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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之陸 氷雪の国
64/76

籠の鳥

 広い中庭に並ばされ、訓練が始まった。

 木の棒を武器の代わりに持ち、陣の変形や進退を指示通り繰り返す。厳しいと言っていただけあって容赦の無い訓練だった。脱落者が続出し、退去を命じられていく。私は意識を集中して走り、武器を振るった。ちらりと見た限り、蕃旋も指示を問題なくこなせているようだ。

「よし、そこまで!」

 その声が掛かった時、人数は半分以下に減っていた。私は膝に手をつき、さすがに荒くなった呼吸を整える。昼過ぎに訓練を始めて、もう陽がだいぶ西に傾いていた。

「何だ、ばててんのかよ」

 ここぞとばかりに蕃旋が見下すような言葉を掛けてくる。こいつは殆ど息を乱していない。一応口だけの人間ではないようだ。

 私ももう少し持久力を付けた方がいいだろうか。

「ま、女顔にしちゃよく頑張ったよな」

「……顔は関係無いだろう」

 私は憮然として言い返したが、蕃旋はやけに上機嫌だ。

「とにかくこれで大体篩に掛けられたな」

 そう言って、辺りを見回す。

 その時、訓練をしていた武官の声が響いた。

「整列!」

 訓練の名残がまだ体内にあるせいか、全員が即座に折り目正しい動きを見せる。五列縦隊で真っ直ぐに並んだ私達を一瞥した武官は、堂に向かって腕を組み合わせ、礼をした。堂の奥の戸が開き、文官らしき出で立ちの男が現れる。

 年の頃は二十六、七。髪も瞳も黒く、昏の国に多い黒っぽい衣装を纏っている為に黒尽くめのようにも感じられた。後ろに二人、従者らしき男が控えている。

 その男は堂の端まで歩いて来て庭の様子を見回した。残ったのは約五十人だ。男が笑みを浮かべる。

「ご苦労様。君達は今日から私の指揮下に入ることになる」

 この男が、峰晋らしい。

 思ったよりも若い。

 今ここに残っている私達は、彼の配下として認められたようだ。

 因みに今の各国の制度では、戦時の兵士の大半は職業軍人ではない。戦が起こると徴兵される、農民や商工業者の一族だ。一方で、数は多くないが常に訓練を受けている軍人として、有力者の私兵や朝廷でそれなりの地位を持った将校が存在する。それらが中核となって一国の軍を形成するのが常らしい。

「今の所私が出向く程の戦は無さそうだが、訓練は怠らないように」

 そう告げる峰晋に皆と共に答礼しながら、私は違和感を覚えていた。


 彼は昏の氷神と呼ばれる方士だと聞いた。実際、彼の周りには水精霊が特に多く集まっている。

 しかし、どうも私にはその様子が不自然に思えるのだ。精霊は大抵、相性の良い方士に対してじゃれつくと言うか、飽くまで対等な態度を取っていたと思う。ところが、峰晋の周囲に居る精霊達は静かすぎるのだ。まるで、峰晋に従属しきっているような。

 そして、彼自身の雰囲気もどことなく尋常でなかった。どこが、とは言えないが、何となく違う。


諭伴(ゆはん)

 峰晋が武官に声を掛けて呼び寄せる。そのまま連れ立って立ち去ったので、私達は解散となってそれぞれ散っていった。

「やっぱ疲れたな。宿舎に戻ろうぜ」

「ああ」

 蕃旋の言葉に頷いた私は、峰晋に感じた違和感を頭の隅へと追いやって足を進めた。



 宿舎に着くと、大半の者がぐったりと壁に凭れたり寝ころんだりしていた。

「疲れた……」

 私も呟いて、壁際に座り込む。蕃旋も隣に座った。

「訓練は怠らないように、だってさ」

「まさか毎日これを続けるつもりか……」

 各国の有力者達は軍功を上げる為にも護身の為にも手勢の強化に余念が無いらしい。特に峰晋は急激にのし上がって敵も多い上に兵を雇ったばかりだから、それに輪を掛けて厳しい統制が予想される。覚悟の上とはいえ気が重いのはどうしようもなく、私と蕃旋は揃って溜息を吐いた。


