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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之伍 帰郷
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帰郷

 プールサイドの更衣室の中で、私は髪から滴る水を拭おうともせずにぼうっと宙を眺めていた。

 中津は私の出現と服装に驚いていたようだが、何も問わずに、教室にジャージがあるからと取りに行ってしまった。

 

 帰ってきた。

 戦も無く方士もいないこの国に。

 

 ぐるりと辺りを見渡しても、精霊など一匹もいない。向こうではいつも賑やかだったから、少し違和感がある。

「これが普通、なんだよね……」

 あんな球体もどきが飛び回っている方が非日常だったのだ。私の日常は本来こちら側にあった筈。何の変哲も無く、ただ繰り返す毎日。型にはまった時間の積み重ね。

 それが、普通のあり方。

 

「はい、ジャージ。それとタオル持って来たから、風邪ひかないうちに着替えなよ」

 更衣室の扉が開き、中津がジャージとタオルを持って現れる。私は礼を言って受け取った。

 そういえば、日本語も久しぶりだ。

「中津」

 タオルで髪を拭きながら、私はふと浮かんだ疑問を口にした。

「今って、何月?」

 私が水たまりに引き込まれるという謎の体験をしたのは四月の終わり。まだ長袖の上着を着ていた筈だ。

 しかし、今中津は夏物の制服を着ているし、外では蝉が鳴いている。

「九月七日」

 あっさりと今日の日付を答えて、中津は困ったように笑んだ。

「夏休みも終わった……神凪が消えてから、もう四ヶ月以上、経ったよ」

 返す言葉の見つからない私に微笑を残して、中津は更衣室を出ていった。

 

 髪や体の水気を拭い、中津のジャージとTシャツを身につける。さすがにサイズが大きいが、これまで着ていた服のベルトを使ったり裾を捲ったりすると何とかなった。シャツがだぼつくのは、まあ仕方がないので諦める。幸い重ねた衣服の中にまでは水は通っていなかったので、晒は巻いたままにしておいた。何故かジャージの上着まで有ったが、長袖を着るのはさすがに暑いので着ずに腰に巻く。

 着替えを終えてから、これまで着ていた服を大雑把に畳み、上着で他を包むように纏めた。その包みを持って、外へ出る。

 途端に照りつけるまだ強い日差しと、耳に刺さる蝉の声。

 

 中津の姿を探すと、飛び込み台に腰掛けて水面を眺めている背中が見えた。周囲には最後のひと時を懸命に謳歌する蝉の声が聞こえるだけで、校舎に人の気配は無い。更衣室のカレンダーを見た所によると、今日は日曜日だ。

 

 何で中津はここにいたんだ?

 

「日曜日に何で学校に?」

 側に立ちながら私が問いかけると、中津は指先を水に浸しながら答えた。

「クラスの自主登校日ってやつ。文化祭の準備とかするって言ってたかな」

 まぁ俺はダルいから適当なとこでサボってたら寝過ごしたんだけど、と言って笑う。私はちょっと呆れた。

 中津らしいと言えばらしいが、寝過ごしたって……

「……普通プールって鍵閉まってないか?」

 誰もいないところを見ると、公開しているわけではなさそうだ。中津は喉で笑うと、ぱしゃんと水を跳ね上げた。

「フェンスよじ登るくらい楽勝っしょ~」

 

 こいつ……

 

