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或る教授  作者: 浦島橋梁
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【FILEー01】 或る道徳の系譜

三階の突き当りの研究室まで歩いて5分。

今日も先生は暇を持て余している筈だ。


「こんにちは」


丁寧に横滑りの扉を開けると、

先生は窓際に置いた椅子に腰掛け、

遠い目で外を眺めていた。

私の顔を見て軽い溜息を吐いたのは、多分気のせい。


「歓迎はせんよ」


冷たくは無し、されど好感も持たず。

限りなく「ニュートラル」な感情と面持ちで、

先生は応える。


「最近、ニーチェを読み始めました」


先生の口角が微かに上がる気配を感じる。


「狂人の書か」

「…残念な最期だったと聞いています」

「読む価値があるのかね」

「それは…」


冷めた珈琲を僅かに口に含み、

静かに皮肉な笑いを瞳に湛えている六十代。

私の専攻は哲学。

先生も哲学、

細かい分類で言えば形而上学に執心する変人(教授)だ。


「ニーチェはファッションではない。

 それはとても、非常に…重い課題だ」


今日は先生、珍しく言葉が多いな、とほくそ笑む私。


「今時ニーチェでもあるまい、

 彼は過去の人間だよ」

「先生、その理屈では全ての人間は過去になります」

「そうだ」


私は時々、この先生は冬…先生ではないか、と

錯覚してしまう。

顔、佇まい、その空気感が子供の頃に視た、

父の本棚に並ぶDVDに収録されたアニメーション、

その中の彼にとても似ているのだ。

今や確信に変わりつつあるが、

今はまだ…月先生と呼ぶのは止めておこう。

人間関係はそれほど進展していない。

今はこうして、相談に乗るフリをしてくれているだけでも

こちらとしては満足なのだから。


「君は今を学ぶべきだな」

「今、ですか」

「そう、今だ」


ふうっ、と息を吐く先生。

これは長文が来る気配。

期待せねば。


「未だ今を知らず、

 今も未だに今と言う瞬間に背を向け、

 私に問答を強請るとは困ったものだな」


…意外に短いな。

韻を踏みたいお年頃?

これは…禅問答なのか?


「強請る、とは少し違う気がします。

 私は先生の知識に惹かれる一学生ですから」

「殊勝な事を言う。面の皮が厚いな」

「誉め言葉と受けておきます」

「とにかく、ニーチェは時間の無駄だ」


今度は私が溜息返し。


「何故ですか」

「それは君」


先生は正面に向き直す。

その瞳は若干冷ややかに。


「ニーチェを読んでも所詮は空論、

 恋愛から得られる経験には勝てん」

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