妖魔
それから数日。
心中に納得し難いものを感じながらも、私は朝から淵央の飯屋で働き、夜酒場に変わってからの仕事もこなして、更に鴻耀に剣の稽古をつけて貰うという日々を続けていた。毎日へとへとになる過密スケジュールだったが、お陰で鴻耀に借りていた金は返す事が出来、これからの路銀にする銭も貯まりつつある。剣術の方は基礎から叩き込まれているが、教わるうちに私は鴻耀の腕がかなり優れている事に気づいた。立ち合った時に薄々感じてはいたが、隙が少なく動きにもキレがある。指導を仰ぐ相手としては間違っていなかったと言えるかも知れない。
少々癪ではあるが、鴻耀の采配のお陰で私は日が経つにつれて働く要領を覚え、剣の腕も上達していった。今では店の常連は私の顔を覚え、気さくに話しかけてくるし、剣も鴻耀とほぼ互角に渡り合えるまでになった。
「宵ちゃん、こっちにも粥な」
「ちゃん付けしないで下さい」
軽口を叩きながら仕事をこなしていく。時間はそろそろ午未の経だろうか。つまり、午後二時頃だ。昼ご飯の客が途絶える時間が近い。客足が絶えたらテーブルを片づけて酒樽を運んで……と頭の中で予定を組み立てながら、淵夫妻のいる厨房に声を掛ける。
「淵央さん、粥が二つと……」
注文を伝えようと私が言葉を発した時。
地面が揺れた。
地震と言うよりは何かが爆発したような衝撃が足下を揺らがせた感じ。棚から物が落ち、誰もが立ち騒いで辺りを見回した。
「妖魔だ!妖魔が出たぞ!」
叫び声を聞いて、人々の顔色が変わる。とっさに剣を掴み、一斉に駆け出す人の流れを追って表に出た私は、思わず足を止めた。
「何、あれ……」
まっすぐ続く通りの向こう。
土煙と逃げ惑う人達の後ろに見えたのは、胴の太さが直径一メートル程もある大蛇だった。体は地面の中にあるので長さはわからないが、人間なんて一呑みだろう。あんなの、見た事無い。この世界が私の元いた世界と大きく違うのは理解しているつもりだけど、こんな妖魔がでるなんて話、聞いた事も無いし。
「何してるんだ!早く逃げろ!」
淵央から怒号を投げられても、私は動けなかった。妖魔の擡げた鎌首の下に、倒れている人達が見える。妖魔がチロチロと赤い舌を閃かせながら辺りを見渡した。目が、合う。
形容し難い唸り声を上げて、妖魔が動いた。硬そうな頭部で地面に穴を開けながら地中に潜る。ずるずると地面に呑み込まれていく胴部を呆然と眺めていた私の周りに、わっと精霊達が寄ってきた。
「逃げて!」
「あれ怖い」
「怖い、逃げて!」
わらわらと叫び立てる精霊達。同時に、腕を掴んで引っ張られた。
「ぼうっとしてんじゃないよ!」
淵央の奥さんだ。私の腕を掴んで妖魔と逆の方向に走り出す。それに従おうとした私は、はっと足下の違和感に気づいた。とっさに奥さんの腕を振り解いて突き飛ばす。
「きゃ……!?」
奥さんは短く叫び声を上げたが、私の行動が間違っていなかった事はすぐに証明された。
私と奥さんの間の地面から、妖魔が勢い良く頭を出したのだ。気づかなければ今頃二人ともあの長い胴体の中だろう。
冗談じゃない。
「奥さん、逃げて下さい!」
私は叫んだ。世話になった奥さんに怪我はさせられないし、私一人なら簡単に食われる事は無い。精霊の助けもある。
そう判断した私は、剣を抜いて妖魔の胴体に斬りつけた。鉄製の刃はしかし分厚い鱗に阻まれ、身まで届かない。
「でも宵くん……」
「早く!」
私だってこいつに食われてやるつもりなど無い。周囲の人々が逃げきるまで保たせればいい。あとは私も逃げるだけだ。
私の様子に何かを汲み取ったのか、はたまた留まることは無益と判断したのか、奥さんは立ち上がると一目散に逃げ出した。近くまで戻って来ていた淵央も、私に気遣いを見せながらも去っていく。
それを見届けてほんの少し安堵した私に、妖魔が顔を向けた。爬虫類そのままの巨大な顔に、覚えず顔がひきつる。
さすがに気持ち悪い。
