辿り着いた場所
濃い水の気配に包まれて、私は浮き上がるように目を覚ました。まだぼんやりする頭で開いた目に映ったのは、深い緑。
渓流に体を浸し、上半身を岩に預けた状態で、私は臥せていた。周囲は山の中なのか、木々が茂っている。
ぱしゃん。
微かな水音を立てて起きあがる。臑を浸す程度の浅い流れだ。水面を見下ろして、映った自分の顔を見るともなしに見た私は、ふと動きを止めた。
「目が……」
朱雀を宿して、緋色になっていた瞳。それが、元の黒に戻っていた。
「そうか、もう朱雀はいないもんな……」
呟きながら濡れた髪を掻き上げた私は、少し先に粗末な小屋がある事に気づいた。しかしそれを観察する暇もなく、水精霊と木の精霊にまとわり付かれる。
「灯宵、起きた」
「大丈夫?」
「痛くない?」
「ああ、大丈夫だ……っくしゅっ」
答えの途中でくしゃみが出る。どのくらい眠っていたのかわからないが、ずっと水に浸かっていたようなので当然と言えば当然か。それに、気が付いてみるとここは紅みたいに暑くない。紅の衣服のままでいれば寒いのは当たり前だ。
私がふるりと震えたのに慌てて、水精霊が衣服の水分を吸い取り風の精霊も水気を吹き飛ばそうと風を起こす。ちょこまか動き回る様子が微笑ましい。特に水精霊が水分を吸い取り過ぎてたぷたぷになったお腹を持て余しているのを見た時には声を上げて笑ってしまった。
「はは……っ、ありがとう。お前達がここまで運んでくれたのか?それにしても、ここ、何処」
私が言うと、精霊達は飛び回りながら口々に言った。
「ここ、安全」
「安心」
「でも僕ら、運べない」
「あたし達だけじゃ、運べなぁい」
精霊達だけじゃ運べない?じゃあ誰が運んだんだ。私が問いかけようとした時、精霊達がびくりと震えて一斉に散った。
「ばいばい!」
「またね!」
「え、ちょ……」
急に飛び去られてわけもわからず戸惑う私の後ろで、地面を踏む音がした。
「おや?」
聞こえた声にはっとし、咄嗟に距離を取りながら振り向く。
そこにいたのは、白地にくすんだ黄色の縁取りのあるゆったりとした服を纏った老人だった。ちょうど、水墨画なんかに出てくる仙人のような服装、長い白髪。胸の前に垂れる長い髭も真っ白だ。
「ここに人が来るとは珍しいのぅ」
警戒を露わにしていた私を意に介さず、のんびりとした口調で言う。無害そうな相手に何だか拍子抜けして、私は身構えていた姿勢を弛めた。
「そなた、紅人か……ここは国境からは少し距離がある筈じゃが」
私の服装を見て、老人が首を傾げる。ここは紅の領内ではないようだ。また敵と間違われては困るので、私は慌てて弁明した。
「あ、いや、実は精霊にここまで……っくしゅ」
説明の途中でくしゃみをしてしまう。やっぱり寒い。
「精霊に?まぁとにかく、そのままでは寒いじゃろう。こちらへ来なさい」
そう言って、老人が身を翻す。続こうとした私は、はっと足を止めた。
見えてしまったのだ。老人が動いた事で風に流れた髭と白髪の間から覗く首元に、翻った袖から見えた手首に。
「狐狼……」
私の呟きが耳に届いたのか、老人は歩みを止めて振り返った。その眉宇に少し、寂しげな色がよぎった気がした。
「ああ、済まぬ。人と接するのは久々でな。言い忘れておったよ」
そう言った老人は、思案するように眉を曇らせる。
「じゃがここから人里まではちと遠くての……そのままでは寒かろう。もし嫌でなければ衣服と温かい食べ物でもと思ったんじゃが……」
嫌だろう、という言葉を喉元に留めたような老人の言い方に、私は首を傾げた。
「いや、こちらこそ貴方が嫌でなければ是非温かい物でも恵んで頂きたいんだが」
寒いし、気づいてみればお腹も減っている。何故老人がそんな風に落胆した様子なのか、私にはわからなかった。
私の返答を聞いた老人が目を見開く。
「よいのか?」
「何が?」
会話がかみ合わない。
「わしは狐狼じゃ。……人は狐狼を忌み嫌う」
今度は私が目を瞠る番だった。
「そうなのか?でも章軌は……」
私が思わず言うと、老人は視線をやや遠くに投げた。
「覇姫に会った事があるのか……あれは特殊じゃ。覇姫という存在があって初めて、章軌も受け入れられておる」
老人の何かを噛みしめるような口振りに、春覇と章軌に関しても過去には色々あったのかも知れないと思う。
「人がわしらを嫌うのは無理もない。これはわしらの罪なのじゃ」
老人の言葉を聞いて、私は真っ直ぐ視線を返した。
「俺は五百年も前の事で種族の全てが罰を受けるなんておかしいと思ってる。狐狼への差別なんて馬鹿げてるよ」
目を見開く老人に、少しだけ笑顔を見せる。
「だから、是非とも服と温かい物を恵んで欲しいんだけど?」
寒いんだってば。