 私が溜息を吐くと、水遊びにも飽きたのか中津がプールに向いていた体をくるりと回して立ち上がった。そうすることで視界に入った私の姿に、軽く眉を寄せる。

「神凪、上着着て。それに首にタオル巻いといた方がいいよ」

「は?」

 この暑いのに何を、と顔をしかめる私に、中津は苦笑した。

「何があったか知らないけどさ……」

 自分の首をとんとん、と指で叩く。

「ここ……手首も。痣になってる」

 私ははっと手元に目を落とした。牢獄で枷を填められていた部分が擦れて内出血を起こしている。

 しまった、と舌打ちをして、中津の言う通りに上着を着た。

「……何も、訊かないんだな」

 何も言わずに歩き始めた中津の背中に、私はそう呟いた。

 四ヶ月も前に行方不明になった同級生が、いきなりプールから、それも妙な服装で現れたら、誰だって疑問を幾つも抱くだろうに。

 私の声を聞き取って足を止めた中津は、ほんの少しだけこちらに首を回して言った。

「神凪が話してくれるなら、聴くよ」

 私は言葉に詰まった。

 荒唐無稽な話だ。信じて貰える可能性の低い話を打ち明ける勇気が、私にあるだろうか。

「無理しなくていい。整理が付くまで」

 珍しく真面目な声色。何も返せない私に、今度はちゃんと振り向いてにこりと笑う。

「俺、細かい事は気にしないタイプだし。別に神凪にコスプレの趣味があったとしても……」

「違ぁうっ!」

 真剣な雰囲気を粉々に吹き飛ばして馬鹿な事を言い始めた中津に、私は反射的に持っていた荷物を投げつけていた。湿って重くなった衣服の塊が、中津の顔面に命中する。

「いっ……冗談だって~」

「冗談なのはお前の存在だ」

 憤然と言うと、私は中津から荷物を取り返してすたすたと歩き出す。

 フェンスを越えなければ外には出られないので、フェンスの手前で荷物を投げ上げた。外に落ちたのを確認して、手足をフェンスにかける。

「……また一段と男前になったね、神凪」

「うるさい」

 向こうではずっと男として過ごしていたんだ。嫌でもそれに順応した性格になる。……まぁ私の場合、元が元だから何とも言えないかもしれないけれども。

「ところでさ」

 私に続いてフェンスに取り付きながら、中津が思い出したように言った。

「神凪、今からどこに行くつもり?」

「どこって……」

 帰るに決まってるだろ、と言いかけて、私ははっと口を噤んだ。

 私が向こうに行って、四ヶ月。その四ヶ月の間、こちらでは私は行方不明になっていたわけで。況してや、私はあの時、家出同然に世話になっていた伯父の家を飛び出したままだったんだ。

「行き場……無いかも」

「うん。それに……」

 中津が、何やら言いにくそうに口籠る。

 視線で先を促すと、困ったように眉を寄せて、言った。

「なんか、おかしいんだよ」

「は?」

 何が?と思った私は思わず頓狂な声を上げてしまったが、中津は真面目な顔をしている。

「忘れてるんだ」

 意味のよくわからない言葉に、私は眉を寄せる。中津が顔を上げた。

「みんな、忘れてる。何ていうか、まるで、神凪が、最初からいなかったみたいに」

 私は息を飲んだ。

「それは……」

 

 それは、どういう意味?

 現代社会に於いて、私のように存在の薄い人間は数カ月も経てば綺麗に忘れ去られてしまうということなのか。

 

 それとも……?

 

「神凪がいなくなった翌日……誰も、神凪の事を覚えてなかった」

 言いながらフェンスをよじ登ってきて、上りきる前にフェンスの頂に腕を預け、そこに顎を載せる。

「神凪の荷物が消えてて、神凪のロッカーも下足箱も別の奴が使ってた」

 

 まるで最初からいなかったみたいに。

 

 頭がくらりとした。

 私はもう存在しない?いや、もともと存在しなかったのか?この世界に?

 だったら……私は誰?

 

「どういう、こと?」

「わかんないよ。でも、俺は」

 中津が真っすぐに私を見上げる。

「俺は、覚えてたよ」

 たった一人、中津だけが、私がここに存在していたことを証明してくれる。私はフェンスを掴み、じっと俯いた。

 元々、誰かの記憶に残ろうという気すら、私には無かった。でも、こんなにも唐突に、あっさりと存在を消されたという事実は、そう簡単に受け入れられるわけじゃない。

 

 私は、生きてるのに。

 生き抜いて、来たのに。

 

 気づかないうちに手に力が籠もっていたらしく、フェンスがぎしりと音を立てる。その手を、中津の手がふわりと包んだ。

「とりあえず、俺のとこに来なよ」

 うち放任だから、とよく言っていた台詞を口にする中津に、私は黙って頷いた。

 

 

 

 中津の家は、どこにでもある平屋建ての一軒家だった。両親と妹との四人暮らしだという。玄関を上がって一番奥まった部屋が、中津の部屋だった。

「適当に座ってて」

 促す言葉に頷いて、床に座ろうと膝を曲げる。その瞬間、不意に力が抜け、両膝が音を立てて床に打ち付けられた。

「神凪!?」

「……っ」

 目の前が急激に眩しくなり、視界が回る。そのまま前のめりに倒れかけた私の体を、中津の腕が支えた。高い耳鳴りがして、気分の悪さに口元を押さえる。

「うわ、大丈夫?熱が……」

 そういえば、昨日から何も食べていないし、牢獄の環境は劣悪だったし、水に潜ったし、環境は激変したし、精神は不安定だったし……

 倒れて当然だな、とどこか冷静に考えながら、私の意識は明滅する光の中に飲み込まれていった。

 

 

 人の話し声に引き寄せられるようにして意識が浮上する。

 ゆっくりと瞼を開くと、薄暗くなった部屋が見えた。見慣れない部屋。中津の部屋だという事を、数秒掛かって思い出す。緩慢な思考に少し苛立ちながら、私は辺りを見回した。室内に中津の姿は無い。

