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或る教授  作者: 浦島橋梁
6/7

006 : 或る桜の園

偶然を装い、

水道橋の大覚書店で声を掛けようと

間合いを詰めていた私。


先生は岩波文庫「桜の園」を立ち読みしている。

そのカバーは肌色の下地に桜色か桃色か、

学術研究者らしい細い指先に載る文庫本。

中々に声の掛け辛い空気感、

所謂オーラを漂わせている。


数秒単位で正確に1ページ、また1ページ。

捲る指先の神経質そうな動き、

その眼差しは、本を読むには鋭過ぎる。

彼は一体何を見ているのか。

それはチェーホフ、

本当にアントン・チェーホフのあの

「桜の園」なのか。

表紙の題字は「桜の園」とあるが、

カバーを巧妙に偽装してその実、

「赤毛のアン」辺りを読んでいる可能性も

完全には否定出来ない。

先生と赤毛のアン。

アンの時代にアンの恩師として先生が居れば、

アンも随分違った人生になっていた事だろう。

個人的には「若草物語」の様な

明るい家族計画、失礼、

明るい姉妹、大家族に憧れる。

初老独身天涯孤独、

先生に家族は居ない。

恋人も愛人もラマンもラ・マンチャの男も

その交友関係には存在しない。


孤独な男。

孤高を気取るのか単に縁、繋がらず、

独身を通して来たのか、

独身を通して来てしまったのか。

然し何故、今、「桜の園」

つい先日は幸徳秋水の

「帝国主義」が面白い、と言われていた。

文芸にも深い造詣があるのか、

先生と言うある種得体の知れない存在。

文芸的な書はあまり話題にしない。

少なくとも聞いた事はない。

若しくは心境の変化だろうか。

齢六十にして哲学書、学術書、学術誌

業界誌同人誌では事足らず、

遂にロシア文学に至る。

遠い旅路の果てに辿り着き、

一息の休息に「桜の園」


もう一つの可能性についての考察。

そう、フィールスにはまだ遠いご年齢。

女主人に使える従僕の夢でも見るのだろうか。

私はね、生まれ変わったらラネーフスカヤ夫人に

扱き使われてみたいのだよ、

とでも言い出すのだろうか。


それはそれで中々興味深い。

寧ろ言い出して欲しい。

学内で、食堂で、学長室で。

真顔で言い出してみて欲しい。


そして謎の救急車を呼ばれ、

大勢のお見送りの中、

正面玄関から続く学内の通りを

まるで花道を駆け抜ける乙女の様に

軽やかに走り抜け救急車にイン、して欲しい。

そんな、基地の外に佇む様な先生を見てみたい。


夢想に耽る事、数十分。

漸く飽きたのか時間の制限か、

まだ読み終えぬページを残して

文庫本を静かに閉じると、

正確に記憶していた元の場所へ

滑り込ませる様に戻す。

一連の作業か動作か、

機械的とも言える仕草は

一体どう言う仕掛けなのだろう。


結局、声掛け出来ないまま

先生は立ち去ってしまった。

今日はこれ以上の追跡は難しいだろう。

多分先生は気付いている。

気付いていて泳いでいるのか、

こちらが泳がされているのか。


白々しく一声掛けるのも

「桜の園」の前では野暮と言うもの。

私にもそれなりの礼儀と浪漫主義は

持っているつもりだ。

今度ゆっくり「桜の園」を読んでみよう。

先生の世界線を探る為にも。

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