 そうして暫く兵士達が体を休めていると、監督の武官、確か諭伴と呼ばれていた男が戻ってくる。

「蕃旋、それから鴻宵は居るか」

 いきなり名前を呼ばれて、私と蕃旋は顔を見合わせた。

 揃って呼び出される理由に心当たりなど無い。

 不得要領のまま前に出ると、諭伴は私達の顔と手元の紙を見てから頷いた。

「お前達二人には仕事を命じる。ついて来い」

 それだけ言って、さっさと歩き出す。私達はその背を追った。

「仕事とは何ですか」

 一歩後ろの位置を保ちながら、蕃旋が尋ねる。諭伴は振り返らずに答えた。

璃氏様(りしさま)の警護だ」

 璃氏様、という固有名詞に聞き覚えの無い私は首を傾げたが、隣にいる蕃旋は目を見開く。

「璃氏様って……大陸王家の!?」

「そうだ」

 あっさり肯定する諭伴に、蕃旋も私も二の句が継げない。


 大陸王家。

 五百年前に狐狼に皆殺しにされた一族。


 その生き残りの末裔が昏で祭り上げられているという話は聞いていた。しかし、まさかその警護に抜擢されるとは。

「そんな大役に、何故我々が?」

 私が発した問いは、至極当然なものだったと思う。この疑問にも、諭伴は淡々と答えた。

「お前達二人は璃氏様と歳が近い。璃氏様も打ち解けやすいだろうとの、峰軍師のご配慮だ」

 なるほど。王家の生き残りがどんな人物かは全く知らなかったが、今の諭伴の言葉から察するにかなり若いらしい。

「王家の、警護……」

 未だ衝撃から抜け出せないのか、蕃旋が呟くのが聞こえた。

 そうこうするうちに、王城の中でも奥まった離宮に辿り着く。門の前にいた兵士に諭伴が何かを言うと、兵士達は門を開いた。閑散として人影の無い庭をよぎって、建物に入る。中心部にある一室の前で諭伴は立ち止まり、声を掛けた。

「峰軍師の配下、諭伴でございます。警護の者を連れて参りました」

「……入れ」

 気だるげな声が答える。諭伴は扉を開けると腕を組み合わせて深く礼をした。私達もそれに倣う。

 礼を終え、そっと目を上げた私が見たのは、大きな椅子にだらりと腰掛けて退屈そうに窓の外を眺めている少年だった。

 確かに、歳の頃は私や蕃旋とほど近いに違いない。

 彼は私達が室内に入っても、こちらに目を向けることはせずにただ窓の外に視線を投げていた。

「これより新しく警護に当たります、蕃旋と鴻宵にございます」

 諭伴が私達を紹介する。少年は動かない。

「お見知り置きを」

 言葉を結ぶと、諭伴は一度私達を部屋の外に連れ出した。

「あの通り璃氏様はわかりづらいお方だが、くれぐれも粗相の無いように。立場上いつ狙われてもおかしくはない」

 そう言ってから、私達に細かい指示と説明をしてくれる。曰く、この離宮――斗宮(ときゅう)の警備はさっきの門番二人に裏門の警備が一人。それには王宮の兵が交代で当たっている。それ以外に斗宮にいるのは、当の璃氏様を除けば数人の使用人と私達警護役の二人のみ。

