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水鏡五国志 [第一部 星雲之巻]  作者: 子志
章之参 后土の国
27/76

家族

「鴻耀!走ったりして大丈夫なのか!?」

 あまりの無茶に私が叫ぶと、鴻耀は少しだけ振り返って口角を上げた。

「どうもねぇよ」

「そんなわけないだろ!無茶するな!」

 お気楽な答えを聞いた私は思わず怒鳴ったが、鴻耀は涼しい顔をしている。

「鍛え方が違う。それより走れ。このまま突っ切るぞ!」

 言葉通りしっかりした足取りで迷い無く走る鴻耀と、彼に引きずられるように走る私はそのまま大通りを抜け、街の門を出る。暫く街道を走ってから脇道に逸れ、周囲に人の気配が無くなった所でやっと鴻耀は足を止めた。

「はぁ……いきなり何だよ」

 思わぬ所で全力疾走を強いられた私は少し乱れた息を整えながら抗議する。鴻耀は気配を探って追っ手が無い事を確認してからふっと笑った。

「あれ以上巻き込まれると面倒だし、逃げるのが最良だろ……っと」

「おいおい」

 一瞬くらりと頭を揺らしてふらついた鴻耀を慌てて支える。やっぱりいくら何でもあの怪我で走り回っていいわけがない。とにかく一度鴻耀を傍にあった塀に凭れて座らせ、私は丹念に傷を診た。

「骨は大丈夫そうだな……けど、額の出血が酷い」

 もう血は止まりかけているものの、結構な血を失ったらしく鴻耀は少し貧血気味に見える。本当に無茶な事をする奴だ。

「治癒の力とかあればよかったのに……」

 鴻耀の頭に布を巻いて傷口を覆った私は、そう呟いて肩を落とした。自分の播いた種で鴻耀に怪我をさせてしまい、しかも無理をさせてしまったのに、償う事が出来ない。沈み込む私を見て、鴻耀は鼻で笑った。

「このくらい何でもねぇよ。大体お前のせいでもねぇし」

「でも……」

 私は鴻耀に世話をかけてばかりだ。

 そもそもいきなり老人の住処に現れた私を老人が好意で鴻耀に会わせてくれたわけで、鴻耀は老人への義理と親切心だけでこれまで私の面倒を見てくれたのだ。何も知らない私に生活の仕方を教え、剣の稽古もつけてくれた。そりゃ口や態度は悪かったけど、総合的に見て全部私の為に動いてくれたのだという事はわかる。その恩を返すどころか、私は迷惑を掛けるばかりだ。

 そんな事をぐるぐる考えている私を暫くじっと見ていた鴻耀は、不意に溜息を吐いた。

「お前、何か勘違いしてねぇか」

 木の塀に寄りかかって座る鴻耀の前に膝立ちになっている私を見上げながら、淡々と告げる。

「俺はお前に迷惑をかけられたとはこれっぽっちも思っちゃいねぇよ」

 その厚意に甘えるのが我慢ならないんだ。何かを受け取るなら対価があるべきで、そのバランスを崩す事を、私は望まない。

 しかし鴻耀は、いつもの面倒そうな目つきに多少の複雑な光を混ぜて続ける。

「それにな、俺は別に見返りの無い慈善事業をやってるわけじゃねぇ」

 そりゃ最初じじいのとこで話を聞いた時は面倒くせぇと思ったけど、と言って一度目を閉じた鴻耀は、顔を地面に向けて少しだけ瞼を持ち上げた。

「……寧ろ、情けねえと笑われるような事だろうよ」

 意図の汲めない呟き。

 思わず顔を上げて目を瞬いた私に、鴻耀はゆっくりと視線を向けた。

「生きてりゃ、同じ年頃だ」

 何を言われたのか、全くわからなかった。誰の話なのか、これまでの会話との関連は。

 戸惑う私の腕を、鴻耀が掴む。ぐっと引き寄せられて、あっと思う間もなく鴻耀の上に倒れ込む形になった。慌てて身を起こそうとする私を阻むように鴻耀の腕が私を腕ごと抱きすくめ、顎が肩に乗せられた。

「こ、鴻耀?」

「もう十年も前の話だ」

 戸惑いの声は無視され、鴻耀が静かに語り始める。その穏やかな声と、回された腕の他意の無い優しさに気づいて、私はおとなしく話に耳を傾けた。

「俺には家族がいた。父と、母と……十年下の妹」

 過去形の語りが、妙に悲しい。

 意図はわからないながらも静かに聴いている私の肩に頭を預けるようにして、鴻耀は過去を綴っていった。

 

