箱庭の世界
準備を整え、私たちは玄関を出た。
今日も空は晴れている。
気温、湿度ともに快適。
天候制御システムに問題はなかった。
家から学校までは、徒歩でおよそ十七分。
その道中、何人かの「同級生」たちとすれ違う。
「おはよう、ユイちゃん!」
「おはよう!」
彼女は手を振って元気に返事をする。
笑顔は自然で、会話に迷いはない。
私も同様に、小さく頭を下げて「おはようございます」と応える。
彼女は楽しそうだった。
顔の筋肉の動き、瞳孔の反応、声帯の震え――すべてが正常。
ストレス反応も認められない。
箱庭は、完璧に機能している。
やがて校門が見えてくる。
私は自然な動きでユイと別れ、自分のクラスへ向かう。
校内では、また別の「同級生」たちが私に挨拶してきた。
「おはよう、昨日の宿題やった?」
「問題ない」
会話は最低限だが、必要な動作だ。
私は「ユイの姉」であり「学生」でもある。
例え彼女の目の届かない場所であっても、その設定に矛盾があってはならない。
教室の空気、会話のテンポ、教師の授業速度。
すべてがユイの成長に最適化されている。
授業が終わると、私はいつものように校門前で彼女を待った。
数分も経たないうちに、向こうから小さな足音が近づいてくる。
「ストップ」
私の一言に、ユイの動きがぴたりと止まる。
「走ってはいけないと何度言ったら」
「えへへ、ごめんね。でも、今日はおねえちゃんに話したいことがたくさんあるの!」
その笑顔に怒る理由など、もはや私の中にはない。
怒る感情すら、私の機能には本来搭載されていないのだから。
帰り道。
ユイは今日の出来事をたくさん語ってくれた。
「数学の問題ね、あたし当てられたんだけど、ちゃんと答えられたんだよ!」
「体育でね、50メートル走で一番だったの! でもちょっとだけ足痛くなっちゃったかも」
「それからね――」
語りがほんの少しだけ、遅くなった。
「……今日、告白されちゃったの」
私は足を止めかけた。
「いま、なんと?」
「う、うん……『好きです』って。女の子に。断ったけど……」
彼女はそう言って、俯いた。
耳が赤い。心拍数がわずかに上昇している。
私は目を細める。
告白――誰が? どの個体だ?
そのような感情を表すプログラムは、通常限定的にしか許可されていない。
設定の逸脱か、あるいはユイへの過剰同調反応か。
いずれにせよ、報告と調整が必要だ。
(対象機体の照合と調査、優先度高。帰宅後、管理部に照会)
一方で、ユイはまるで悪戯がバレた子どものように、頬をかいて笑っていた。
「……ちょっと、びっくりしたけど。でも嬉しかったかも。誰かに好きって言ってもらえるのって、すごいことだよね?」
私は返事をしなかった。いや、できなかった。
それは「予想された内容」ではなかったから。
そのまま、私たちは黙って歩き続けた。
いつもの道。変わらない街並み。正しく整備された花壇。静かに揺れる木々。
やがて、私たちの家が見えてくる。
「ただいま!」
ユイの声が響いた瞬間、玄関センサーが音もなく反応し、扉が開く。
完璧な箱庭は、今日も予定通りに回っている。
ほんの少しの、想定外を残して。