朗報
所変わって碧の王城。
朝廷内で武官が身につける装束を纏った紀春覇は、軍の情報を取り纏めるべく、役所に通じる廊下を歩いていた。
春覇は軍事を司る官に在る。
太子が居ない今、軍にも動揺が走っており、戦が起こっていなくてもその職務は決して楽なものではない。そのせいで春覇が自室に留まっている時間は殆ど無かった。足早に朝廷内を歩く春覇は、いつもの通り章軌を従えている。
そして、もう一人。
物珍しげに周囲を見回しながら春覇の後ろについて歩く男がいた。
「あまりきょろきょろするな」
春覇が苦々しげに言うと、男はへらりと笑う。
「仕方ないよ、面白いんだから。気にしない気にしない」
気になるから注意したのだが。
春覇は溜息を吐きたくなった。
章軌が見かねて口を開こうとした時、慌ただしい声が春覇を呼び止めた。
「覇姫様!」
声と同様に慌てた様子の男が駆け寄って来て、春覇の前に膝をつく。将達の間の伝達に当たる武官だ。何か大事が有ったかと、春覇は身を引き締めた。
「どうした」
「たった今、国境の衛兵から早馬が参りまして……」
余程衝撃の大きな報せだったのか、武官の声は震えている。
春覇が黙って続きを促すと、武官は心なしか涙ぐんだ目を上げた。
「太子が……太子がご帰還なされました!」
「何だと」
さすがの春覇も目を見開いた。紅の領内で殺されたと言われていた太子が、無事に帰ってきたと言うのか。
「それで、どのようなご様子だ」
「お怪我も無く御無事だということです。ただ、供回りの方々はやはり……」
武官が言葉を濁した部分は残念な報せではあったが、太子が無事だったという事実は春覇にこの上ない安堵を与えた。
これで、無用の戦は避けられる。
「でも何で死んだって言われてた人が無事に帰って来るわけ?おかしくない?」
そう暢気に疑問を提示したのは、言うまでもなく春覇の後ろに居る男である。伝令に来た男は一瞬問うような目を春覇に向けたが、説明を得られそうにない様子を見て口を噤んだ。
「それについてはご本人に確認すればいい」
春覇はそう言って、さっと踵を返した。
「出迎える。馬を」
歩き出す春覇の背中を見ながら、男が飄々と笑う。
「嬉しそうだね、春覇」
章軌はそんな男をちらりと見てから、春覇に続いた。
実の所、章軌でさえこの男について詳しいことは聞かされていない。春覇はただ、街から連れ帰った彼を暫く側に置くと言っただけだ。
そして章軌も何も訊かなかった。
春覇が決めたことならば、それに従うのが自分の役目。そう認識しているからである。
「面白そうな事になってきたね」
春覇と章軌の後ろ姿をのんびりと追いながら、男は空を見上げた。
夕闇が落ちる頃。
小さな離宮の中庭に、一つの人影が有った。細い月の淡い明かりに辛うじて浮いたその姿は、微動だにせずに闇を見つめている。
ばさり、と音がした。
羽が空気を打った音だ。
それを起こした張本人たるものが、滑るように中庭に降りてくる。
漆黒の艶やかな羽毛に太い嘴。
普通よりも一回り大きな、赤い目をした鴉だった。
こんな夜中に飛ぶはずのない鳥である。
それはまっすぐに人影に向けて滑空すると、滑らかな動きで人影の肩に止まった。小さく喉を鳴らし、何事か訴えるように頭を揺らす。
「ああ、俺もここまで都合良くいくとは思ってなかった」
鴉の言葉を聞き分けたかのように、羽を撫でてやりながら人影が言う。
「うん……そう、あとは機会を伺うだけだ」
囁くように告げて手を離すと、鴉は名残惜しげに人影に嘴を擦り寄せた。
「ああ、わかってるよ………姉さん」
血縁者を示す呼称で呼ばれた鴉は、ぱっと飛び立っていった。後に残された人影は黙ってそれを見送り、踵を返す。
静寂が支配する夜の底。
ただ草花が微かな風にそよぐだけだった。




