朱宿の決断
碧軍の侵攻から数日。
私のいる紅軍には次々と早馬が送られて来ていた。
「碧軍が午邑を制圧しました!」
「迎撃の軍が大敗し、駆班将軍が捕らえられました」
そのいずれもが、敗報をもたらす。爾焔の表情から初めて余裕が剥がれ落ちた。
「どういう事だ」
「報告によれば、覇姫が木精の加護を軍に与えているようです」
爾焔が目を見開き、次いで舌打ちをした。聞いた話によると、他人に精霊の加護を分け与える事は方士に相当の消耗を強いるらしい。一人二人ならばともかく、一軍ともなればその負担は計り知れない。だからこそ、爾焔もその可能性を考慮しなかった。
だが、春覇はその予想を裏切った。
自分の身にかなりの負担を負ってもなお、軍に加護を与えた。すなわち、それだけこちらの攻略に本気だという事だ。
思い切りの良い決断。春覇らしいとどこかで思う。
「朱宿」
張り詰めた声で、爾焔が私を呼んだ。
「白を一息に押し潰す。……やってくれるね」
私は返事をしない。出来なかった。
これまで春覇は、方士でありながら、人間として、兵士の力で戦う軍に対しては決して術を用いなかったと言う。それは多分、力を持つ者としての、彼女なりのけじめだ。
それが、今回は自軍に加護を与えた。
それは明確に、私の存在に対しての反応だ。私がいたから、私のせいで、春覇はそこまで踏み切った。
「朱宿?」
私は……
「爾焔、もう止めよう」
私の口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
このまま白を焼き尽くして征服したところで、多分白の土地を安定した領土として併合する事は出来ないだろう。必ず反発がある。碧軍が優勢なら尚更だ。白の人々は碧の進撃に希望を見、呼応する形で立ち上がるだろう。それを力でねじ伏せるなど、土台無理な話。このやり方では、白を平定する事は出来なくなったのだ。そして一方では、白に軍を進めている間に、紅の領土は碧軍に削られていく。こちらは逆に、碧が着実に押さえていくだろうから奪還は難しい。
つまり、最悪の場合、このまま進んでも碧に奪われた分の領地を失うだけになる。早く都に戻って碧軍への対策をする方が得策だ。春覇に加護を分け与えられた碧軍は、ただ朱雀の激情に翻弄されるだけの私には焼き払えないだろう。軍を再編して迎撃する必要がある。
そんな風に考えて発せられた私の言葉に、爾焔の表情が強ばった。
「……やめる?」
「ああ」
紅の国の事を考えれば、それしかない。
「白への侵攻をやめて、帰るんだ」
私がそう言うと、爾焔の眉が目に見えて震えた。
「何故だい、朱宿」
いつものように笑みを唇に乗せようとしているが、うまくいかずにぎこちなく口角が上がる。私は答えた。
「これ以上拘れば国を失う事になる」
春覇を甘く見てはいけない。生真面目ながらそれだけではなく、慎重且つ有効な手段を常に選んでくる相手だ。
爾焔の表情に、明らかに怒気が宿る。
「そうさせない為に君がいる」
「爾焔、朱雀だって万能じゃない」
そんな事、わかっている筈だ。それに……
「俺はもう嫌だ」
言い切った瞬間。
私は背中に衝撃を受けた。何が起こったか理解する前に、喉を強く圧迫される。
「ぅ、……くっ……」
「依宰相!」
爾焔に首を掴まれ、押し倒されたのだ。錫雛が驚いて叫ぶ。私の首を一掴みにした爾焔の手には、容赦ない力が籠っている。息が出来ずに表情を歪ませる私に、爾焔は言った。
「勝つんだ。これが君の仕事」
「違……、違う」
ほかの国を踏みにじる為に、焼き払う為に力を持ったわけじゃない。そんなの違う。朱雀は本来守護の聖獣。その力はきっと、守りにこそ発揮されるべきなんだ。
私はそれを訴えようとしたが、爾焔は焦りからか、本気で私の首を圧迫してくる。
殺す気か。
「依宰相!お止め下さい!」
錫雛が叫ぶ。近くにいる火の精霊が爾焔の感情に呼応して震え始めた。飄々としていた爾焔らしくない。計算が崩れた事に焦り、事態に怯えているのか。見上げた視界に映る焦げ茶の瞳は、乱暴な行動とは裏腹に何故かどこか哀しげだった。
次第に視界が白く霞んでくる。苦しい。このままでは、本当に、死ぬかもしれない。
「……ふざけるな!」
段々私も腹が立ってきた。いきなり朱雀の宿主にされて、利用するだけ利用されて。その挙げ句、正論を述べただけでこんな仕打ち。納得出来るか。
今度は私の怒りに反応して、水や木の精霊が寄ってきた。次から次へと引き寄せられてきて、周囲から炎精霊を弾き出す勢いで私の周りに集まる。事態に気づいた爾焔がはっと顔を上げるが、もう私は止まらなかった。
「俺は朱雀を放棄する」
きっぱりとそう宣言すると、体内に熱が膨れ上がった。朱雀が怒っている。でも負けるものか。踏み誤ったのは朱雀、お前も同じだ。
この国は、振り出しに戻らなきゃいけない。
振り出しに戻って、国民が力を合わせて国を守る。それが国として正しいあり方だと私は思うし、現状では生き残る唯一の道でもある。
そして私も、この誤った力を手放さなければならない。
「――俺を救い出せ!」
初めて明確に精霊に命令した言葉は金属質な響きを帯びて大きく響き、ざっと水の気配が近づいた。爾焔が息を呑む。
次の瞬間、奔流が私を飲み込んだ。水精霊が結託して作り出した水が、流れとなって私を浚う。反射的に目を閉じた私の瞼の裏に、炎が映った。
――何故だ、何故……!我はこの地を……圭裳……!
精霊達に引き剥がされそうになりながら朱雀がもがく。圧倒的な力を持つ守護神でも、元々手負いである上に宿主に拒絶され、多数の精霊に寄ってたかってかかられてはひとたまりもない。朱雀は私から引き離された。
「朱雀」
奔流の中、私は小さく語り掛けた。
「人間は力だけで屈服させる事は出来ないんだよ」
そのまま、どこへ流されるのかもわからないまま、私の意識は遠のいていった。
薄れる意識の中で、何か大きなうねりを感じた気がした。