかし、それで黒零を怨むのが正しいかといえば答えは否で。
仕事であるというだけでなく、情理の上からも、私は黒零を守る立場を取らざるを得なかった。
ひょっとしたら、私は朱宿だったという事を告げるべきだったのかも知れない。朱雀を狂わせた原因の一端は、きっと私にもある。
朱雀は私という器を得て、自由に動けると喜んだに違いない。それを、私は追い出した。
希望を知ってしまえば、絶望は更に重みを増す。
苦い思いを胸に、私は王城への道を踏み締めて行った。




