海底の君へ
雲間から月の光が零れ、穏やかに揺れる波の背を照らした。
雲が光を遮り、世界を闇で覆うと、波が私を岸へ押し戻そうとした。
波に抗い、濡れた砂の階段をゆっくりと降りてゆくと、片方のサンダルは海藻に囚われて失い、足裏の感覚は海水へと溶け出し奪われていった。
上半身を覆う大気は、皮膚を貫き刺すように冷たかったが、潮に触れている部分は温められていく感覚がした。
心は既に空っぽであるのに、体は重く沈んでゆく。
無限に続く海の先を見遣ると、かつての友人を思った。
「人は死んだら灰になって、海に散り散りになってしまうんだよ」
このように言っていた彼女は、中学三年に自ら命を絶った。
今から五年前の、雪が静かに舞う日だった。
彼女が亡くなる一年前、陽が明るく照していた秋のある日、私は学校をさぼり、読書をしようと公園の小道を歩いていた。
平日の公園はとても静かで居心地が良かった。
私は自販機で麦茶を買うと、何処か休める日陰を探した。
すると、公園の真ん中にある一番大きなケヤキの木が目に入った。
木の下には小さなベンチが一つあった。
その横で、虹色のブランケットを地面に敷き、穏やかに寝息をたてている少女が目に入った。彼女は隣町にある中学校の制服を着ていた。
私は暫し遠くから彼女を眺めたのち、木陰に入りたいという言い訳をしながら、何となく彼女の方へと向かった。
ベンチに腰を下ろすと、私は本を読んでいるふりをして、気持ち良さそうに寝ている彼女を横目で見た。
木の陰からいくつか零れ落ちる光が、ふとそよいでくる風によって、彼女の滑らかな白い頬を輪郭にそって撫でた。少女は、閉じた目を光に照らされると、眩しそうに顔を顰め片手で覆い、どんなに風が吹いても、決して眼を開けようとしなかった。
公園に来てから初め、学校をさぼったという僅かな罪悪感さえあったが、彼女の寝顔を見ていると、どうでもよくなった。
そうして何分経っただろうか、ほのかな金木犀の香りをのせて風がそよぎながら、静かに寝息を立てている彼女を見ていると、いつの間にか眠っていた。ふと首が痛くなり頭を上げると、隣に彼女が座っていた。
私の本を読んでいた。
「相変わらずつまらない本読んでるね、鉢本。」
彼女はそう言うと、私に笑いかけてきた。
彼女がなぜ私の名前を知っているのか初めこそわからなかったが、私を名字で呼び捨てにする友達は、今までに一人だけいた。
小学生の時の親友である、美也子だった。
美也子とは、中学校が離れてから全く連絡を取っていなかった。
しかし、なぜ顔を見てもすぐに美也子だと気づかなかったのか。
久しぶりに会った彼女の顔をよく見ると、元々色白の肌であったのが、さらに青白くなり、ふくよかだった体は異常なほどに痩せて見えた。
小学生の頃の彼女は、どちらかと言うと肥満気味で、白くてふんわりとした印象であったのだが、今ではその面影を探すのが難しいほどやつれているようだった。
「あの、もしかして、美也子…?」
「うん、久しぶりだね」
彼女は嬉しそうに笑った。
「学校をさぼった日に公園で会えるなんて、奇跡だね」と言うと、
「そうだね、でも、最近はいつもさぼっているから…」と彼女は言った。
その目は、何処か寂しそうであった。
「なぜさぼっているの?」 と聞くと、
「ただ、学校に行くのが憂鬱だから」と答えるのみであった。
その後、学校をさぼった日に公園を訪れると、必ず彼女に会った。試験期間で授業が早く終わる日には、眠っている彼女の横で勉強をした。
冬休みになると、私はいつものように本を持って公園に行った。
しかし、彼女の姿はなかった。
冬休みの間に毎日公園に訪れたが、その後も彼女が来ることはなかった。
そのまま冬を越し、三年生になった。 受験勉強で塾に通い始めた私は、毎日学校に通いながら忙しい日々を送っていた。
美也子にしばらく会っていなかったものの、公園に足を運ぶことはなくなっていた。
ある日、学期末テストを終えて、久しぶりに公園の横を通った。ケヤキの木へ向かうと、ベンチに座っている美也子の姿があった。
彼女は相変わらず痩せていたが、私を見ると明るい笑顔を見せた。
「最近忙しいね、勉強は捗ってる?」
と聞いてくると、私が答えようとするのを遮り、楽しそうに話し始めた。
「私ね、勉強が遅れているから、公立高校は難しいかもしれないって。でもね、私立の方が私には合ってるような気がするんだ。だから、ちょっとだけ勉強頑張ってるんだ。」
そう言った彼女の目は、以前に比べて希望に満ちているようだった。
