前夜
灯火に照らされた部屋に沈黙が降りる。
その場に居るのは私と函朔、そして私と向かい合って腕を組んでいる庵覚の三人だけだった。
「……なるほどねぇ」
沈黙を破ったのは、庵覚だ。私の申し出た頼み事に、一応の理解を見せる。
「確かに策としては有効な手だ。だが危険も大きいね」
いつも浮かべている飄々とした笑みが、苦みを帯びていた。
「俺達は商人なんだよ。商人は利益が無いと動かないもんさ」
もっともな理屈に、私は拳を握り締める。
十分な対価を見つけられないまま、ここへ来てしまった。
「わかっている……俺に出来る事なら何でもするつもりだ」
私が言うと、庵覚は顎に手を当てた。
「と言ってもねぇ……」
私が出来る事はそう多くない。庵覚が渋るのも当然だった。
「頼む」
私は床に手をつき、頭を下げた。
時間が無い。
早くしなければ、総華がどんな目に遭うかわかったものじゃないのだ。
他に良い方法が思いつくわけもなかった。
「……荷に子どもを紛れ込ませるってのはねぇ……兄者に気づかれずにやるのは一苦労なんだよ」
庵覚が言う。
私が頼んだのは、救出後の総華の身の安全の確保。庵氏の荷に紛れ込ませてなんとか橙まで送り届けてしまえば、あとは鴻耀がうまく計らってくれるだろうという魂胆だ。
「それにね……子どもの方は荷に紛れ込ませるとして、お前さんはどうするんだい」
さすがに護衛に入れるのは露見する危険が大きすぎる、と言われて、私は頷いた。
「俺の事は別に方法を考えてある。とにかく、総華を頼みたいんだ」
この際碧でなくてもいいから、一刻も早く国外に出してしまわなければならない。聞く限り、昏の国内で冒溢の手から逃げきるのは無理がありそうだ。
私一人なら手はある。だが総華を庇い通すのは難しいのだ。
「お前さんの腕は気に入ってるし、鴻耀とも縁があるしねぇ……」
暫し考え込んでいた庵覚は、よし、と膝を打った。
「こうしよう。今回の事は貸しにしとくよ。後日返して貰う」
それが相当の譲歩の末に下された決断である事を感じ取って、私は深く頭を下げた。
「ありがとう」
「安くはないよ。荷の護衛なら一月程ただ働きだね」
高っ。
さすが商人、抜け目は無いようだ。
「庵氏がツケにしてくれるなんて前代未聞だ。運がいいな」
函朔が感心したように呟く。
私はもう一度庵覚に頭を下げると、早速打ち合わせにかかった。
「そうだ、鴻宵」
話し合いを終えて私が立ち去ろうとした時、函朔が私を呼び止めた。
「これ」
言いながら、腰に提げていた剣を解いて差し出す。
私は目を見開いた。見覚えのある剣だ。柄には琥珀色の佩玉が揺れている。
「これは……」
「お前の剣。……親父から、預かってきた」
それは間違いなく、私が鴻耀に与えられ、白で捕らえられた際に失った剣だった。
「……ありがとう」
礼を言って、私は剣を受け取った。佩玉がきらりと光る。
新しい剣を持ってはいるけれど、この剣が手元に戻ってきて良かった。
佩玉は土精霊の媒体だし、何より私が初めて手にした、始まりの剣だ。
「お前の連れの子、必ず助け出そうな」
剣を眺める私に、函朔がぽつりと言った。
「俺はお前に、出来うる限りの力を貸してやりたい」
真面目な顔で呟かれて、私は苦笑を浮かべる。
「ありがとう。……お前には、助けられてばかりだ」
函朔は一瞬何かを言おうとするような素振りを見せたが、口を噤んで笑い、軽く首を振った。
「俺が望んでやってる事だし。気にしなくていい」
私の頭に手を乗せ、ぐしゃぐしゃと撫でる。
「わ……っ?」
「死ぬなよ、鴻宵」
思いの外重く響いた函朔の言葉に、私はしっかりと頷いた。
「冒将軍、都隊長がお見えです」
「通せ」
