風の噂
碧の国都、翠。
帰還した軍が論功行賞を終えて解散すると、紀春覇は真っ直ぐ王宮へと向かった。軍の戦果の他にも、報告しなければならない事がある。
彼女の後ろには、当然の如く章軌が付き従っていた。そのせいで精霊は近寄っては来ないが、やや遠くを漂っている者はいる。現に庭を横切って王宮へと急ぐ春覇から少し離れた木の梢で、半透明の風精霊がくるくると舞いながら噂話をしていた。
「白、負けた」
「燃えた」
「朱雀の火、燃やした」
その囁くような唄うような声を、春覇の耳が捉える。
「おい」
春覇は足を止め、梢を振り仰いだ。意図を察した章軌が、数歩下がって距離を取る。来い、と命じた春覇に応じて、精霊達が怖ず怖ずと近づいてきた。
「今の話、詳しく話せ」
朱雀という言葉、白軍の敗北。
そこに灯宵が関わっている事を、春覇は確信していた。
「申し上げます」
王の前に進み出た春覇は、手を組んでひざまずき、言を上げる。王は鷹揚に頷いた。少し顔が青白い。
「失地の回復、苦労であった。そなたの功は多大である」
「もったいなきお言葉」
春覇は頭を下げた。
「実は一つ、お耳に入れておきたい事が……」
王の左右に余計な人間がいないことを確認して、春覇は灯宵の事を簡潔に述べた。昏の陣中で拾った事から紅に奪われるまでの事情を聞いて、王の眉が寄る。
「朱雀を宿すとは……」
「その事についてですが」
春覇は一度言葉を切った。その表情は苦さに彩られている。
「精霊達が噂しておりました。どうやら紅は朱宿と呼ばれる青年に宿った朱雀の力で以て、白の一軍を焼き払ったようです」
王の目が見開かれた。春覇は深く頭を垂れる。
「そのような者をみすみす紅に奪われた事、慚愧に耐えません」
「……いや、そなたの罪ではない」
目を伏せて息を吐いた王はそう言うと、視線を遠くに投げた。
「しかしこれで情勢は動こう。紅から目を離さぬように致せ」
「はっ」
礼を以て王命に応えながら、春覇は脳裏に灯宵を思い浮かべた。何故戦うのか、と問いをぶつけてきた青年。戸惑いに揺れていたあの瞳が、無情に白軍を焼き払ったというのか。
退出した春覇は、拳を握り締めた。
「炎狂め……」
灯宵を連れ去った男の、勝ち誇ったような笑みを思い出す。ついに地の守護神まで己の駒として動かした男。傷ついた朱雀につけこみ、何も知らない無垢な青年に重い運命を背負わせた。
「春覇」
背後から声がかかる。振り向いた春覇に、章軌は琥珀色の瞳を真っ直ぐ向けた。
「落ち着け」
身の内に渦巻いていた怒りと焦燥を、その声がすっと冷ましていく。春覇は深く呼吸すると、冷静に状況を考えた。
朱雀の力を得た紅は、まず白を潰しにかかる。今主に争っている相手でもあるし、紀春覇という、水と相性の良い方士を戴く碧よりは与しやすいからだ。当面、碧の敵が昏である事は変わらないことになる。しかし、白を滅ぼさせるわけにはいかない。もしも紅が白を併呑してしまえば、昏に勝るとも劣らない国力を持つ事になる。そうなれば、昏と紅の二大国が争う時代となり、碧も橙もその間に挟まれて摩滅する他無くなってしまう。
「太子はまだ戻られぬか」
春覇は西の空に視線を投げた。使者の往来すらままならぬ状態に業を煮やした碧の太子は、自ら白に赴いているのだ。
「未だ何の報せも無い」
章軌の答えに、春覇はきゅっと眉を寄せた。
「頼みます、太子……」
今は自分に出来る事をしなければならない。春覇は足早に自室へと向かった。