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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之陸 氷雪の国
56/76

雪の夜に

 その後総華に大まかな事の次第を話し、朝食をとって出発した。


 全く、人騒がせな男だった。

 そういえば名前を聞いていないけど……まぁ、どうでもいいか。


 相変わらず険しい山道を進む。実のところ、街道よりはこちらが近道らしい。が、歩きにくいので滅多に人が通らないというのが実情だろう。


 何事もなく旅は進み、また夜になって山中で野宿をした。また交代で見張りをする事になり、私が先に眠る。


 悪夢は見なかった。


「己凌」

 交代する時に、私は言った。

「迷ってないって、どういう事なんだ」

 己凌があの男に言った言葉。きっとそれは、そのうちわかると私に言ったあの言葉とも関係がある。

 眠る体勢に入っていた己凌は、僅かに視線を上げた。

「そのままの意味だ」

 静かに、言う。

「たとえどんな罪を抱えても、傷を負っても……自分の進む道を信じる。その、覚悟だ」

 自分を責めても変わりはしない。進むしかない。そう、己凌は言った。

「誰も傷つけずに歩ける程、俺の道は生易しくないからな」

 その言葉は、私の胸に深く突き刺さった。


 私が選ぶ道は、きっと誰より険しい。

 それに見合う覚悟が、私にはあるのか。


 夜の底で、私は一人鬱々と考えていた。




「……まずいな、これは」

 溜息混じりに呟いた己凌の息が真っ白に色づいて滞る。暗灰色に塗りつぶされた空からは、白い欠片がひらひらと落ちて来ていた。

「わぁ、雪」

 総華は目を輝かせて掌に雪を受けているが、こちらの二人は渋面を作っていた。

「雪となると野宿はきついな」

「だがまだ次の街までは遠い」

 私の呟きに返しながら、己凌が簡素な地図を広げる。

 次に近くを通過する予定の街は、昏の都、虚。そこまではどう頑張っても一日では行けない距離だ。

「何とか凌げる場所を探すしかないな……」

 苦みを含んだ己凌の言葉を嘲笑うかのように、雪は強さを増していった。



 その日の行程は、風が出てきたので馬を下りて歩いた。最初のうちは湿った土だった足下が、次第に白くまぶされていく。時折吹き付ける雪を木の陰に入ってやり過ごしながら、私達は慎重に歩みを進めた。当然、旅程は遅々として捗らない。

「もう夕刻だ。まずいな」

 手を顔の前に翳して視界を守りながら私は呟いた。雪が止む気配は無く、気温も冷え込んできている。

「せめて風雪を凌げる場所を探そう」

 一歩先を進む己凌が言う。その姿すら白く霞む程に、雪は密度を増していた。

「はぐれるな」

 私は総華の手を掴んだ。総華が一瞬びくりと肩を揺らす。嫌だったかと手を離そうとした私は、総華が手首の枷を気にしている事に気づいた。一瞬躊躇ってから、強く握り直す。

「もう怖がらなくていいよ」

 私はそっと言った。

「こんな枷、いつか俺が必ず外してやる」

 真っ直ぐに総華の瞳を見ながら誓うと、総華は目を見開き、それからくしゃりと顔を歪めた。

「行こう。何処か良い場所を見つけないと凍えてしまう」

 歩みを速める私の手を、総華もしっかりと握り返してきた。


 暗くなってしまえば一巻の終わりだ。

 雪の向こうに目を凝らしながら歩いていた私は、己凌の声に目を戻した。

「あそこだ」

 私に指し示すと、すぐに己凌は方向を変えてそちらに歩いていく。従って行きながらよくよく見れば、岸壁に深い洞窟が口を開いていた。

「よかった……」

 なんとか、風雪を凌ぐ宿を見つけられた。その事に安堵してそのまま洞窟に入ろうとした私を、己凌が制した。

「不用意に入るな。獣がねぐらにしてるかも知れない」

 言いながら、裘の内側に入れていた剣を取り出す。

「俺が様子を見に入る。馬を頼む」

「でも……」

 手綱を渡されて、私は戸惑いの声を上げた。

 一人で探りに行くなど、どう考えても危険だ。中にどんな獣がいるかすらわからないというのに。

 だが懸念を込めた私の言葉は、己凌の一瞥で崩れさる。

「いいからそこにいろ。他に手も無いだろうが」

 そう言い捨てると、己凌は剣の鞘に左手を添えながら洞窟に入って行った。私は馬の轡を取り、総華と共に樹陰に入って風と雪を凌ぐ。

「己凌、大丈夫かな……」

 総華が不安げに呟いた。私はその肩を安心させるように軽く叩きながら、じっと洞窟に目を凝らす。


 時を置かず、風の音に混じるように咆哮が聞こえた。

 私がはっとするよりも早く、己凌が洞窟から後ろ向きに跳び退って出てくる。その目は洞窟の中の存在をじっと見据えていて、手には既に鞘から抜いた剣が握られていた。その己凌を追うように、のっそりと獣が姿を現す。


 虎だ。


 雄躯を持つその虎は、前に立つ己凌に向かって牙を剥いて唸っている。己凌が油断無く腰を落とし、剣を構えた。

 虎が低い声を立てながら一歩踏み出す。己凌が水平に刃を持ち上げる。刺突の構えだ。


 ――いいの?


