冒険者志望の怪力姫は、夢患いの王に溺愛される
夢は冒険、趣味は乗馬。
好きな言葉は――「拳こそ全て」。
そんなお転婆姫にも、ついに年貢の納め時がやってきた。
生まれ育った常緑の国を発ってから、馬車に揺られること早ひと月。フレリアが辿り着いたのは、灼熱の太陽が容赦なく降り注ぐ砂漠の国、ザルカードだった。
(……いつまでも冒険だの何だの言ってられないってことくらい、分かってるけど)
ウォルフワーズ国王家の姫として生まれたフレリアは、つい先日、十七歳になったばかり。
花も恥じらう乙女盛り、と世間では言うらしいが、彼女の好みは少々――いや、だいぶ違っていた。
剣。拳。冒険。
汗と泥にまみれた、どう考えても男くさいものばかり。
腹違いでありながら同い年の末姫であるエリセリアは、聡明で物静か。誰もが見惚れるほどの美少女だ。茶髪に茶色の瞳という地味な見た目で、感情がすぐ顔に出るフレリアは、何かと彼女と比べられてきた。
「どこで育て方を間違ったのかしら」
母のそんな嘆きを聞くたび、フレリアは決まって言い返してきた。
「仕方ないじゃない。私は冒険者になりたいんだもの」と。
だが、現実はそう甘くない。
輿入れ話は、本人の意思などお構いなしに、あれよあれよという間に進められた。重たいドレスを着せられ、半ば押し込まれるようにして馬車へ乗せられると、
「落ち着いたら、手紙を書くわね」
片割れのように育ったエリセリアが、そう言って手を振ってくれた。
彼女もまた、北の国へ嫁ぐことが決まっている。
「イーラ国とザルカード国なんて、大陸の北と南じゃない。手紙なんて、いつ届くのよ!」
遠ざかる故郷へ向かってそうぼやいても、もう答えてくれる声はなかった。
そうして長い道のりを経て辿り着いた砂漠の国でフレリアを待っていたのは、唖然とする一言だった。
「……妻など、娶るつもりはなかったのに」
大河沿いに広がる、ザルカード国の王都アンバル。
青の星宮と呼ばれる宮殿で、夫となるべき青年――国王ジャハールは、そう言い残すと、すげなく背を向けたのだ。
というわけで今、フレリアは大変ご立腹である。
「なによ、あの態度! こっちだって、来たくて来たわけじゃないんだから!」
それなりに盛大な結婚式のあと。
余韻に浸ることもなく、白いドレスを脱ぎ捨てたフレリアは、行き場のない怒りを抱えていた。
本当なら、地団駄のひとつも踏み鳴らしてやりたいところだ。だがそんなことをすれば、床にひびが入るどころか、宮殿そのものが揺れかねない。
何を隠そう、フレリアには『怪力』というスキルが備わっている。
それが顕現したのは十二歳の頃。
以来、彼女は何事も拳で解決してきた。
城下町を牛耳っていた『おやつ盗賊団』の悪ガキたち。
畑を荒らす魔物の群れ。
そして、こっそり冒険者ギルドに通ってこなしてきた、数々の依頼。
彼女の無茶に拍車をかけたのは、一番懐いていた兄の存在だった。
やはり母親は違えど、彼は妹たちの面倒をよく見てくれた。訳あって、ここ最近は顔を合わせていないが。
さらにフレリアを苛立たせているのが、王宮付きの侍女や臣下の態度だった。
祖国ウォルフワーズは、肥沃な大地に恵まれ、作物が溢れんばかりに実る国だ。民の多くは農作業に勤しみ、汗水たらすことを厭わない。
それがどうやら、彼らから見れば「田舎くさい」らしい。