 

 

 鴻耀は家族と共に、橙の都の郊外、霊山から程近い場所にある村に住んでいた。ごく一般的な農民の一家で、年々穫れた作物から税を納め、自分達の食料を確保して余った分があれば都の市へ出しに行く。母は家事の傍ら竹細工やむしろを作っており、それを売りに行くのは鴻耀の仕事だった。

 そんな何の変哲もない農民一家。その中で、鴻耀には異才があった。幼い頃から精霊が見え、共に戯れる事が出来、更には土精霊に護られる。それに気づいた周囲の大人達は鴻耀を仕官に出すように両親に勧めたが、両親は頷かなかった。

「政治や権力は恐ろしいものだと聞く。耀には似合わないよ」

 父はそう言って鴻耀の頭を撫でた。

「ええ、この子は向いていないわ。優しい子だもの」

 母はそう言って鴻耀の肩を抱いた。

 そんな家庭で、鴻耀は育った。妹が生まれると鴻耀は大層可愛がった。年の離れた妹は鴻耀にとって何よりも守らなければならないものになった。

 

 守れると思っていた。

 守る力なら有る。普通の人間にはない、精霊を動かす力が自分にはあるのだから。

 

 月日は流れ、鴻耀は十四歳、妹は六歳になった。

 その日、鴻耀はいつものように市に物を売りに出た後、畑で父の手伝いをしていた。鴻耀の家のような農家にとって、十四歳の少年ともなれば立派な労働力だ。父と二人で農作業をこなしていく様を、畦に座った妹が楽しそうに見ていた。

「お昼にしましょう」

 母の声に、鴻耀は汗を拭いながら振り向いた。家族の弁当を提げた母親が妹の傍に立ち、にこにこと手を振っている。父が返事をし、鴻耀に声を掛けて作業を中断する。畑から出て母や妹と合流し、畦に座って弁当を食べる。

 

 平和で、和やかな風景。

 

 大陸は戦乱の最中にあるといっても、当時は昏と碧や白が小競り合いをする程度で、橙の周囲は比較的安定し、情勢が停滞している時期だった。その為、鴻耀の父も鴻耀自身も、徴兵される事無く安寧な暮らしの中にいたのだ。燦々と照る日の下で、家族と談笑しながら質素だが満ち足りた昼食をとる。

 

 日常の一こまであるそんな時間が、これからも続くのだと、皆信じて疑わなかった。

 しかし父と鴻耀が再び働き始めた午後、柔らかな世界は突然打ち破られる。

 

「逃げてっ」

「え?」

 唐突に緊迫した叫びが鴻耀の鼓膜を叩いた。

「どうした、耀」

 手を止めた鴻耀に不思議そうな目を向ける父を見て、鴻耀は叫び声の主が精霊である事に気づいた。視線を転じると、慌ただしい様子でうろうろする土精霊が目に入る。

「何だって?」

 穏やかないつもの午後にそぐわない精霊達の様子を奇異に感じた鴻耀は聞き返した。

 今、精霊は何と叫んだ?

「逃げてっ」

「ここ、来る!逃げて!」

 口々に叫びながら、鴻耀の袖や裾を引く土精霊達。事態を掴めないながらも何か容易ならざる事が起こっているのだと悟った鴻耀は、父に声を掛けた。

 否、掛けようとした。

 

 突如起こった地響きと轟音、そして吹き付ける爆風に、鴻耀は思わず目を瞑って顔を庇う。恐る恐る目を開けると、そこに見慣れた畑は無かった。一面に麦の植わっていた地面は至る所で裂開し、地層が顔を覗かせている。呆然とその様を見ていた鴻耀の腕が、強く引っ張られた。

「父さん!」

 鴻耀を引きずるようにして走り出したのは父である。困惑の声を上げた息子に、父はぴしゃりと言った。

「ぼうっとする奴があるか。見ろ、妖魔だ」

 はっと父の視線を追うと、畑一区画分を隔てた辺りに異形のものがいた。熊のように見えるが、普通の熊よりは大分大きい。真っ黒く堅そうな毛に覆われた体はずんぐりとしていて、太い四つ足で地を踏みしめたそれは爛々と光る赤い三つの瞳を確かに鴻耀に向けていた。

