第一話 スタートブロックに立つ
―― なんで、こうなってしまったんだろう。
最後のインターハイ予選の朝。
自宅のベッドで、右足のギプスを見つめたまま、ため息をついた。
***
四月。放課後のグラウンド。
スタブロにスパイクをかける。
深呼吸。背すじを伸ばす。
心臓がうるさい。でも、動ける。
「このままタイムをキープできれば、推薦はちゃんと届くよ」
椎名コーチがそう言いながら、マタニティウェアの上からお腹をなでていた。
二年の秋季大会で12秒ちょうどを出した。
先輩のベストを更新して、部の中でも「推薦が見えてきた」って噂になって。
―― 次の0.01秒が、景色を変える
そう思って、私は走っていた。
「よし、いける」
勢いよく、踏み出した。
***
「よし、今日はここまで。ダウン、四周ねー」
スタブロを片づけて、呼吸を整える。
フォームは悪くない。バランスもいい。
外周のジョグに出ると、後ろから声がかかった。
「……やっぱさあ、彩花には全然追いつけないんだよね」
美空だった。
タオルで額を拭きながら、ため息ひとつ。
「最近、タイム伸びてるじゃん」
「そりゃ、誰に入部させられたと思ってんのさ」
美空とは、入学してすぐに知り合った。
一緒にお昼を食べて、なんとなく一緒に帰って。
陸上部には、私が連れていった。
「え、走るの苦手なんだけど……」
なんて言ってたのに、今じゃ中距離の主力。
100mにも出てきてる。
しかも、どんどん速くなってる。
「入部したてのころ、虫に追いかけられて、コース逆走した子とは思えないよね」
「その話、まだ言う!?」
笑い声が、グラウンドをまわった。
***
「集合〜、靴ひもゆるめていいよー」
コーチの声で、みんながベンチの方へ向かう。
春の空気。軽い疲労感。
わりと、好きな時間。
「今日はいい練習でした。三年生は特に、一歩ずついこう」
「はいっ」
声がそろう。
コーチがちらっと隣を見る。
「それと、今日は珍しく顧問の先生が来てくださってるので……先生からもひと言お願いします」
全員がブレザー姿の大河原先生を見る。
歴史教師。運動経験ゼロの名ばかりの顧問。
「えっ……私? あぁ……はい。えーと……」
先生はメガネを上げて、一呼吸おいた。
「走ることはまったく分かりませんが……ケガには気をつけて。はい。それがいちばん……です」
「先生、それ毎回言ってます」
「でもまあ、安心はするかも」
笑いが出る。
コーチがうなずいて、話を続けた。
「じゃあ、もうひとつだけ。出産の予定が、インターハイ予選と重なっていまして……その頃は、グラウンドに来られません」
「だよね〜! お腹けっこう目立ってきてるし」
「赤ちゃん、何月生まれ?」
「5月末。ちょうど予選とバッティングですね」
「その間は、大河原先生と、キャプテンと、三年生でお願いします」
「……大河原…先生?」
爆笑。
先生は咳払いをひとつして、言った。
「……ま、まぁ……そのときは、たぶん、君たちのほうが詳しいと思うので……よろしく、です。はい」
また笑いが広がった。