「だから、入ろうとするなって」

 聞こえた声に視線を動かす。どうやら中津は部屋の戸の前で誰かと言い争っているようだ。

「何よ、何かまずいものでもあんの?」

 相手の声は若干高い。女の子の声……多分、中津の妹だ。

「いやそもそも人の部屋に勝手に入るもんじゃないっしょ」

「だってお兄ちゃん何かこそこそしてるし。洗面器に水とか汲んでくし。絶対怪しい」

 水…そういえばと額に触れてみると、濡れた布巾の感触がした。熱を出した私を看病してくれたらしい。そのお陰か、気分も大分良くなっている。

「何の邪推してんだよ」

「ついにお兄ちゃんにも彼女でも出来たかなって。気になるでしょ、妹としては」

 気にするなよそこは。完全に誤解だし。

 とりあえず身を起こした私は、枕元のスポーツドリンクに気づいてキャップを開けた。仄かに甘い液体を喉に通しながら、二人の口論を聞く。

「完璧邪推だから。気にする事でもないから。こら、開けようとするな」

「そうやってむきになって止めるとこが怪しい」

 これは中津の負けだな。

 妹の誤解ではあるが、その誤解が成立するような状況ではある。遠からずドアが開かれる事を予想した私は、ひとまずこの場を切り抜ける策を立てた。といってもこの短時間で碌な案が浮かぶ筈も無いので、通用するかどうかは賭、という手段に出ざるを得ない。

 私はとにかく上着とタオルで痣を隠し、長めの髪を極力襟に隠した。

「はい、オープン!」

「由利、てめっ……」

 ガチャ、と音を立ててドアが開く。私はベッドに腰掛けてペットボトルを手にした状態でそれを迎えた。

「あ……」

 私が起きているとは思わなかったのだろう、中津が声を漏らす。妹の方も固まっていた。

 多分、私が男か女か判断しかねているのだろう。晒を巻いたままだったのが幸いした。

「……中津?」

 低めの声を意識して名を呼ぶ。それから妹の方を視線で示した。

「……妹さん?」

「あ、うん……」

 中津の妹ってことは中学生だ。私はゆっくりと立ち上がると、妹の前に立った。

「お邪魔してます。俺は神凪灯宵。中津の同級生」

 俺、という言葉がはっきり聞こえるように台詞を紡ぐ。幸い男女どちらでもあまり違和感の無い名前なので、偽名を使う必要は無かった。

「急に体調を崩してしまって……ここで休ませて貰ってたんだ。迷惑かけてごめんね?」

 そう言って眉を下げると、中津の妹はわたわたと慌てた。

「あ、いえっ。こちらこそ済みません。寝てなくて大丈夫ですか?」

「うん、お陰様で大分良くなったよ」

 小さく笑ってみせ、私は中津に目配せした。中津が心得て、妹の襟首を掴む。

「ほら、わかっただろ。神凪は病人なんだよ。出てけ」

「はいはい。あ、神凪さん、お大事に」

 中津には膨れて見せ、私には笑顔を向けて、中津の妹は部屋を出ていった。

 なんか……個性的だな。

「まったく、あいつは……」

 溜息混じりに呟いた中津は、私に目を転じて複雑な顔をした。

「……本当男前になったね」

「放っとけ」

 自分でも呆れてるよ。

 私はふいと顔を逸らすと、再びベッドに座った。その目の前に、中津が皿を差し出す。林檎だ。

「良かったら食べなよ。何か腹に入れた方がいい」

 そういえば、もう丸一日何も食べていないんだった。私は素直に手を伸ばし、瑞々しい果肉をくわえて折り取る。咀嚼すると、甘酸っぱい果汁が溢れた。

 美味しい。

「ところでさ」

 デスクの椅子にひょいと腰掛けながら、中津は少し躊躇いがちに切り出した。

「これから、どうすんの?」

 

 どうする、か。

 

 私は窓の外に目を遣った。

 

 この世界に、私の居場所はもう、無い。

 別にこちらが特に居心地が良かったわけではないし、向こうに居る間、こちらの事を思い出す機会も少なかったと言えばそうだ。

 けれども、ここは自分の生まれた世界。十五年と半年余り、この世界で過ごしてきた。

 ようやく帰って来られたというのに。

 しかも、私はどうすればあちらに行けるのか、その方法も知らない。

 

 どこにも行く場所など無いという事実が、重くのしかかってきた。

「……まぁ、焦ること無いさ」

 黙り込んだままの私を見て、中津が静かに言う。

「暫くここに居なよ。結論がでるまで休んでればいい」

 疲れてるみたいだし、と微笑って、中津は腕時計を見た。

「そろそろ夕飯かな。神凪の分はここに持って来てあげるよ」

 立ち上がって、ドアへと向かう。私は窓の外に目を向けた。

 

 夏の遅い夕暮れ。

 徐々に空が暗くなり、地上は明るくなっていく。

 

 向こうの夜は漆黒だったな、と思い出しながら、私は暫くそうしてぼうっと視線をさまよわせていた。


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