「見てる……」

 ぞっとした。この頃の鴻耀には、闘いの経験は愚か妖魔を見たことすら無い。初めて見るそれの禍々しさに、知らず膝が震えた。周囲の精霊達も恐慌を来したように闇雲に怯え飛び回っている。

「とにかく走れ!」

 父の叱咤に我に返り、鴻耀は必死で走った。割れた地面に何度も足を取られそうになりながらも、ひたすら妖魔から遠ざかる方向へ進んだ。

「お兄ちゃん!」

 畦で妹が呼んでいる。母がその手を引いて走り出した。誰もが夢中で逃げている。大混乱だった。

 

 逃げ走る群衆の背を一望した妖魔は、ばくりと真っ赤な口を開けた。びっしりと並ぶ尖った太い牙の奥で、喉が震えた。

 

 鼓膜が破れるのではないか。

 

 鴻耀がそう感じてとっさに耳を押さえた程、それは凄まじい咆哮だった。共鳴するように大地が揺れ、地面が裂開する。逃げまどう人々が何人もその裂け目に足を取られた。崩れた家屋や土砂の下敷きになった者もいた。鴻耀もばくりと開いた地の割れ目に左足を挟まれ、大地に体を打ちつけた。引き起こそうとした父もまた、不意に裂開した地面に呑み込まれる。

「父さん!」

「あなた!」

 父を呑み込んだ地割れは大きく、そして深かった。引き起こされる筈だった鴻耀は、逆に地中に落ち込む父を辛うじて空中に留める形になった。母が手を伸ばすが、父はその手を取ろうとはしない。

「離せ、耀!私の事はいい。早く逃げなさい!」

 今は唯一の命綱と言っていい鴻耀の腕を、父は振り払おうとする。鴻耀はさせまいと力を込めた。

「耀ッ!」

 急に父が目を見開き、切迫した声で叫んだ。その視線は鴻耀の後ろにある。はっと振り向く間もなく、体の側面に凄まじい衝撃を受けて鴻耀は吹き飛んだ。悲鳴が聞こえる。横様に転がった鴻耀の揺れる視界に、妖魔の姿が映った。

「兄ちゃん!」

 妹の叫び声が、少し遠く思える。妖魔はゆっくりと体を回すと、あの赤い瞳を鴻耀に据えた。

 ――こいつは……

 唐突に、鴻耀は理解した。

 ――こいつは俺を狙って来たんだ。霊力を持つ、俺を。

 地面に手をついて、何とか体を起こす。頬を伝う感触に手をやると、額からなま暖かい血が流れ落ちていた。

 赤く染まった掌を見下ろしていると、泣き声が聞こえた。母だ。妖魔に弾き飛ばされた鴻耀の手は、父を繋ぎとめることはできなくなった。唯一の支えを失った父は地の底へ落ちてしまったに違いない。

 

 酷い話だ。

 

 失血に霞む思考の中で、鴻耀は思った。この妖魔が自分を狙って来たのなら、今回の一連の被害は全て自分が引き起こした事になる。そう、父を死なせたのも自分なのだ。

 鴻耀は立ち上がった。正面の妖魔に一度目を向けてから、くるりと辺りを見渡す。

 無惨な情景が、そこにはあった。

 無数にひび割れた大地。そこここに大きく口を開く深い割れ目。逃げまどう人々や、地割れに落ちた家族を呼んで泣き喚く人。

「芳」

 今はその中の一人になってしまっている母の耳には届くまいと考え、鴻耀は妹の名を呼んだ。

「母さんを連れて逃げろ。今すぐ」

 瞳に涙を一杯に溜めた妹は、幼いながらも鴻耀の覚悟をくみ取って頷いた。地に伏せるようにして号泣する母の肩を揺すり始める。そこまで見た鴻耀は、妖魔に向き直った。赤い瞳を睨みつける。

「精霊達よ」

 彼の声に呼応して、土精霊が集まって渦を巻く。

「母なる土よ、総て女神の子の依りて立つ大地よ」

 唇が勝手に言霊を紡いだ。

「かの者、我に仇なすなり。禍きを浄めん、我に与せよ!」

 土精霊が地面に吸い込まれ、大地が鳴動する。妖魔がまた、ばくりと口を開いた。あの吼え声が発せられる前にと、鴻耀は掌を土にかざす。妖魔の顎めがけて、地面が鋭く隆起した。しかし、妖魔は図体に似合わぬ俊敏な動きを見せる。隆起した土を横に跳ぶ事でかわし、鴻耀の足下を狙って咆哮を発した。口を開いた大きな地割れを、鴻耀は寸前に跳び退って避けた。更に襲ってきた妖魔の牙を土で防ぐ。妖魔が振り回した爪が頬を掠めた。ぱっと鮮血が散る。