「重要なお方にしては警備が薄いですね」

 私が思わず言うと、諭伴は首を振った。

「この宮自体奥まった場所にある上、そう広くもないから十分だろう。それに璃氏様は多数を身近に置くことを好まれない」

 確かに、あまり多人数の警備をあてがわれるのは嫌がりそうな雰囲気だった。どちらかというと、何事にも関心は無いし他人からの干渉も受けたくないという気配を強く感じた。

 つまらなそうに外を眺める瞳には、実際は何も映っていないに違いない。

「基本的に二人とも璃氏様のお側に控えておくことになる」

 夜間は璃氏様の寝室の隣で眠る。不測の事態に備えられるよう、一日交代でどちらかは座って眠ること。

 有事の際は一人が賊の迎撃に当たり、もう一人は璃氏様を守りつつ峰晋の屋敷まで避難させること。

 そういった指示を伝えると、諭伴は私達を部屋に入れて璃氏様に辞去の礼をし、去って行った。残された私達は、改めて腕を組んで片膝をつく。

「蕃旋です」

「鴻宵と申します」

 それまで外しか見ていなかった璃氏様の目が、ようやくこちらに向いた。

「若いな。峰氏の兵か」

「御意」

 私達が最大級の礼をもって答えると、璃氏様は嫌そうに手を振った。

「堅苦しいのは嫌いだ。そなたらも慣れておるまい」

 育ちを見透かされたような言葉に、苦笑が漏れる。蕃旋が頬を掻いた。

「でも粗相の無いようにって言われたし」

 言ってるそばから言葉遣いが乱れているが。

「よい。吾が許す。歳も近いのだから遠慮は要らん」

 そう言った璃氏様は相変わらず退屈そうな顔をしているが、焦点はしっかり私達の上で結ばれていた。肘掛けに体重を預け、こちらに軽く乗り出す。

「吾は今年十五だ。そなたらは?」

「十六」

「同じく、十六歳です」

 私達が答えると、璃氏様は頷いた。

「そなたらが一つ上か……」

 そう呟いて、また窓の外に目を向ける。

「たった一つしか違わぬが、そなたらはきっと吾よりずっと広い世界を知っておるのだろうな……」

 その横顔はどこか寂しげで。彼が籠の中の鳥だということに、今更ながら気づいた。

「吾の世界はこの狭い離宮のみ。毎日退屈で仕方がない」

 呟くように言った璃氏様は、それっきり口を噤んでしまった。

 私と蕃旋は顔を見合わせた。どうするべきかと肩を竦め、私はとりあえず護衛としての位置につこうと窓辺に向かう。蕃旋は動かず、どこか陰を含んだ眼差しを璃氏様に向けた。

「外だって碌な世界じゃない……ご家族は?」

 離宮にいるのは璃氏様一人。気になるのは当然だが、余りにも直球な蕃旋の問いにひやりとする。

「おらぬ」

 案外あっさりと、璃氏様は答えた。

「父は早くに亡くなった。母は王家の血を引いていなかったから、ここへ来る時に引き離された」

 とはいえ十年以上前の事だから面影も朧気でしかない、と淡々と語る。孤独な日々にも慣れきってしまったという落ち着きように、切なさを感じた。

「では王家の血を引くのはもう……」

「恐らく、吾一人だ」

 蕃旋の言葉を引き継ぐ形で、璃氏様は肯定した。

 王家の血を引く最後の一人。だからこそ、警備も必要なのだ。彼を手に入れた国は、強力な大義名分を手に入れる事になるのだから。

「まぁ、吾はどう足掻いても籠からでられぬ鳥というわけだ」

 出たとしても、必ずまた誰かに捕まり、籠に押し込められてしまう。

 そんな自嘲的な言葉に、私は思わず声をあげた。

「璃氏様」

黒零(こくれい)

 かぶせるように言われて、暫し戸惑う。璃氏様を見ると、相変わらずつまらなそうな顔に少しだけ笑みを浮かべていた。

璃黒零(りこくれい)。それが吾の名だ」

「しかし……」

 片や大陸王家の末裔という貴種、片や一介の傭兵。身分が違いすぎる。

 面と向かって名前を呼びつけにするわけにはいかない。

「名で呼べ。吾は吾だ」

 名を呼ばれないと自分の存在がわからなくなる、と、璃氏様……黒零は呟くように語った。そこまで言われてしまえば私に反論することは出来ず、一礼してから名前を呼ぶ。

「黒零様」

「……本当は呼び捨てて欲しいくらいなのだが」

 まあいいか、と言って、黒零は目を細めた。

 籠の中に囚われた彼は気力も無くまるで人形のようだ。事実彼自身、自分の存在が都合良く人形のように扱われていることを感じているのかも知れない。

「鴻宵、茶を淹れてくれぬか。使用人にさせてもよいが、今は彼らを見たくない」

 恐らく、使用人達もまるで人形の手入れでもするかのように無機質な世話をするのだろう。

 黒零の心情を慮った私は、部屋の隅に置いてある茶器を手に取った。火鉢のようなものに金属製の水差しがかかっていて、湯が沸いている。普段なら使用人がここで茶を淹れるようだ。何故室内に、と思うが、ひょっとしたら黒零の世話は若干手が抜かれているのかも知れない。