 不意に頭の中に声が響いた気がして、私は肩を揺らした。

 沸き上がるように、疑問が浮かぶ。

「いいの?」

「いいの?」

 周囲の吹雪に紛れて漂う木精霊達も、口々に言い始めた。


 これでいいのか。

 あの虎を殺していいのか。


「鴻宵?」

 総華が戸惑ったように名前を呼ぶが、応えてやる余裕もなく私は考え続ける。


 あの虎はあの洞窟に暮らしていた。私達はそこに通りかかり、吹雪を避けようとして虎に遭遇した。

 私達はあの洞窟に泊まらなければ凍え死ぬことになるだろう。

 虎は人間にとって危険な獣だから、自分達の安全の為に己凌は刃を向けている。

 だが、虎にとってみれば、いきなり現れた人間が故もなく敵意を向けてきたに等しいのではないか。


「いいの?」

 木精霊がどこか悲しげに囁く。

 私は一歩踏み出した。

「そこにいろ」

 総華の肩を叩いてそう言うと、虎と己凌に歩み寄る。

「何してる。下がってろ」

 己凌がこちらに目を向けずに言う。それを無視して、私は虎に近づいていった。

「鴻宵!」

 己凌が咎めるように私を呼び、虎の視線がこちらに向いた。その地点で、私は足を止める。

「お前を傷つけに来たわけじゃない」

 虎の目をまっすぐに見てそう告げながら私が掌を前に出すと、ひょいと木精霊が乗った。

「命ある我らが同胞」

 木精霊と波長を合わせるようにして、私は呼びかけた。

 どういうわけか、こうすればきっと伝わるという確信があった。

「吹雪に遭って困っている。宿を借りたいんだ」

 虎の周りにも木精霊がいて、ぴょんぴょんと跳ね回っている。


 虎がじっと私を見て、一歩前に出た。

 また一歩。

 そして一歩。


「鴻宵」

 私の身を案じてか、己凌が声を上げる。私は動じずにただ虎と目を合わせていた。

 虎が目の前まで来る。

 四つ足で立ってなお私の身長ほどもある巨大な虎だ。

 それがゆっくりと牙を剥いて。


 膝を折った。


 割って入ろうとしていた己凌が動きを止める。

「わかってくれたか」

 私が言うと、目の前に伏せた虎は喉を鳴らした。その頭を、そっと撫でてみる。凍えかけた手にはとても暖かかった。

 よしよしと撫で回すと、虎は目を細めて頭をすり寄せた。

「……嘘だろ」

 己凌の呟きが小さく聞こえる。私はようやく振り返った。

「元々敵意は無いんだ」

 軽く虎の頭を叩く。それを合図に、虎はのそりと立ち上がると歩きだした。洞窟には戻らずに木立の中に消えていく。

「ありがとう」

 その背中に、私は礼を投げた。それから己凌に目を向ける。

「穏便に解決できたみたいだ」

 それが嬉しくて、笑いかける。己凌は一瞬目を瞬いて、溜息を吐いた。

「滅茶苦茶な奴……」

 苦笑混じりに言われて、頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。

「わ……っ」

「中に入るぞ。日が暮れてきた」

 己凌はそう促して、総華の所へ歩いて行った。


 洞窟の中は保温されているのか、外よりだいぶ暖かかった。

 とはいえ吹雪に濡れた身には辛い寒さに変わりは無い。

「この天気じゃ薪も集まらないしな……」

 外を覗きながら眉を寄せる己凌をよそに、私は紙包みを開いて髪の毛の断片を地面の一カ所に落とし、手近な炎精霊をせっせと捕まえてはそこに集めた。

「よし、点火」

 私が言うと、燃える物も無いのにぽっと火が点る。己凌が呆れたように私を見た。

「便利なことだな」

「皮肉るな」


 自分でも時々思うけど。


 私は裘を脱ぎ、火の側に広げて乾かした。己凌もそれに倣う。

 総華は少し離れた場所で同じように裘を脱いで広げた。

「そんな所にいないでこっちへ来たらどうだ」

 私が声を掛けると、困ったように笑いながら首を振る。

「私が近づくと、消えちゃうから」

 その視線は私の傍らで揺れる炎に向いている。薪も何も無い今、火を燃やしているのは炎精霊の力だ。狐狼が近づけば精霊は逃げ散り、火は消えてしまう。

 総華の言い分を理解した私は口を噤んだ。

 確かにそうなのだ。

 けれどあんな風に独り離れて、この寒い中眠らなければならないなんて。

 眉を寄せた私は、すっと立ち上がると火はその場に置いて総華の側に行った。不思議そうに見上げてくる総華をひょいと抱き上げる。

 ……ひょいと、と形容するにはさすがに苦しかったが。腕力には限界がある。

「こ、鴻宵!?」

 困惑する総華を抱いたまま、私は腰を下ろした。総華を膝に乗せて包み込む。

「これならお互い暖かいだろう」

 じわりと体温が通い合う。私は深く息を吐いて総華の頭に顎を乗せた。ようやく暖まって人心地ついた気分だ。

 和んでいた私に、己凌の呆れ声が突き刺さる。

「端から見ると変態だぞ、お前」

 ……忘れてた。私は男だと思われてるんだった。

「ご、ごめん」

 男がいきなり少女を抱き上げたら犯罪だよ。しまった。

 私は慌てて総華を抱えていた腕を離した。

「……いいよ」

 しかし、総華は逆に私の肩に頭を預ける。

「暖かい」

 そう言って、目を閉じた。私は戸惑いながらも再び総華を抱き込み、暖めてやる。

 やがて寝息が聞こえ始めた。

「随分懐かれてるようだな」

 己凌が感心したように言う。私は頬を掻いた。

「何でかな……ま、悪い事じゃないだろう」

「……まぁな」

 淡い炎に照らされた洞窟の中、ゆったりと夜が流れていく。私は静かに眠りに落ちていった。

「不思議な奴だ」

 そんな呟きが、聞こえた気がした。


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