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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之陸 氷雪の国
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その頃、翠にて

 鴻宵が峰晋邸に入り込んだ頃、紀春覇は碧の都、(すい)を歩いていた。王族の一員としては放胆な事に、供回りを引き連れていない。章軌すら、今は側に居なかった。ただ一人、それも町娘と変わらない衣服を纏って、春覇は街を見回っている。

 時折、春覇はこうして城下に出ることがあった。名目は街の視察である。勿論実際に街の実状を見て回っているのだが、それ以上に春覇にとってこの時間は一人でぼんやり出来る貴重な時間でもあった。


 翠は活気に満ちている。

 東方に位置する碧の領土は豊かであり、農業に適している。そのたっぷりと実った作物が市に出回り、街に暮らす人々や各国の商人が買い付けに来ているのだ。

 農業が盛んな碧に対し、特に土地が貧しいのが昏である。領土面積は広いものの、何しろ氷雪に閉ざされた国だ。全土の生産高を合わせても碧のそれには遠く及ばない。だから昏は侵略戦争を多く繰り広げ、軍事が盛んだ。山に恵まれた土地柄から、輸出品は主に毛皮や木材である。

 紅も、農業生産力は高くない。気温が高く乾燥した領土には砂漠が多く、農耕に使える土地は僅かだ。彼の国の経済を支えているのは南方の海辺で盛んに採られている塩と、高い技術で繊細に作られた織物である。

 白の生産力はその二国程低くはないが、やはり寒冷な土地が多く、穫れる作物は限られている。しかし白には大きな強みがある。鉄である。白の領土には豊かな鉄の鉱脈があり、加工技術も高い。この戦乱の世の中で、鉄を握る事は武器を握る事となり、重要なのは言うまでもない。

 そしてそれらの国の産物を融通して成り立っているのが橙である。領土が最も狭く、しかも妖魔に脅かされているこの国では大した生産は望めない。ただ大陸の中央部に位置する為に交通の要衝となっており、大商人庵氏を始めとする商人達が多く集まっている。


 そんな状況下で、碧の都の市では、当然のように様々な作物が並べられ、取引されていた。

「さぁ買った買った!安いよ安いよ!」

「こんな珍しい果物、他には無いよ!」

 売り声が飛び交う。

 春覇は左右に視線を流しながら、黙々と歩みを進めていった。見たところ、特に異状は無い。常と違う事があるとすれば、それは春覇自身の胸の内だった。


 現在、碧の朝廷は二つに割れている。

 紅に戦を仕掛ける事を主張する強硬派と、それに待ったを掛ける慎重派の対立である。

 その発端となったのは、同盟締結のため白に出向いていた太子がその帰路で襲撃を受け、一行が全滅したという事件だ。

 碧としては当然、紅に事実関係の調査と遺体の回収、返還を求めたが、紅からは梨の礫である。その結果、怒った強行派が出兵を主張し、対立が生まれた。王の体調が思わしくなく朝議に出られない事も、それに拍車を掛けている。決定を下す人間が居ないのである。

 春覇はどちらかというと慎重論をとっている。情報は流れてきたものの、事実関係は未だ解明されておらず、下手人が誰かもわからなければ太子の遺体も確認されていない。

 何より、春覇には太子の死が信じられないのだった。

 太子は文武に秀で、物腰も穏やかだと評判が高い。彼は春覇が心から敬愛している唯一の人物なのだ。それが異国の地で暗殺されるなど、春覇には思えなかった。正直な心情を言えば、今すぐにでも紅に乗り込んで紅王に剣を突きつけてでも事実を問い質したい。しかし春覇の冷徹な理性が、そんな感情を抑えて冷静に状況を見させていた。

 今紅と戦をする事は得策ではない。大義名分はこちらにあるが、この一件の裏には白の意向が働いている可能性がある。だとすれば、紅との戦は白に漁夫の利を与えかねない。ただでさえ、碧は昏とも緊張関係にあるのだ。