「味は保証出来ませんが」

「構わぬ」

 私の言葉に微笑で答えて、黒零は言った。

「使用人を入れたくない時は吾がそこで茶を淹れる。吾は大雑把だからな、不味い茶には慣れておるのだ」

 やっぱりあまり良い待遇ではないようだ。そして黒零自身も細やかな世話を望んでおらず、むしろ鬱陶しいと感じている。

 私は何となく重い気分になりながら、茶葉を急須に入れ、湯を注いだ。

「蕃旋、そなたは変わった刀を持っているな」

 黒零は蕃旋の刀に興味を抱いたようだ。

 確かに、この世界に来てから見た限り、刀と言えば片刃の剣のようなもので、蕃旋が持っている日本刀のような繊細な反りのあるものは珍しい。

 急に話を振られた蕃旋は肩を揺らして刀に目を落とした。

「あぁ……これは我が家に受け継がれたもので……」

「見せてくれぬか」

 黒零の言葉に、蕃旋の表情が曇る。見せたくないが断る術がわからないといった様子を見て、私は助け船を出した。

「黒零様、我々の武器は黒零様をお守りする為のものでございます」

 多少詭弁ではあるが、世界の狭い黒零になら通用するだろう。

「いつ何時必要になるかわからぬもの。手放す事は黒零様を危険に晒すことになります」

「そうか。わがままを言った。赦せ」

 良くも悪くも執着心の無さそうな黒零はあっさりと引いた。蕃旋が肩の力を抜く。

 私は急須の茶を湯呑みに注ぎ、盆に載せて黒零の前まで運んだ。

「どうぞ」

「ああ」

 黒零が湯呑みを受け取り、香り高い茶に口を付ける。

「旨いな。吾よりは鴻宵の方が上手いようだ」

 黒零が笑った。私も軽い笑みを返す。それを見た黒零が驚いたように目を瞬いた。

「……鴻宵」

 黒零が何か言おうとした時、扉の向こうから声がした。

「冒将軍の配下、都洋でございます。将軍の使いで参りました」

 黒零の顔がさっと曇った。またか、と小さく呟く。

「入れ」

 黒零がそう応じたので、私と蕃旋は黒零の後ろに控えるように立った。


 扉が開いて、壮年の男が黒零に礼をする。黒零はまた元のように退屈そうな目をしていた。

「警護が変わったようですな」

 会話の糸口を探してか、都洋がそう言って私と蕃旋を見る。私の顔の上に数秒留まった視線に、私は表情を動かさないように努めた。


 気づかれないようにしなければ。

 この男は私の顔を知っているのだ。と言っても総華絡みではない。それよりずっと前、私がこの世界に来て初めて名を知った人間が、他ならぬこの都洋なのだ。

 従って、下手に思い出されると女だとバレる恐れがある。

 都洋は暫し訝しげに私を見ていたものの、思い出すには至らなかったようで黒零に目を戻した。

「先日の件ですが、未だお気持ちは変わりませんか」

 都洋が言うと、黒零は眉をしかめた。

「何度来ても同じだ。吾はまだ娶嫁など考えておらぬ」

 娶嫁って……え、用件って結婚の話?黒零はまだ十五だと言っていたけれど……そんなものなのか?

「そうは仰いますが璃氏様には王家の血をお残しになる責務がございましょう」

 淡々と言う都洋に、何だか嫌な気分になる。

 そんな言い方は無いだろう。まるで本当に黒零は王家の血を伝えるだけの道具みたいだ。黒零だって人間なのに。

 以前遭遇した時の対応から見て都洋は冒溢よりはずっと常識家だと思っていたが、冒溢の指示に諾々と従っている辺りがやはり気に食わない。

「まだ早い。冒溢の娘もまだ十二ではないか」

「じきに適齢になりますし、婚約の時期としては早くはございません」

 ……相手は冒溢の娘なわけ?まあ冒溢の年齢から考えるとそのくらいの娘がいてもおかしくはない。ないのだが……

 あいつ、自分の娘と同じくらいの歳の子に手を出そうとしてたのか。もっとも総華の場合、実年齢は遙かに上だけど。

「とにかく、吾はまだ結婚を考える気は無い」

「ですが冒将軍は……」

 断固拒否する黒零に、なおも都洋が食い下がる。黒零は鬱陶しげに手を振ると、私に目配せをした。

 そこで選ぶのは私なんですね。

 まぁ蕃旋は明らかに向いていないけれど。

 視線で指示を受けた私は黒零の意を汲む形で一歩前に出た。黒零自身はさっさと無視を決め込む。

「お下がりください、都隊長」

 都洋の地位については耳にしていた。

 峰晋の屋敷に居れば、昏軍の内部の常識は大抵耳に入ってくる。冒溢の所業も色々と聞き及んでいて、少し後悔しているところだ。何をって、冒溢にたった二発の蹴りしか入れなかったことをだ。今度機会があったら叩きのめしてやる。無いだろうけど。