たしかに、格式に縛られた考え方や、社交界での回りくどいおべっかは苦手だ。
レースやリボンで何重にも着飾る装いは、古くさいと感じることもある。
だが、食は誰にとっても欠かせない重要なものではないか。しかもザルカード国は、その点でウォルフワーズを頼りにしているはずなのに。
(どうせ私は田舎者の山猿よ。泥にまみれて猪みたいに駆けずり回ってる方が、お似合いなのよ)
誰もそこまでは言っていないのだが――とにかくぷりぷりと腹を立て、用意されたナイトドレスに着替える。
コルセットでぎちぎちに固められた祖国の装いより、こちらのほうがずっと楽だった。
「……まぁ、ドレスの趣味は悪くないけど」
さらさらとした肌触りの生地は涼しく、なにより軽かった。
天蓋の垂れた大きなベッドに身を投げ出し、フレリアは大きなあくびを漏らす。
どうせ、夫はやってこない。
あれこれと初夜の作法について、真剣に悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
そう思いながら、彼女は目を閉じた。
翌日も、そのまた次の日も、ジャハールが寝所を訪れることはなかった。
それが何日も続けば、フレリアの耳にも宮廷に渦巻く声がはっきりと届くようになる。
「田舎くさい娘では、手を出す気にもなれませんわ」
「王妃の役目は世継ぎを生むこと。それなのに、この体たらくじゃ……」
ひそひそと交わされる嘲笑と非難。
だが、フレリアは気にしない。陰口など可愛いものだ。そこに哀れみが含まれていないだけ、まだマシだとすら思える。
とはいえ、言われっぱなしというのは、どうにも性に合わない。
ある日、わざと聞こえる距離で囁き合う侍女の群れを見つけると、フレリアはにこりと笑みを浮かべた。その笑顔は、凄んでいると言って差し支えないものだった。
「田舎くさい、だけで済んでよかったですわぁ」
甘ったるい声でそう言いながら、一歩近づく。
「なにしろ祖国では、馬糞でも牛糞でも平気で触ってましたから」
ほほほ、と上品に笑い、手をひらりと差し出す。
次の瞬間、侍女たちは小さな悲鳴を上げて散り散りになった。
その様子を見送りながら、フレリアは満足げに頷く。これが、最近のささやかな楽しみだった。
(私だって、このままでいいとは思わないけど)
冷え冷えの夫婦仲。それは構わない。
けれど、せめて夫である王の考えくらいは、聞いておきたいのだ。
世継ぎは必要なのか、そうでないのか。自分以外に娶りたい女がいるのか。
それともただ単に、そういう気がないだけなのか。
もし他に妻を迎えたいというのなら、それでいい。
自分に用がないと分かれば、白い結婚のまま、こちらはこちらでやりたいことが山ほどある。
(砂漠の冒険なんてのも、楽しそうじゃない!)
ザルカード国に広がる砂漠の地下には、古代の遺跡が眠っているらしい。
この国の歌や踊りも、どこか妖しくて魅力的だ。
王都アンバルだけでなく、さまざまな街を巡り、文化に触れてみたい。
新たに思い描いた未来に胸を弾ませながら、フレリアは立ち上がった。
向かう先はただひとつ。ジャハールの政務室である。
逃げ回っているのなら、こちらから会いに行こう。話し合いが必要なら、拳で道を切り開くまでだ。
(だって私は――怪力姫だもの!)