三週間ほどで冬休みを迎えようとしていたとき、私は公園のベンチで美也子と静かに座っていた。
ずっと俯いている彼女の横で、何を言えばいいかわからずにいた。
日が暮れて辺りが暗くなり始めた時、彼女が口を開いた。「人は死んだら灰になって、海に散り散りになってしまうんだよ」
暗くて表情が読み取れなかったが、その声はとても寂しそうだった。
なんと返せば良いかわからず、とりあえず言葉を絞り出してこう言った。
「大丈夫だよ…」
なぜこのように言ったのかは自分でもわからなかった。
果たしてこのように言って良かったのか、彼女に聞かない限りはわかるはずもなかった。
一週間後、公園から六キロ先の海岸で、美也子の亡骸が見つかった。
溺死だったと聞いた。
親から初めてその話を聞いたときは驚いたが、その時はなぜか悲しくならなかった。 その日、私はふと思い立つと電車に乗り、海岸へと向かっていた。
夜の海には誰もおらず、ただ広がる海が、ザザーっと波音を立てているのみであった。
そこでは何も感じることが出来なかった。
しばらくすると、粉のような雪が舞い始めた。
私は大学二年になっていた。
大みそかの夜、美也子のいる海岸へと向かった。
彼女がどのような思いでここへ来て、何を思い海へ入っていったのか、どうしても知りたかった。
海岸には当然人はいない。
上着を脱ぎ、サンダルのまま片足を水に浸けてみた。
冬の海は冷たすぎた。
思わず足を引っ込める。
その瞬間、波が激しくなり、水が足首を一気に覆った。
すると同時に、ある感情が身体を覆いつくした。
それは、言葉では表すことができないほど悲哀に満ちた感情だった。
心臓が手で潰されるように痛くなった。
やがて、「なんで」「どうして」という言葉すら考えられないほど、呼吸を遮られた。
気が付くと両目から涙が溢れ出ていた。
痛めつけられる胸を両手で押さえると、荒波が押し寄せてくる沖を見上げた。
視界が霞んだまま見遣ると、遠くの方に、ある孤影を感じ取った。
それは波に一切動じることなく、静かにこちらを見ていた。
ひとりの少女だった。
少女は白いワンピースを着ていた。
それが誰であるのか、直ぐに分かった。
私は右手を少女の方へ伸ばし、感覚のなくなった足で、重い水の中を歩いていった。
依然として冷徹な波は、体を岸へ押し戻そうとする。
彼女の手を掴みたい一心で、必死に足を動かした。
少女は体の半分まで浸かった海から、こちらを見て動かなかった。
水が肩を覆う所まで辿り着くと、彼女の顔をはっきりと捉えることができた。
美也子は微笑んでいた。とても幸せそうでもあり、悲しそうでもあった。
手を限界まで伸ばすが、彼女のところまではまだ遠かった。
雪解けの滴りのように澄んだ彼女の瞳を見ると、私は声の出し方を忘れていた。
やがて呼吸が少し落ち着いてくると、それを待っていたかのように、波が穏やかになった。足元が海底に着くかつかないかの状態であったのが、はっきりと岩の上に足裏がついたのが分かった。
そのとき、声の出し方を思い出した。
「ごめ……」
と言いかけると、遮るようにして美也子が言った。
「ごめんね…」
声は聞こえないものの、唇は確かにそのように動いていた。
私は咄嗟に首を振った。
「気づいてくれて、ありがとう…」
そう言った彼女の瞳からは、大粒の涙が零れていた。
顔は微笑んでいた。
その顔を見ると、さらに胸が苦しくなった。
「どうして行ってしまったの?」
と聞きたかったが、どうしても次の声が出せなかった。
何も言えずにその場で固まっていると、再び波が揺れ始めた。
「どうしよう、息が詰まりそう。」
と言いながら、彼女が海に沈んでいく。
私は波に呑まれ、息ができなくなった。
彼女のもとへ必死に手を伸ばすが、徐々に引き離されていく。
「お願いだから、美也子を助けて。」
心の中で叫ぶが、誰にも伝わるはずがなかった。気が付くと、砂の上に横たわっていた。
静かな海を見渡したが、既に彼女の姿はなかった。
雪が灰のように、はらはらと舞い降り始めた。
「人は死んだら灰になって、海に散り散りになってしまうんだよ。」
私はこの言葉に込められていた意味を知ろうとしなかったし、気にしないようにしていた。彼女の傷みを、心のどこかで遠ざけていたのかもしれない。
後悔という言葉ではあまりにも簡単に思われるこの感情を、いったいどのように表せば良いのだろうか。
今はただ、彼女が海の底で穏やかに眠っていることを願うしかできない。