 そうした難しい状況下にあって、春覇は少し疲れていた。ふらりと街の視察に出てみたのは、気を紛らわせる為でもあったかもしれない。


 煮詰まった頭を整理しようと深く息を吐いた春覇の耳が、何とも脳天気な声を拾った。

「おばちゃん、頼むからその苫果一個頂戴。俺行き倒れそうなんだよ」

 懇願するような言葉はしかし、どこか滑稽だ。

 目を向ければ、若い男が胃の辺りを押さえながら果物屋に強請っている。

「銭はあんのかい」

「有ったらこんな風に頼まないっしょ」

 あっさりと言う男に、果物屋は溜息を吐いた。

「あんたね、銭が無いならやれないよ。こちとら商売なんだ」

「え~、俺もう三日も何も食ってないんだよ?心泉から歩き詰めでやっとここまで辿り着いたのに!」

 言葉の通り、男の衣服の裾は汚れ、顔も少し窶れているようだ。しかし男の言動に悲壮感は無い。

「一個でいいから!俺苫果大好物なのにもう何百年も食べてないし」

「何百年?ふざけた事言ってんじゃないよ、十五やそこらの餓鬼のくせに。ほら、銭が無いならそこどきな」

「おばちゃん、俺一応もう十六歳」

 傍観していた春覇でも呆れてしまう程に、あまりにも自由な男だ。ここまでくるといっそ貴重かも知れない。

 自分とは天と地ほどに違う、と目を逸らしかけた春覇は、ふと違和感に気づいた。じっとその男の周囲を見る。

 精霊が、やけに集まっている。

 そのくせ、集まっている精霊の種類に偏りが少ない。方士ならば、相性によってかなりの偏りが出る筈だ。

 妙に思った春覇は、過去に一人だけ、同じように精霊を集める人間に出会った事に思い当たった。

「そこのお前」

 気づいた時には、声を掛けていた。

「そんなに欲しいなら私が金を出そう。その代わり、少し話を聞かせてくれ」

 春覇が言うと、驚きを露わにした男はやがて笑みを浮かべて頷いた。

 栗色の髪に黒い瞳の、捉え所の無い男だった。



 春覇は男に苫果を数個買い与えると、話をしても邪魔にならない路地に入った。男は三日食べていないと言っただけあって空腹らしく、早速苫果にかじり付いている。

「お前……」

「む、ちょい待って、まず食わせて」

 春覇の言葉を遮ってそう言うと、男はそこにあった木箱に座って言葉通り一心に苫果を食べ始めた。春覇は仕方なく男が腹を満たすのを待つ。

 男が最後の一つを手にした時、路地に足音が響いた。春覇が反射的に目を向けると、あまり柄の良くない遊び人体の男が三人、春覇を見て口笛を吹く。

「こりゃあ近頃見ない別嬪さんだぜ」

「ついてるな」

 野卑な物言いに、春覇は眉を寄せた。

 無論、普段の春覇ならこんな無礼な態度を取られることは無い。だが街の視察に出た時にはしばしば遭遇する事態だった。

 都といえど、一歩裏道に入れば治安はあまり良くない。仕方なく、春覇は身構えようとした。

「なんか古典的だねぇ」

 間の抜けた感想を漏らしたのは、ようやく人心地付いたらしい男である。最後の一つとなった苫果を片手で投げ上げて遊びながら、頬杖をついて男達を見ている。

「何だぁ?てめぇ」

「餓鬼はすっこんでろ」

 男達が凄むが、彼は意に介した風も無くにこりと笑った。

「ま、久しぶりだし、肩慣らしって事で」

 呟くと、中空に目を向ける。笑みを浮かべたまま、言った。

「遊んであげなよ」

 次の瞬間、風精霊達が歓声を上げて男達の足を掬った。わけもわからず転倒した男達を更にわいわいとつつき回している。春覇は目を見開いた。

「お前……」

 振り返ると、男は悠々と最後の苫果をかじっている。

「お前、方士か」

 男は目を細めた。

「そう言う君も方士だね」

 警戒を全面に出す春覇とは対照的にのんびりと苫果を平らげると、立ち上がって伸びをする。

「ごちそうさま。やっぱ苫果は旨いね~」

 へらりと笑う男の意図が読めずに、春覇は黙って目を据えていた。男が困ったように笑う。

「そんな怖い顔しないでよ。俺そんなに怪しい?」

「怪しくないわけがあるか」

 散々風精霊に遊ばれた男達が逃げていくのを横目に見ながら、春覇は固い声で断言した。男がまた苦笑する。

「参ったな……俺はただ人を捜してるだけなんだけど」

 そう言って、頬を掻いた。

「人を?」

 春覇が聞き返すと、こくりと頷く。

「そう、人捜し。君さ……」

 一歩、二歩。

 春覇に歩み寄って、男はにこっと笑った。


「神凪灯宵って、知ってる?」

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