そう心の中で呟きながら、フレリアは足取りも軽く、回廊を進んでいった。
ザルカード国は、数年前まで圧政に苦しんでいた。
大臣の不正、貴族の腐敗。オアシスを巡る部族同士の内戦は激しさを増し、民は重税と飢えに喘いでいた。
それらすべてに終止符を打ったのが、現国王のジャハールである。
民の声に耳を傾け、ついに立ち上がった彼は、自ら武器を取り父でもある前国王を討った。即位したのは二十五歳の時。あまりにも若く、そして激烈な王の誕生だった。
ジャハールは、父と貴族たちが不当にため込んでいた金銀財宝を解き放ち、それを食料へと換えて民に配った。税は軽減され、荒れ果てた土地には人が戻り始める。
近隣諸国と同盟を結び、内戦に揺れていた国を次々と平定していったその手腕は、見事というほかなかった。
やがて民の間では、こんな噂がまことしやかに囁かれるようになる。
「王には、幸運の女神がついている」
そう言われるほどに、ジャハールは運に恵まれていた。
西の隣国で疫病が流行すれば、砂漠に寄生する植物が薬になることが判明し。
オアシスの街で内戦が起きれば、不思議な縁によって出会った冒険者と協力し、争いを収めることができた。さらにその冒険者が、北の隣国ウォルフワーズの王家に連なる者だったことで、食料支援の話も驚くほど円滑に進んだ。
友好の証として、その国の姫君を娶ることになったのは計算外だったが――。
とにかく、物事がうまく運びすぎていたのだ。
前王の時代があまりに悲惨だったこともあり、ジャハールは多くの国民から熱狂的な支持を受けた。
そしてそれは、政治的評価だけに留まらない。
彼の姿は、ザルカード国の女性たちをも虜にしていた。
すらりと伸びた長身。鍛え上げられた、褐色の身体。
砂漠に生きる男の逞しさを表したような肉体を持ちながら、長い睫毛に縁取られた目尻はどこか優しげだった。
瞳は、満月にも似た金眼。
ターバンの下に隠された長い黒髪は、夜のように艶やかだ。
その腕に抱かれることを夢見る女性は、この国に数え切れないほどいる。
王宮も例外ではない。仕えている侍女たちは皆、王のお手つきを今か今かと待ち望んでいた。
そこへ転がり込んできたのが、隣国から嫁いできた、田舎者の末姫である。
食料支援を願い出た手前、縁談を断ることはできなかった。
そもそもジャハールには、妻を娶る気などなかったのだ。
自分に必要なのは、国を立て直す力だけ。
夜を共にする相手など、余計な重荷でしかない――はずだった。
そんなジャハールの胸中などお構いなしに、フレリアは柔らかな笑みを浮かべたまま、彼の前に立っていた。
背筋を伸ばし、所作は完璧。姿だけ見れば、どこからどう見ても淑女そのものだ。
だが、彼はすでに知っている。フレリアが侍女たちの陰湿な嫌がらせにめげるどころか、見事にやり返していることを。
話を聞いた時は思わず口元が緩んでしまったが、いざこうして目にすると、強気な態度を見せる素振りはない。
(……いや。そうでもないか)
結婚式の折、こちらを射抜くように見上げてきた視線を思い出す。
愛想笑いの奥に隠された、獣じみた強さ。隠しているつもりだろうが、この少女は相当に我が強い。
本人に対し「娶るつもりはなかった」とは、我ながら酷い言い方をした自覚はある。下手に期待を持たせるよりは、突き放すべきだと思ったのだ。
もっとも、彼女を取り巻く環境については、改善すべきだとも考えているが。
「……何の用だ」
口を開けば、声は自然と冷たくなった。
「ご機嫌伺いに参りましたの。結婚式以来、お顔を拝見しておりませんでしたから」
「それは嫌味か?」
「めっそうもございません。でも、そうお受け取りになられるのなら……なにか、思い当たるふしがおありなのかしら?」
新婚夫婦の会話とは、とても思えない応酬だ。控えていた臣下たちが、目を泳がせ、息を詰めているのが分かる。
ジャハールは、わざとらしく溜息を吐いた。それでもフレリアは引かない。
「私たちの結婚が、国同士の取り決めであることは承知しております。ですが、このように邪険にされては……私も、さすがに悲しゅうございます」
「……そんなふうには見えんがな」
「あら。では、めそめそと悲しむ顔の方がお好みでしたかしら?」
口の減らない女だ。
同時に、こうして誰かと軽口を叩き合うのは、随分と久しぶりだった。胸の奥に、わずかな楽しさが灯る。
そんな自分に気づき、ジャハールは表情を引き締めた。
机を、指先でとん、と叩く。
「こんな話をするために、わざわざ政務室まで来たわけではあるまい」
冷静な声を装いながら、金色の瞳でフレリアを見据える。
「――要件を言え。王妃」
臣下たちが小さく息を呑んだ。
フレリアは一瞬だけ目を瞬かせ、そして、にっこりと笑う。まるで、これから冒険の依頼でも持ちかけるかのような朗らかさで。
「夫として、あなたが何をお考えなのか。きちんと、お聞かせくださいませ」
フレリアの問いに、ジャハールはすぐには答えなかった。
ほんの一瞬。
考え込んだ、というより、呼吸の間を失ったような沈黙。
そのわずかな変化に、フレリアはいち早く気づいた。
(……あれ?)