 息を吐く暇も無い攻防が始まった。

 

 精霊の助けがあるとはいえ、体力は無限ではない。

 況して妖魔の一撃で負った傷は浅いものではなく、気力と体力を削り続ける。初めて闘いに身を投じた少年には、余りに過酷な状況であった。

 そして不幸な事に、対峙している妖魔はその鈍重そうな見かけに反した智恵を持っていた。

 

 何度目かに妖魔が発した吼えによって割れた地面に鴻耀が足を取られた瞬間、妖魔は牙を剥いた。

 相対している人間が何を一番恐れ、何の為に力を尽くして闘っているのか、この妖魔はわかっていたのだ。

「芳!母さん!」

 叫び声も間に合わない。

 鴻耀が地に膝をついて体を支えた時には、妖魔の太い前肢が二人を襲っていた。その攻撃に打たれる刹那、咄嗟の行動だろう、妹が母を突き飛ばした。たったの六歳の妹は、その利発さと行動力で母を庇ったのである。その代償とでもいうように、小さな体は高く遠く弾き飛ばされた。

「芳っ!」

 母と鴻耀の声が重なる。更に母にも襲いかかろうとした妖魔を、凄まじい勢いで土塊が突き上げた。

 

 鴻耀は怒っていた。

 いたいけな妹を無惨に襲った妖魔に、そして護れなかった自分自身に。

 

 土塊に腹を直撃されてよろめく妖魔の頭上に、大量の土が伸び上がる。

「押し潰せ!」

 鴻耀の声に応じて鋭く下降した土の柱は、妖魔を深く地中へと埋め込んだ。

「芳!」

 己の額や頬から未だ流れる鮮血もそのままに、鴻耀が妹に駆け寄る。小さな体に、打たれた衝撃は大きすぎた。ぐったりと地面に体を投げ出し、頭から血を流した幼い少女は、誰が見ても死に瀕している。傍らでは母が泣き崩れていた。

「芳……」

 鴻耀が呟くように名を呼ぶと、妹はうっすらと目を開いた。微笑もうとしているのか、僅かに口元が動く。

 

 鴻耀は泣きたくなった。

 守れる筈だと思っていたのに。かえってこの力のせいで死なせてしまうのか。

 

 震える唇を、鴻耀は薄く開いた。何を言えばいいのかもわからない。ただ、謝りたい。

 しかしその唇から謝罪の言葉が漏れる前に、鋭い涙声が空気を裂いた。

「あんたのせいよ!」

 鴻耀は目を見開き、呆然と視線を移した。そこには鴻耀を悲哀と憎しみに満ちた目で睨む母がいた。

「あんたがそんな力持ってたから、あの人も……芳まで……!」

 叫ぶようなその声は、少年の心を深々と抉った。

「あんたなんか、拾って来なければよかった!」

 鴻耀の胸の中で、何かが急激に冷え、凍り付いた。

 母の言葉が汲み取れず、ゆっくりと瞬く。

「あんたなんか、拾わなければ……!」

 

 お前は、家族ではない。

 

 そう言い放たれた瞬間、鴻耀の目にしていた世界は一変した。当然と思っていた家庭も、ありふれた生活も、全てが虚構となって崩れ落ちる。

「……ごめん」

 ただ、それだけ絞り出すのが精一杯だった。鴻耀はそれ以上何も言わず、静かに踵を返した。家族でなく、しかもこの一件の元凶とも言える自分に、妹の側に留まっている資格など無い。

「兄、ちゃ……」

 弱々しい声が、鴻耀を呼び止めた。振り向いた鴻耀に、瀕死の妹はそれでも笑ってみせた。

「兄ちゃ……は……兄ちゃ……だよ……」

 涙は流さなかった。ありがとう、と声にならない声で告げて、鴻耀はきつく唇を噛みしめた。

 

 その日彼が心に負った深い傷を象徴するかのように、妖魔の爪に裂かれた傷は消えることなく彼の顔に残った。


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