コンピューター係
「あー、君、君」
「……はい」
朝、出社して早々に嫌な気分になった。この上司はいつもおれにつまらない仕事ばかりさせるのだ。
「この書類をマルニカさんのところに届けてくれ」
やっぱりだ。『マルニカ』は隣駅にある会社。もっと遠いところがよかったのに。だが、もちろん断れるはずもない。おれは仕方なく封筒を受け取り、オフィスを出た。
会社から少し離れると、歩くペースを落とした。こうなったら、なるべく時間をかけてやろう。幸い、天気もいい。おれは悪くない。真面目だし、つまらない仕事を振るほうが悪いのだ。
そんなふうに考えながら歩いていると、後ろから足音が近づいてきた。
「お先!」
「あっ、おう……」
駆け抜けていったのは、やはり同僚だった。たぶん駅へ向かったのだろう。電車かタクシーを使うつもりなのか知らないが、あの生き生きとした背中。きっといい仕事を振られたに違いない。羨ましいな。
あ、しまったな。のんびり歩いていたのを後で揶揄されるかもしれない。
仕方なく、おれも少しペースを上げた。
隣駅に着くと、おれは目的地とは逆方向へ足を向けた。
住宅街をしばらく歩いていると、喫茶店が目に入った。ちょうどいい。ドアを開けると、カランコロンと小さなベルが鳴り、コーヒーの香りがふわりと漂ってきた。
駅から離れているし、ここなら同僚に出くわすこともないだろう。おれは席に座り、ナポリタンとコーヒー、それからミルクセーキを注文した。
店内にはジャズが流れている。曲名はわからないが、濃いブラウンの内装とよく調和していた。壁には古い映画のポスターが飾られ、オレンジ色の照明が落ち着いた雰囲気を作り出している。
おれは灰皿を引き寄せ、ラバコに火をつけた。他のテーブルからもほのかな煙が立ち上り、コーヒーの香りと混ざり合って、モダンな雰囲気を演出している気がする。よし、気に入った。ここを隠れ家の一つにしよう。
ゆっくりと時間を過ごしたあと、おれはようやくマルニカへ向かった。
到着すると応接間に案内された。小さな会社らしい、こぢんまりとした応接間だ。棚にはワインやブランデーが並んでいるが、中身が本物かどうかは怪しい。どこの会社も見栄っ張りだ。
「すみません、お待たせして。この時期は忙しくて」
「ええ、わかりますよ。うちもそうですから」
おれはそう言い、担当のウエダという社員と笑い合った。
「こちらが例の書類です」
「確かにお預かりしました。では、こちらをどうぞ」
封筒を交換し、握手を交わした。
「ふーっ、と、あ、それでは私はこれで。会社に戻って片付けなければならない仕事が山ほどありましてねえ、ははは」
ついソファに深く座り込んでしまったおれは慌てて立ち上がった。ウエダは「ええ、わかります」と言いながらドアを開けてくれたが、口元には笑いをこらえたような気配があった。実は暇なことがバレたのかもしれない。失敗した。
おれは顔が熱くなるのを感じながら、足早にマルニカを後にした。あのソファが悪い。座り心地が良すぎて、つい喫茶店気分でだらだらしてしまいそうになった。
「ただいま戻りました」
「おう、おかえり。で、預かってきたものは?」
「はい、こちらです」
会社に戻るなり、上司に封筒を手渡した。上司は封筒をしげしげと眺めたあと、ニヤッと笑った。
「……これ、君がコンピューターに打ち込んでみるか?」
「え! い、いいんですか!? ぜひ!」
おれは飛び上がりそうになった。会社に一つしかないコンピューターを操作するのは、おれたちサラリーマンにとって、大変名誉な仕事なのだ。
おれは上司とともに地下のコンピューター室へ向かった。階段を下りるにつれて、ひんやりとした空気が肌を撫でた。コンピューターは分厚い扉の向こうでひっそりと鎮座していた。
「キーボードはそこだ。コンピューターと繋がっておる」
「は、はい!」
部屋の隅を指差され、おれは緊張しながら席に座った。机の上に書類を広げ、キーボードに指を構える。
「ああ、落ち着け。まず左右一本ずつ指を立てるんだ」
「わ、わかってますよ」
「おいおい、小指でやろうとするな。それは君にはまだ早い。人差し指にしなさい」
上司が後ろから覗き込みながら細かく指示を出すので、仕方なくおれは人差し指を立てた。
「えっと、H、O、M、8……」
一文字ずつ慎重に入力していく。これは大変な作業だ。上司が後ろから「いいぞお……いいぞお……」と息をかけてくるので、かなり鬱陶しいが、興奮のほうが勝った。
二時間後――。
最後の文字を入力し終えたとき、おれは大きく息をついた。上司も「だー!」と声を上げながら壁に寄りかかった。二人とも汗びっしょりだった。上司が離れたあとの壁には、くっきりと人型の汗染みができていた。
「す、すみません、腰が抜けて立てそうにないです……」
おれはぐったりと上司を見上げた。
「まったく、ふう、ふう、君は情けないなあ」
「ラバコに火をつけてもいいですか?」
「ラバコ? ああ、あの麻薬のことか。確か火を使うんだろ? ダメだ、ここは禁煙だぞ。オフィスに戻ってからにしなさい。ああ、これならある」
そう言いながら、上司はスーツの内ポケットから電子香炉を取り出し、おれの顔の前に持ってきた。
「ほら、ラベンダーの香りだ」
香炉から立ち上る薄紫の煙が、ゆるやかにおれの鼻腔をくすぐる。
上司も顔を寄せる。ラベンダーの香りと汗の匂いが混ざり合い、妖艶な空気が漂った。
目が合うと、思わず笑ってしまった。照れくさい。おれは何か言葉を探した。
「え、えっと、私が打ち込んだ内容って、どんなものだったんですかねえ」
「ん、ああ、それはわからんよ。コンピューター同士の会話だからな……おっ」
上司がコンピューターに目を向けると、排紙口から書類が出てきた。
「さっそく次の指示書が出てきた。どれどれ、ふむふむ」
「わ、私にも見せてください!」
「ダメだ、見たかったら君も昇進することだ。コンピューター係にな。次はミツバ社にこの書類を持って行ってくれ。封筒に入れるから少し待ってなさい」
やった! ミツバ社は四駅も離れた取引先だ。これは大仕事だぞ。しかも、あの街にはすごくかわいいと評判のアンドロイド喫茶がある。
……それにしても、コンピューター同士でやり取りできるはずなのに、なぜわざわざ人間が書類を運ぶのだろう。
まあ、考えてもわからないことは、考えてもわからないから、考えなくていいんだ。
戦争や貧困がないのはすべてコンピューターのおかげ。コンピューターの指示に従っていれば間違いないのだから。