金色の瞳が、かすかに揺れている。
光の加減ではない。焦点が、ほんの少しだけ定まっていないのだ。
フレリアは、まじまじとジャハールの顔を見つめた。
(このひと……クマがひどいわ)
褐色の肌のせいで気づきにくかったが、目の下には濃い影が落ちている。
こめかみに指を当て、わずかに顔をしかめる仕草も、どこか不自然だ。
唇の色もよくない。
「……大丈夫ですの? どこか、お加減が悪いのでは」
眉をひそめてそう尋ねると、
「問題ない」
即座に返された声は、きっぱりとしていた。
だが、その言葉とは裏腹に、机を叩いていた指先がぴたりと止まる。
先ほどまでの余裕が、確実に削がれている。
空気が、重くなった。
政務室の奥、風を通すために開け放たれていた窓から、乾いた風が吹き込む。
砂漠の熱を含んだ空気が、肌を撫でた。
それなのに。
フレリアの背筋を、ぞわりとしたものが走る。
「……陛下?」
呼びかけた、その瞬間。
――ガン。
低く、鈍い衝撃音が、政務室に響いた。
拳ではない。ジャハールの膝が、机の脚にぶつかった音だった。
「……下がれ」
掠れた声が、命令として落ちる。
「全員、下がれ!」
臣下たちは判断に迷ったが、すぐに慌ただしく頭を下げ、政務室を後にした。
「ちょ、ちょっと!?」
「……おまえもだ」
遮る声は、低く、短い。
「だって、放っておけるわけないでしょう!」
「下がれと言ったはずだ!」
明確に拒絶され、フレリアはその場で足を止めた。
「……そーですか」
ぽろりと声が漏れた、次の瞬間。
握りしめた拳を、机へと叩きつける。
重厚な木材が悲鳴を上げ、いとも簡単にふたつに割れた。
「人が心配してるのになによ!」
フレリアは繕っていた淑女の仮面を、かなぐり捨てて叫ぶ。
「もう知らないんだから!」
そして踵を返し、大股で政務室を後にした。
背後で、呻くような息遣いが静かに響いていたことに、気づかないまま。
その夜。
薄明かりの灯る廊下を、フレリアは忍び足で進んでいた。
向かう先は王の寝所。昼間に見たジャハールの様子が、どうしても気にかかっていたのだ。
あくまで、様子を見に行くだけ。そう自分に言い聞かせながら、彼女はひっそりと足を運ぶ。
「寝所には、決して近づくな」
それは、王や侍女から、しつこいほど聞かされた忠告だった。当初は、夜の相手をしなくていいと気楽に思っていたが――。
(……やっぱり、気になる)
あれほど濃いクマを作るまで、一体何をしているというのだろう。
まさか、大勢の女を侍らせ、色事に耽っているわけでもあるまい。実際、侍女のひとりをとっ捕まえて問い詰めたところ、王のお手つきになった者はいまだにいない、という話だったのだから。
(それにしても)
フレリアは周囲を見回す。
香油で整えた髪が揺れ、甘く濃厚な香りが夜気に溶けた。
(王様の寝所ってわりに、警備が全然いないんだけど……大丈夫なの?)
