軋み
「かーんーなーぎっ」
やたらと間延びした声が私を現実に引き戻す。案外長い時間眠ってしまったらしく、授業は終わって昼休みになっていた。
「何、今の夢」
呟いて、私はシャーペンを指に挟んだままの右手を見た。変な夢を見たもんだ。…夢の中の切なさがまだ胸の内に残留しているようで、気分が悪い。
「神凪?どした?」
声を掛けてきた中津が不思議そうな顔をする。この男、私がどんなに邪剣に扱おうと無視しようとへこたれもせず、常に飄々とした態度で話しかけてくる稀有な存在だ。もっとも中津自身、へらへらした外見とは裏腹に煙草は吸うわ喧嘩はするわで、クラスの中では問題児扱いされている存在なのだけれど。そんな中津がひっついてくるせいで私もとばっちりで無駄な喧嘩に巻き込まれたりする。傍迷惑なことだ。
首を傾げて顔を覗き込んでくる中津に何でもない、と答えて、私は欠伸と共に夢の事を意識の外に追いやった。所詮は夢だ。考えたって仕方ない。
「……?まあいいや、飯食おうよ。神凪は購買でしょ?急がないとパン売り切れちゃうよ?」
「うん……今日はいいや。もう購買は戦場状態だろうし、あんまり食欲も無いし」
私が言うと、中津は目を丸くした。
「いいって……昼食べないつもり?もたないだろ、それじゃ」
「大丈夫」
そっけなく返して、私は机に突っ伏した。何だか本当に気分が悪い。わけも無く叫び出したいような、そんな衝動に駆られる。
「神凪」
声をかけられて顔を上げると、目の前に弁当箱の蓋が置かれた。その上に、俵型のお握りと卵焼きが乗っている。
「少しでも食べときなよ。午後の授業でお腹鳴って恥ずかしい思いしても知らないぞ」
そう茶化して笑う中津が手にしているのは、母親手作りの弁当。この男は毎日欠かさず弁当を持ってくる。素晴らしい母親だ。そんな家庭で育った息子が何でこれなんだか。
「いい」
「いいから食べなって。なに、唐揚げも欲しい?」
結局、中津のペースに乗せられる形で、私は渋々お握りと卵焼きを口に運んだ。
それは思った以上においしくて、少し、ほんの少しだけ中津が羨ましく思えた。
「ただいま」
授業を終えて帰宅し、玄関を開けて声をかける。
返事は無い。いつものことだ。
私は靴を脱いで階段を上がり、二階の一番奥にあてがわれた自分の部屋に入った。必要最低限の家具しかない部屋を歩いて、ふと棚の上の写真に目を留める。
幸せそうに笑む両親と、幼い私。
「……ただいま」
昼間見た夢を思い出し、何となく呟く。
もう哀しくはないけれど、時折、ほんの少し、寂しい時もある、かもしれない。
夕食に呼ばれるまで、自分の部屋で勉強をしたり本を読んだりして過ごす。特に趣味として打ち込むような事も無いし、一緒に遊びに出掛けるような友達もいない。
昔はそれなりに友達もいたっけ、と漠然と思い出した。
両親を亡くしてから、周囲は腫れものを扱うように私に接するようになって、それが嫌で距離を置き始めた。高校に上がって当時とは周囲の顔ぶれが変わっても、その癖は継続していて、親しい友人と呼べるような相手は居ない。
……中津を友人と呼ぶのは、何だか抵抗がある。あんなわけのわからない奴が友人でたまるか。
教科書を開いて宿題をしながら、私は中学の頃の試験を思い出して憂鬱になった。
伯父夫婦に引き取られた私は、当然ながら居候の身である。養ってもらっている身で成績が落ちると、伯父夫婦はいい顔をしない。ではいい成績を保っていれば問題ないのかといえば、そうもいかないところが面倒なのだ。
伯父夫婦には、子どもが二人いる。そのうち下の女の子は、私と同い年で、この春から同じ高校に通っている。
早い話、その子よりもいい成績をとってしまうこともまた、伯父夫婦の不興を買うというわけだ。
本当なら、私は高校はどこか寮のあるところを受けて家を出たかった。しかしながら、寮生活は何かと物要りだということで、伯父夫婦に却下され、経済的負担の少ない公立高校に通うことになったのだった。
まあ、中卒で働けと言われなかっただけましなんだろうけど。
適当に課題をこなして教科書を閉じると、時計の針は七時を指していた。夕食にはまだ少し早いが、喉が渇いたので何か飲もうと階下に降りる。
リビングのドアを開けると、帰宅したばかりらしい従姉妹が荷物を投げ出したまま泣きじゃくっていた。その肩を、大学生の兄が慰めるように叩いている。私は呆気にとられて、ドアを開けた姿勢のまま固まってしまった。
「みき……?」
どうしたの、と声をかけようとした瞬間、従姉妹――みきが、驚くほど俊敏な動きで振り向いた。
「灯宵ちゃんなんて大嫌い!」
私を睨みつけてそう叫ぶと、泣きながらリビングから飛び出していく。わけもわからないまま大嫌いなんて言われた私は、茫然とその背を見送ってから、リビングに向き直った。
「みき、どうしたの……?」
伯父夫婦の長男でみきの兄である宗也に問えば、宗也はああ、と気まずげに唸りながら頭を掻いた。
「みきの奴、今日好きな男に告って振られたんだとよ」
「はあ……」
それで何で、私がこんな仕打ちを受けなければならないのだろうか。関係無くないか。
首を傾げる私に、宗也は溜息混じりに続けた。
「そいつがさぁ……自分は灯宵が好きだって言ったんだってさ」
私は目を見開いた。みきの発言の理由がわかったような、それでもやはり理不尽なような。
「まあ今はほっといてやれ。そのうち立ち直るだろ」
やや薄情とも思える発言をして、宗也はみきの鞄を拾った。
その日の夕食の時も翌日の朝食の時も、みきはリビングに姿を現さなかった。