夜分の訪問は、普段なら追い返すところだが、今都洋には一つ命令を下してある。
その首尾を報告に来たのならば聞いてやっても良い、と冒溢は大きな体を椅子に沈めた。
「夜分に申し訳ありません」
「構わぬ。首尾はどうじゃ」
急かす冒溢に、都洋は一瞬言葉に詰まり、目を泳がせた。
「何じゃ、まだ捕らえられぬのか」
それを不首尾と見た冒溢が声音に不機嫌な色を滲ませる。都洋は否定を口にした。
「既に我が手中に……しかし将軍、厄介な事が」
「何じゃ」
訝しげに問う冒溢に、都洋は躊躇いがちに告げる。どんな反応が返ってくるか、今一つ読み切れないのだ。
「あれは……あの少女は、狐狼でございます」
天帝からの罰として、生まれながらにその身に負った枷。
人が忌み嫌う種族の少女を、近づけて良いものかどうか。
都洋の言葉を聞いた冒溢は、見開いた目を瞬かせた。
「狐狼……じゃと」
「はい。この目で枷を見ました」
頭を深く下げたまま、都洋が言う。冒溢は暫し思案した。
彼としても予想外だったのだ。よもや狐狼が町中で人間に紛れていようとは。
「面白い」
沈黙の後に冒溢が漏らした言葉に、都洋は思わず顔を上げた。
「面白いではないか。狐狼を我が物にするなどそう機会のあることではない」
冒溢はそう言って、にやり、と笑みを浮かべる。
都洋は内心眉を寄せた。この将軍の発想は、やはり好きになれない。
「連れて参れ」
「……では明日にでも」
拝礼しながら、都洋はそっと溜息を吐いた。
決行は明日の夕刻に決まった。
出来ればもっと早く助けたいという思いはあったが、庵覚達の方にも段取りというものがあるし、私も総華の居場所や侵入経路を探らなければならない。
首巻きに顎を埋めて顔を隠しながら、私は市を歩いた。雑貨の類を扱う一角で足を止める。
「その仮面を」
策は虚実を弄するもの。真実を隠すもの。
別の店で、私はやや大きめの衣服と布、それから蓑を買った。
虚を実と見せ、実を虚に見せかける。
化かせるか、否か。
賭の始まりだ。
都洋の屋敷の一室に軟禁されて独り夜を明かした総華は、翌日になるとまた輿に乗せられてどこかへ移された。揺れる輿の中で、ぼうっと虚空を眺める。
鴻宵は、心配してくれているだろうか。それとももう、諦めたか。
「諦めそうにはないね……」
呟いて、総華は微かに笑みを浮かべた。彼ならきっと、助けだそうとしてくれるだろう。
でも、危険な目には遭って欲しくない。
揺れる思いを抱えた総華が目にしたのは、広大な屋敷だった。
「降りろ」
促されて輿を降りると、総華を送ってきた男は彼女を屋敷の侍女らしき女に引き渡し、さっさと帰って行った。
「ついて来なさい」
女は冷たく言って、総華を奥へと連れて入る。広間のような場所に、沢山の女達が集まっていた。
「まぁ、みすぼらしい」
「どうして将軍はあんな子を……」
「見て、あの枷。狐狼よ」
口々に囁き交わされる蔑みの言葉。どうやら彼女達はこの屋敷の主たる将軍に仕える者達らしい、と総華はぼんやりと思った。
正直、そんな事はどうでもいいのだ。
悪意を持って囁かれる言葉も、久々ではあるが慣れている。
ただこれからどんな目に遭わされるのか、鴻宵が危険に飛び込んで来はしないか。それだけが気に掛かる。
「将軍は夕刻にお戻りになるわ。それまでここでおとなしくしていなさい」
嫌悪も露わに言われ、総華は辺りを見回す。居並ぶのは着飾った女達。こちらに向けられる視線は、どれも剣呑なものばかりだった。
「そこな小娘」
一際飾りたてられた女が、扇で総華を指す。
「そのみすぼらしい形は何とかならぬのか。そのような格好で将軍に見えようなど許されぬ事」
「けれど艶妃様、ここには子犬に合うような衣裳はございませんわ」