衣擦れの音すら立てぬよう歩いてきたが、人の影はひとつも見当たらない。
自分の部屋の外には二人も侍女が配置されていたというのに。そのせいで、今夜は窓から抜け出す羽目になったというのに。
王の寝所は、大河を臨む小高い崖の上にある。窓側から中を覗くことは不可能だった。
こっそり様子を見るのは諦め、彼女は真正面突破を選ぶ。
(どうせ、すぐに追い返されるんだろうけどね)
長い廊下の奥で、フレリアは足を止めた。目の前にある寝所の扉は厚く、内側からしっかりと施錠されていた。
「夜分にすいませーん。フレリアですけどぉ」
猫を被るのも面倒になり、ノックとともに投げやりな声をかける。
返事はない。
もう一度、さらにもう一度。それでも応答はなく、諦めて引き返そうとした、その時だった。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえてくる。
悲鳴にも似た呻き声。
間違いない。ジャハールのものだ。
「な、なに……この声……」
これほど分厚い扉越しに漏れ聞こえるのだ。中では、叫びに近い声を上げているに違いない。
ただ事ではない。フレリアは血相を変えた。警備を呼ぶよりも先に、身体が動く。
「入るわよ!」
ぐ、と扉に手をかけると、それだけで内側の鍵が砕けた。頑丈な金属製の錠が、バキンと乾いた音を立てて壊れる。
大理石の敷かれた広い寝所には、大きなベッドと最低限の家具しか置かれていなかった。月明かりを反射する床は、ひどく冷たく、寂しささえ感じさせる。
フレリアはベッドへと駆け寄ると、そこに横たわる男の顔を覗き込む。
「ねえっ、大丈夫!?」
寛げられた胸元を掻きむしり、荒い息を吐きながら、ジャハールは苦悶の表情を浮かべていた。
だが、確かに眠っている。
この状態を“眠っている”と言えるのなら。
「いま、人を呼んでくるから……!」
そう言って、宙を彷徨う彼の腕を掴んだ、その瞬間。
(……あ、れ?)
視界が、ぐらりと揺れる。
抗えぬほどの睡魔が、一気に押し寄せてきた。
意識が急速に遠のいて、フレリアはそのまま闇へと落ちていった。
まるで、彼の夢の中へ引きずり込まれるように。
(……今日は、ノクティリカか)
ジャハールは、終わりのない夢を彷徨っていた。
どれほど走っても、光は見えない。切り立つ岩山が、行く手を阻んでいた。
踏みしめる地面には白い雪が降り積もっているのに、寒さは感じられなかった。
背後からは、無数の魔物が迫ってくる。
大きく裂けた口。赤黒い舌と鋭い牙。てらてらとした涎を垂らしながら、獲物を逃すまいと群れをなして追い縋ってくる。
(昨日は……エルフの国の迷宮だったか)
曲刀を煌めかせ、振り返りざまに斬り払う。襲いかかってきた魔物は、断末魔とともに黒い霧へと変じ、跡形もなく消えた。
最初に見た夢は、王宮の一室だった。
そこで彼は、歪に変貌した前王を、この手で斬り捨てた。
現実と、悪夢。二度にわたって、ジャハールは父を殺したことになる。
一昨日の夢の内容は、もう思い出せない。今夜のことだって、数日もすれば忘れてしまうだろう。
毎夜、悪夢を見るたびに。
(いつまで続く)
うんざりする時期は、とっくに過ぎていた。今あるのは、ただ夜をやり過ごすための虚無だけだ。
背中に噛みつこうと跳びかかってきた魔物を、一太刀で切り伏せる。
そこでジャハールは、違和感を覚えた。
ふと何かが、自分の内側へと落ちてきたような感覚。
少し遅れて、
「きゃあっ!」
聞き覚えのある声が、耳をかすめる。
はっと振り返ると、雪の上に尻もちをついた少女の姿があった。
「なっ――なぜ、お前がここに!?」
ジャハールは思わず叫んでいた。そこにいるはずのない存在へと向かって。
あまりに予想外の光景に、思考が一瞬止まる。
その隙を突いて、新たな魔物が牙を剥いた。
「後ろ!」