しかしそんな事を考えている程事態に余裕は無くて。大きな口をばくりと開いて突進してきた頭部をかわす。その横面を斬りつけたが、やはり分厚い鱗が邪魔をする。剣ではこいつを斬ることは出来ないようだ。とはいえ今は逃げてしまえば周囲の被害が拡大するだけだというのは火を見るより明らかで。
意を決した私は、ぎろりとこちらを向いた瞳に刃を突き立てた。
耳をつんざくような悲鳴が響く。
思わず片目を瞑って顔をしかめながら、私は剣を引き抜いた。目からどす黒い血を迸らせた大蛇がのたうち回る。胃の辺りに不快感を覚えながらも剣を構え直した私に、大蛇は血走った隻眼を向けた。唸り声を上げ、長い胴がしなる。
動いたと見る間に先程を遙かに上回る速さで近づいた牙を、私は回避出来なかった。
まさか、こんなに速く動けるなんて。
とっさに剣を立ててつっかえ棒にし呑み込まれるのは防いだが、上顎の牙が肩に食い込む。
「……ぅあっ!」
経験したことの無い痛みに、視界が明滅する。体が震えてくず折れかけたが、膝をついてしまえばおしまいだと本能が理解していた。目の前に迫った赤い舌と生温かい呼気に気分が悪くなる。
肩に埋まった牙が更に食い込もうとした時、周囲の空気が変わった。
「母なる土よ、総て女神の子の依りて立つ大地よ」
鋭い声に反応するように、それまで狼狽えていた精霊達が動く。
「禍きを浄めん、我に与せよ!」
わっと集まった土精霊が地面に吸い込まれていく。同時に地が揺らぎ、一瞬で隆起した地面が妖魔の胴を押し上げるように弾き飛ばした。叫び声と共に牙が私の肩から抜ける。片膝をつく私の前で、大蛇が急速に地面に潜っていった。
「逃がすか!」
苛立ちを含んだ叫びと共に駆け寄って来たのは鴻耀だ。彼が大蛇を追うように手を翳すと、何度も地面が揺れ、地割れが走った。しかし地中に逃れた大蛇が再び顔を出すことは無く、やがて気配が離れたのを感じ取った鴻耀が舌打ちと共に攻撃を止める。
「おい、大丈夫か」
傍らに膝をついた鴻耀にそう言って肩を抱かれるまで、私はぼうっとしていた。傷の衝撃で頭がうまく働いていないのかも知れない。緩慢に顔を上げた私の前髪を、鴻耀の手が払った。
「方術もろくに使えねぇくせに無茶しやがって……」
眉を寄せた鴻耀が、大蛇の牙に裂かれた私の上着の袖を破り取る。それを更に裂いて傷口に巻くと、鴻耀は私を抱え上げた。
「蛇、は……?」
掠れた声で私がようやくそれだけ言うと、鴻耀は歩きだしながら不機嫌に答えた。
「逃げた」
「ご、め……」
逃がしてしまった。私がもっとうまく戦えていればしとめられただろうに。また、街が襲われるかも知れないのに。
「馬鹿かお前。お前のせいじゃねぇし、んな事気にしてる場合でもないだろうが」
心なしか、私を抱える鴻耀の腕に力が籠もる。
「で、も……」
「喋るな」
そう言った鴻耀の眉間には、深い皺が刻まれている。早足で歩いた鴻耀は、見覚えのある店の前で足を止めた。
「登蘭!居るか!」
ああ、そうだ。ここ、あの服屋のおばさんの店だ。
やけにぼんやりとする頭で、私は記憶の中にある映像と視界に映る店を重ねた。
「あら、鴻耀さん……鴻宵くん!?その傷……まさかさっきの騒ぎで!?」
鴻耀に抱えられた私を見たおばさんが慌て出す。さっきの妖魔騒ぎの事は知っているようだ。妖魔が出た場所からは少し離れているから逃げなかったのだろう。
「手当が必要だ。悪いが部屋を貸してくれ。それと、布と湯を」
「ええ、すぐに」
頷いたおばさんが私を抱えた鴻耀を奥の部屋に案内し、床に敷布を敷いてばたばたと走り去る。鴻耀は私をその敷布の上に横たえると、応急処置の布を解いて私の襟元に手をかけた。
「ま、待て――」
私はとっさに制止する。服をどけないと治療出来ないのはわかっているけど、やはり脱がされるのはまずい。怪訝そうに眉を寄せる鴻耀に、私は言い訳を探して目を泳がせた。
「ち、治療はおばさんにして貰うから、鴻耀は街の方を頼む。またあれが出るかも知れないし」
苦し紛れに私がそう言うと、鴻耀は眉間の皺を深くした。