くすくすと嘲笑いながら、傍らの女が言った。
「いっそのこと何も着ずにお目見えしたらいかが?」
「あら、貧相すぎて将軍に失礼ですわよ」
女達の笑い声が部屋に満ちる。
嫌な声だ、と総華は思った。
思いながらも、総華の表情は動かない。石氏の一家や己凌、鴻宵達と居た時には笑顔を絶やさなかったその顔は、今は見る影もない無表情だった。
「何てふてぶてしい子かしら」
嘲っても貶しても眉一つ動かさない総華に、女達が苛立ちを見せ始める。一人の女が投げた扇が、総華のこめかみに当たった。それでも、総華は顔をしかめる事すらしない。
蔑みには慣れている。
石氏に保護される前は、それが日常だった。だから、心得ている。
閉じてしまえばいいのだ。
何も感じないよう、心に蓋をしてしまえばいい。そうすれば、痛くない。
しかしそうして心を閉鎖しかけていた総華の耳に、異質な声が届いた。
「やめておやりよ。まだ子どもじゃないか」
同時に、腕を掴んで引っ張られる。
「おいで。あたしと一緒に居よう」
女達が何やら喚くのを意に介さずに腕を引いていく女の背を、総華は呆然と見上げた。
とても細い女だ。痩せているというよりは、やつれていると言った方が正しい。
女は総華を部屋の隅に連れていき、隣合うように座った。女達はまだ罵声を投げつけていたが、取り合わないでいるとやがて飽きたのか無視を始めた。時折突き刺さる視線や耳をかすめる罵り声はあるが、危害を加えられる事はない。
「……ありがとう」
総華が言うと、女は寂しげに笑った。
「あたしにはこのくらいしかしてあげられないけどね……可哀想に、こんなに小さいのに」
総華の手を取って、目を伏せる。総華は彼女の顔を覗き込んだ。
「あなたも、さらわれたの?」
問いかけると、女は頷いた。
「市で買い物してた時に目をつけられちゃってね……」
悲しげに首を振り、総華の頭を撫でる。
「もう旦那に合わせる顔も無いよ……」
それは泣きそうに小さな声だったが、女は泣かなかった。総華は眉を下げ、女の手を握り返す。
「私ね、総華っていうの。あなたは?」
女は小さく笑った。
「桃。預桃だよ」
「預桃さん……」
総華は握った手に力を籠めた。他の女達に聞こえないように声を潜めて、囁く。
「大丈夫。きっと、旦那さんは待ってるよ」
勿論、根拠らしい根拠は無い。しかし、この純朴な預桃が伴侶に選んで、こんなにも切なげに語る相手ならきっと待っている筈だ、と総華には思えた。
「絶対、鴻宵が助けに来てくれるから」
そうしたら、一緒に逃げよう。
総華の言葉に目を見開いた預桃は、すぐに泣きそうに顔を歪めて総華を抱き締めた。
「馬鹿言っちゃいけないよ」
細い肩が震える。
「助けになんか来たら、殺される。ここには兵隊がたくさんいるんだよ」
「大丈夫」
預桃の背中をさすりながら、総華はきっぱりと言った。
「鴻宵は強いのよ。必ず、助けてくれる」
預桃は総華の肩に顔を埋めて、啜り泣くばかりだった。
風精霊に総華の居場所を探らせるのは存外簡単だった。
皮肉な事だが、総華が狐狼だという事が幸いしたのだ。精霊に固有名詞を言っても特定してはくれないが、狐狼ならば彼らにもわかる。彼らは狐狼には近づかないのだから。
私は傍らの鳥の足に、最終的な計画を記した紙を括り付けた。
この鳥は、庵覚から借りたもの。初めて会った時に庵覚が肩に乗せていた、あの鳥だ。よく訓練された賢い鳥で、庵覚は普段から伝書鳥として使っているらしい。普通よく使われる伝書鳩と違って猛禽類だから、かなり迅速な伝達が可能だ。その代わり、庵覚以外には懐かないそうだ。
「行け」
短く言って鳥を放った私は、空を見上げた。
総華、私が行くまで、どうか無事でいてくれ。