「――くっ!」
反射的に刃を振るい、魔物は霧と化す。
少女は大きな瞳をさらに見開き、胸元できつく両手を握りしめていた。
身体が、わずかに震えている。
無理もない。
フレリアは気が強い女だ。だからといって、訳も分からずこのような場所に放り込まれて平気なわけがない。
「くそっ、話はあとだ!」
そう吐き捨てると、ジャハールは恐怖に竦む少女へ手を差し伸べる。
「とにかく、お前は俺の後ろに――」
「分かったわ!」
即答した彼女の声は、歓喜に溢れていた。
ジャハールは、ひとつ重大な思い違いをしていたのだ。
「あなたの背中を、私が守ればいいのね!」
「……は?」
呆気にとられる青年を横目に、フレリアは勢いよく立ち上がる。
ふっと吐き出された息とともに、パァン! と拳を打ち鳴らした。
全身を、武者震いさせながら。
フレリアの勢いは凄まじかった。
押し寄せる魔物を拳で受け止め、投げ捨て、殴り飛ばす。まさに八面六臂の活躍だ。
戦術も戦法も滅茶苦茶で、素人の無茶にしか見えない。
だが、繰り出される拳の威力は、歴戦の強者をはるかに超えていた。
魔物は悲鳴を上げる間もなく霧となり、雪原に黒い影を残して消えていく。
おまけに、
「え? ここから出たいの?」
混乱するジャハールをよそに、フレリアはあっけらかんと言った。
「じゃあ……このあたり、殴ってみようか」
「待て、何を――」
止める間もなかった。
フレリアが拳を振り抜くと、ジャハールを閉ざしていた岩の壁に、轟音とともに風穴が開いた。たった腕一本、それだけで。
粉塵が舞い、向こう側から白い光が差し込む。
言葉を失うジャハールを振り返り、フレリアはにっと笑う。
「じゃ、お先に!」
そう言って彼女は、迷いなく穴へ向かい歩き出した。
ジャハールは呆然と立ち尽くすが、すぐ我に返ると、小さな背中を追って飛び込んだ。光の先へと。
そして――気がつけば、目を覚ましていた。
胸の上に、温もりがある。
視線を落とすと、フレリアが突っ伏すようにして頭を預けていた。
「うぅ~ん……」
むくりと身を起こした少女は、深い琥珀色の瞳を眠たげに擦る。
「ああ……おはよーございまふ……」
大きなあくびのせいで、言葉の端に吐息が混じった。
「……おはよう、ではないな」
ジャハールは苦笑しながら、窓の外を見やる。
外はまだ暗く、頭上には月が静かに輝いていた。
悪夢に苛まれてから、こんなことは一度もなかった。いつもなら、目が覚める頃にはすでに太陽が昇りかけており、満足に眠れた試しなどない。
けれど、今夜は違う。あの悪夢から、自分は確かに抜け出したのだ。
その事実に、思わず笑い出したくなった。
フレリアはベッドの上にぺたりと座り、乱れた髪を手で整えている。艶やかな長い髪から、ほのかに甘い香りが漂い、鼻先をくすぐった。
先ほどまで悪夢の中で魔物と戦っていたとは思えないほど、何事もなかったかのような仕草。表情にも、恐怖の色は微塵も感じられない。
「……恐ろしくないのか?」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
「なにが?」
「おまえも見ただろう。俺の悪夢を」
ジャハールは、視線を落とす。
「それなのに……どうして、そんな平気な顔でいられるんだ」
胸の奥に溜め込んできたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
ぱちぱちと目を瞬かせる少女を見つめると、彼はついに、自らの真実を語り始めた。
『夢患い』
ジャハールがその特殊なスキルを顕現させたのは、父を殺した夜のことだった。
選ばれし者にだけ宿るという、スキルと呼ばれる力。多くは生まれながらに備わるものだが、赤ん坊の頃から発現する者もいれば、フレリアのように成長してから現れる者もいる。その時期は、人によってまちまちとされた。