「登蘭には無理だ。妖魔の牙には毒があるんだぞ」
そっと額に触れる鴻耀の手が、やけに冷たく感じられる。熱が出ているのか。頭がぼうっとするのも、きっと毒のせいなのだろう。
鴻耀の言葉に反論出来なくなった私に、思わぬ所から救いの手は差し伸べられた。
「毒、浄化する!」
私の肩に飛び乗るように現れてそう言ったのは木精霊だ。木精霊は植物のみでなく命有るものを司る役割もある。それに、土に潜り土の性質を持つ大蛇の毒が相手なら、土に打ち克つ木精霊の力は確かに有効だ。
「手伝う!」
「浄化、する!」
最初の一匹を皮切りに、続々と木精霊が集まって来る。鴻耀は瞠目してその様を見ていた。
「傷、よくなる!」
それに水精霊が混ざり、傷口から滲む血を抑える。水も命との関わりが深い。傷の治癒との相性は良いのだろう。
「街、直す」
「土、均す!」
土精霊までもが私の言葉に従って鴻耀の袖を引っ張り始める。
「お前、一体……」
鴻耀が真剣な目で私を見た。本気の戸惑い。命じてもいないのに、ここまで精霊が動くのだ。私も正直驚いている。
「行けよ、鴻耀。俺には精霊がついてる」
「いや、でも……」
鴻耀が渋っていると、窓から風精霊がふわふわと漂ってきた。
「妖魔が出るなんて……」
「不安だわ」
「不安だ」
「方士がいれば安心なんだが……」
口々に伝えるのは街の人々の口真似。追い打ちをかけるようにもたらされたそれに、鴻耀はついに溜息を吐いて私から手を引いた。
「わかった。俺は街の復旧にかかる。……無茶はすんなよ」
「ああ、ありがと」
立ち上がった鴻耀が、やけに密度の高くなった精霊達を見渡して言う。
「……頼むぞ、お前等」
「任す!」
「大丈夫!」
精霊達が丸っこい胸を張る。もう一度私に視線を寄越してから、鴻耀は部屋を出ていった。おばさんに何か言っているのが聞こえる。私は精霊達に目を向けた。
「ありがとう」
微笑むと、精霊達は張り切って飛び跳ねた。
「大丈夫?鴻耀さん、出て行っちゃったけど……」
湯を張った盥と白い布を抱えてきたおばさんが困惑げに言う。私は苦笑を見せた。
「大丈夫ですよ。鴻耀は街を助けられるんだからそっちへ行った方がいいし……女だってばれるのも面倒だし」
「それはそうかも知れないけど……酷い怪我だっていうのに強情ねぇ」
呆れたように言ったおばさんは、私の上衣をはだけて傷口を露わにする。改めて見ると、よく意識を保っていたものだと感心したくなる有様だ。いや、冷静に見てる場合じゃないんだけど。
水精霊のお陰で出血は止まった傷口をおばさんが濡らした布で丹念に拭う。すぐに薬草を貼ろうとしたおばさんを、私は手で制した。綺麗になった傷口に木精霊が集まり始めている。それを眺めながら、私は口を開いた。
「あの妖魔の牙、毒があったそうです」
「えっ」
さっとおばさんの顔色が変わる。私は安心させるように笑みを形作った。
「大丈夫。今、精霊達が浄化してくれてます」
木精霊達が気を注いでくれるにつれて、体を巡っていた重さと不快感が薄らいでいくのがわかる。頭も少しはっきりしてきた。
「浄化が終わったら、傷口の処置だけお願いします」
おばさんには精霊は見えないようだが、私の言葉にはっきりと頷いてくれた。精霊達では、傷まで完全に治す事は出来ない。力の強いものなら可能なのかも知れないが、そこまで精霊に頼るつもりも無かった。
暫くしてだるさと熱が完全に消え、痛みと失血による不快感だけになって木精霊達が離れると、私はおばさんにそれを伝えた。おばさんは私の傷口に練った薬草を貼り付けると丁寧に布を巻き、新しい上着を着せてくれた。
「本当に大丈夫?」
「はい、もう大分楽です」
頷いた私は、傷のダメージからか、急速に眠気を覚えた。
「すみません、少し、休ませて……」
言い切るか言い切らないかという辺りで、私の意識は途切れた。
目を覚ますと、既に夕刻なのか辺りは藍色の中に沈んでいた。喉の渇きを覚えて身を起こそうとした所で、肩に激痛が走る。