 逸れた思考を切り替えて、都洋と相対する。

「璃氏様の御意志はお聞きの通りです」

「これは璃氏様の御為なのだ。璃氏様、冒将軍は……」

 更に黒零に言葉を投げかけようとする都洋の視線を遮るように、私は体を滑り込ませた。都洋が鋭い眼光を私に向ける。

 本当ならこんなわざわざ顔を晒すような真似はしたくないが、今はこれが仕事だから仕方ない。

 私は都洋に飽くまで平静な目を向けた。

「璃氏様にはもう話す事は無いそうです。押し売りは頂けません」

 都洋がむっと眉宇に不機嫌さを滲ませる。

「押し売りとは聞き捨てならんな。冒将軍は璃氏様と姻戚を結び、後ろ盾になって差し上げたいと仰っているのだ」

 利用の間違いだろう、と内心毒づくが、決して口には出さない。

「しかし璃氏様は拒んでおられます」

 どこまでも丁寧に、穏便に反論を続けるというのは案外疲れるものだ。

 一言一言、暴言にならないように吟味しながら言葉を舌に乗せていく。

 これが蕃旋だったらとうの昔に暴走しているだろう。

「璃氏様とていつまでも籠の中の鳥でいるのはお嫌だろう」

 都洋の言葉に黒零が肩を揺らすのを気配で感じる。しかし口を挟む隙は与えずに、私は言った。

「籠の中にいれば猫に食べられる心配はございませんので」

 猫って言うより豚か何かな気もするが。

 私の言葉にとっさに反論出来ない都洋に、私は丁重な物腰で出口を示した。

「お引き取り下さい」

 都洋は悔しげに口を引き結びながらも、礼をしてから部屋を出て行った。


「……やるな」

 呟いたのは蕃旋だ。私は軽く息を吐いて、黒零の前の卓に置かれた空の湯呑みを下げた。

「度々ああして婚姻の話を?」

「そうだ。冒溢はどうあっても吾の血が欲しいらしい」

 黒零が不愉快げに鼻を鳴らす。

「いくら籠から出られても、冒溢の手の内はごめんだ。吾はあの男が気に入らぬ」

 執着心の無い、従って嫌う心もあまり強くないだろう黒零にここまで言わせるのだから、いっそ見事と言うべきかも知れない。

「何かあったの……ですか」

 明らかに一瞬タメ口をききかけた蕃旋が言葉を改めながら問う。黒零は頬杖をついた。

「何か有ったか……と言われれば何も無いのだが」

 つまらなそうにしていた顔を僅かにしかめる。

「どうも受け付けん。あの男、時に街から娘を拐かすというではないか」

 心当たりが有り余るほどに有る私は内心苦笑するしかなかった。

 どうやら冒溢のあの行き過ぎた好色さが黒零は生理的に駄目らしい。

「ああ……そういえば今病と言って朝廷に出ないのも、実はその事に関係してるって噂がありますね」

 蕃旋が思い出したように言う。黒零が軽く眉を上げた。

「と言うと?」

「その噂によれば、さらわれた女の子を取り返しに来た男に強かに蹴られたとかで」

 蕃旋が答えるのを聞きながら、私はあらぬ方向に視線を泳がせていた。事が事だけに冒溢は必死になって隠しただろうに、既に噂になっているとは。

 話を聞いた黒零が声を上げて笑う。

「それは良い。少しは懲りたであろうか」

「だといいですけどね」

 蕃旋は曖昧に言った。

 うん、私もあれはそう簡単に懲りないと思う。

「その勇気ある男はどうなったのだ」

「捕まってはないみたいです……河に身を投げたとか」

 蕃旋が答えると、黒零は表情を曇らせた。

 河に飛び込んだのではまず命は無い。痛快な事をした者の末路を哀れんだのだろう。

 もっとも、実際には飛び込んでなどいないのだけれど。


 会話が途切れたタイミングを計って、私はお茶を淹れ直した。

 そのまま穏やかに時が過ぎていく。退屈だが平和な一時。


 それがかりそめのものだと、私はまだ気づいていなかった。

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