そして、ごく稀に。
一部のスキルは、他人に移ることもあるという。
ジャハールの『夢患い』が、もともと彼のものだったのか。
あるいは、父から移ったものなのか。
それは彼にも分からない。
ただひとつ確かなのは、あの夜からずっと、悪夢に苛まれ続けてきたということだ。
『夢患い』の効果は、極めて特殊だった。
悪夢を見る代償として、幸運が齎される。
夜毎闇に引きずり込まれ、さまざまな場所で、さまざまな悪夢を見る。
魔物を倒せば、翌日は決まって幸運が訪れた。終わりのない遊戯を生き抜いた報酬のように。
厄介なのは、その範囲が自分だけに留まらないことだった。
触れた相手までも、夢に引き込んでしまうのだ。
それを知って以来、ジャハールは妻を娶る気にはなれなかった。
以前、スキルの鑑定士から聞いた話がある。過去に『夢患い』を持った男が、ある朝、無残な姿で死んでいた――そんな記録が、一件だけ残っているという。
男は、きっと夢の中で魔物に喰われたのだ。
いつか自分も、悪夢に追いつかれる日が来る。
そう、思っていた。
「なるほど。あなたの幸運は、スキルの力だったってことか」
フレリアは、あっさりと言った。
「……見損なったか?」
がっかりされたような気がして、ジャハールは自嘲する。
あの頃の自分にとって、この幸運は何よりの力だった。
国を立て直すためなら、使えるものはすべて使う。いずれ悪夢に堕ちる身ならば、とことん利用してやろうと。
「別に。私だって、怪力のスキルには散々お世話になってるし」
フレリアはそう言うと、なぜか口元をむずむずさせながら、ぐっと距離を詰める。
「ところで。そのスキルって、消すことはできないの?」
「さあな……一説には、夢に住まう悪魔を倒せば消えるとも言われているが」
怪訝に思いながら答えると、彼女は「うっふふ♡」と甘ったるい声を漏らした。
「じゃあ、これからは私が一緒に寝てあげる」
「……なぜ、そうなる」
本当に話を聞いていたのか。
ジャハールの胡乱な視線も気にせず、フレリアは続ける。
「だって、そうすれば私は毎晩冒険できるし、あなたは悪夢を早く終わらせられる。一石二鳥でしょ?」
ぱっと花開くような笑顔。
その瞳は、夜空の星のようにきらきらと輝いていた。
人が長年苛まれてきた悪夢を、こうも軽やかに越えてみせるとは。
「……お前となら、いつか悪魔だって倒せるかもしれんな」
「でしょ?」
「簡単に言ってくれる」
呆れたように息をつきながらも、ジャハールは思った。
共に夜を歩んでくれる者がいるなら。
それは、決して悪くない。
「私があなたを守ってあげる。この拳でね」
ひどい殺し文句だ。
胸の奥に熱いものが込み上げて、思わず手が伸びた。
柔らかな頬に触れ、間近で息を感じる。
フレリアはぴたりと動きを止め、次の瞬間、顔を真っ赤にした。
「な、な、な――」
「……さっきまであれだけ喋っていたのに、こういう時は静かなんだな」
照れ隠しに視線を逸らすその仕草が、ひどく愛おしい。
「は、はじめてなの! 慣れてないんだから、しょうがないでしょ!」
思わず、喉の奥で笑いが零れた。
「いい」
低く、穏やかに告げる。
「ゆっくりでいい。夜は、まだ長い」
月明かりの中、ゆっくりと影が溶けていく。
それは初めて訪れた、ふたりだけの静かな時間だった。
翌朝。
壊れた錠に気づいた侍従が慌てて寝所を覗くと、そこには身を寄せ合って眠る、王と王妃の姿があった。
それからというもの、王はフレリアとともに夜を過ごすようになった。
田舎者と揶揄された怪力姫は、王からの愛を一身に受ける王妃となり、傍らで彼を支え続けることとなる。
そして――今宵もまた、寝所の扉が閉じられる。
その奥で交わされるのが、甘い睦言なのか。
あるいは、果てしない冒険なのか。
それを知る者は、ふたりのほかに誰もいない。