「つ……ッ!」
思わず呻いた時、ぽっと部屋の燭台に明かりが灯った。見ると炎精霊が漂っている。
「起きた」
「起きた」
口々に言いながら精霊達が部屋から出ていく。程なくして、鴻耀が顔を出した。
「目が覚めたか。具合はどうだ?」
「あぁ……喉、渇いた」
私がそう言うと、鴻耀は私の枕元から水差しを取り、碗に水を注いだ。
「起きられるか」
「ん」
肩の痛みを堪えながら私はゆっくり身を起こす。鴻耀は背中に手を添えてそれを輔けてくれた。そのまま支えていてくれる。私が動く方の腕を持ち上げて碗を受け取ろうとすると、鴻耀は微かに首を振って碗を私の口に近づけた。木の感触が唇に触れる。鴻耀がゆっくりと碗を傾けると、水が少しずつ口の中に流れ込んだ。私はそれを気管に入れないように慎重に飲み下す。
かなり喉が渇いていたようで、自分で碗を傾けていたら焦りすぎて噎せていたかも知れない。鴻耀は見かけによらず細かい所に気の付く男だと思う。
「大丈夫か。気分は?」
私が喉を十分に潤したのを見計らって、鴻耀が訊いてくる。その片腕はいまだ私の背を支えたままだ。
「ん、肩が痛いだけ」
そう答えると、それは当たり前だと呆れたように言われた。
まぁざっくりやられてたからね。痛くなかったら逆に心配だ。
私の体調に傷以外の異常が無い事を確認して、鴻耀はゆっくりと私の体を横たえた。いつになく真剣な飴色の瞳が、私を見据える。
「本当に無茶しやがって。一歩間違えば死んでたぞ」
「う……」
反論出来ない。あの時鴻耀が駆けつけなければ多分私は喰われていたし、その後だって精霊の助けが無ければ命を落とす可能性は十二分にあったのだ。
そう内心で反省していた私は、ふと疑問に思った事を思い出した。
「そういえば、妖魔に遭遇したのは初めて……っていうか聞いた事も無かったんだけど」
また世間知らずと言われるかと覚悟していたのだが、鴻耀は少し難しい顔をしただけだった。
「無理もねぇよ」
どこか苦々しげに呟いて、壁に背を預ける。
「あれはこの国にしか出ねぇんだ」
私は目を見開いた。この国にしか出ない。つまり橙には出るが碧にも紅にも白にも、そして昏にも出ないという事だ。
「それって、どういう事?」
私が訊くと、鴻耀は視線を外したまま答えた。
「言っただろ」
幾分投げやりな口調で。
「嘗て女神に庇護された大陸の中央部を、護る者はもういない」
女神の加護を失った影響が最も大きいのはこの土地だと、鴻耀は言う。
「他の四国には、それぞれ四方の土地神の守護がある。それはお前もよく知ってんだろ」
鴻耀が言っているのは、紅における朱雀の事だと、すぐに見当がついた。紅に朱雀が居るように、白には白虎、昏に玄武、碧に青龍が居るという事は、私も前に耳にした事がある。
「つまり、何にも護られてないこの国にだけ妖魔が蔓延ってる、と」
嘗て女神に護られていたが故に、今は庇護者を無くした孤児のような土地になってしまったと言うのか。
「そんなの……」
おかしいだろう。
土地神の守護に国境なんて関係無い筈だ。相手は妖魔。民は平等に護られて当然なんじゃないか。なのに、どうして誰もこの地を護ろうとしないんだ。
その疑問に、鴻耀は静かに答えた。
「俺にもよくはわからん。でも女神の怒りを買ったのは人間だ。土地神も、未だ人を信じきれないのかも知れねぇな」
それを聞いた私の脳裏に、嘗て聞いた苦しげな声が蘇る。
――人間なんぞに肩入れしおって……!
朱雀は確かにそう言った。朱雀は人間が嫌いだ。女神を深く傷つけた人間の為に加護を与えるなど、したくないのが当然かも知れない。
「鴻耀」
ずっと、漠然とながら抱えていた思いが、私の口からこぼれる。
「俺、この世界を変えたい」
憎しみと悲しみで捻れてしまったこの世界を、何とかしたい。
私の言葉を聞いた鴻耀は、何の表情も浮かべずに私の額に手を置いた。そのままその掌が瞼を塞ぐ。
「……寝ろ」
鴻耀が投げたのは、そんな短い言葉だけだった。




