1話 『俺と別れてほしい』
三橋恭太には彼女がいた。
ボブカットの艶やかな黒髪を持つ可憐な少女。花咲胡桃は学年のマドンナだった。
すれ違えば思わず振り返る、整った顔立ちに劣らぬスラリとした完璧なスタイル。加えて明るく上品な性格を持つ。
そんな彼女と付き合えた恭太は誇らしかった。
『――俺と別れてほしい』
恭太は震える手で送信ボタンを押した。
トーク欄に放たれた別れの文言。
5分も経たずに既読の表示、しかし返信はなかった。
恋愛なんて、ある日突然始まったかと思えば終わりも唐突だ。
順風満帆な関係だと思えたのは昨日まで。見知らぬ男とラブホテルに入る胡桃を目撃した恭太は、猛烈な喪失感に襲われた。
そして決意した。
彼女と別れよう、と。
付き合ったのは二年前。高校入学早々座席が隣同士になり、好きなバンドの話で意気投合。それから気軽に話すようになり、いつしか互いの魅力に惹かれていた。
『俺と付き合ってほしい』
始まりも終わりもメールだった。
面と向かっては言えず、最近の恋愛はこういうものだろうと、自分の気弱さを肯定した。
付き合ってからは毎日が楽しかった。
胡桃の笑顔が、声が、仕草が好きだった。
告白の返事を聞いたときは嬉しさで眠れなくなり、デートの前日もまた同じだった。
それくらい好きで、好きで、好きだった彼女。
だからこそ、反動は大きかった。
真っ当に振られてたら違った――否、それは分からない。
けれど、胡桃に対する恭太の膨大な気持ちが『浮気』という形で裏切られた事実は、恭太の決意を固くした。
復讐してやろう、と。
胡桃に同じ痛みを味わってほしい。
浮気したことを後悔させたい。
胡桃と別れたその日、恭太は彼女への復讐を決意した。
× × × ×
「なあ……諒、聞いてくれよ」
恭太の親友、鶴牧諒。
胡桃との交際を知る彼に、恭太は全てを話した。あわよくば、彼から噂が広まってくれればラッキーだと。
諒は性格がいい。恭太が悲しめば同情するし、良いことがあれば一緒に喜んでくれる。
明るくて、優しくて、一緒にいて楽しい。けれど、異常なほどに口が軽かった。
これは利用できる、と恭太は思った。
恭太と胡桃の交際は学年でも有名だ。なにせマドンナの恋愛事情。付き合ってすぐに広まり、以来男子からの恭太への扱いが冷たくなったほどだ。
だから恭太は考えた。
浮気が広まれば胡桃にダメージを負わせられるのでは、と。
絶大な人気を誇る学年のマドンナの浮気。彼女の本性に落胆する者は多いに違いない。
「嘘だろ……花咲さん、恭太に一途って感じだったのに」
諒は我が事のように悲しんだ。
そして、続け様に言った。
「でも、そんな人だなんて思わなかったよ……」
人のイメージなんて、言葉一つで変えられる。
恭太の一言で、諒の胡桃に対する印象は『悪人』に変わった。
この調子でクラス中、やがては学年中に胡桃の浮気を広め、彼女の居場所を無くす。
「なあ、恭太」
諒が何とも言えぬ表情で呟いた。
彼の視線の先――教室後方の扉を見て、恭太は驚いた。
「何しに来たんだよ、胡桃」
こちらの様子を伺うように、胡桃が扉から半身を覗かせていた。
恭太の問いに、胡桃はズカズカと教室に入り目の前で立ち止まる。
「俺、席外すわ」
空気を読んだ諒が側を離れ、付近には恭太と胡桃が二人きり。
黙る彼女を前に恭太は再度尋ねた。
「何しに来たんだよ?」
「何しに来たって……昨日のあれ、どういうこと?」
彼女は浮気がバレてることを知らない。突然振られたと思い、惚けるのはもっともだ。
(……だとしたら)
「そのままの意味だ、俺と別れてくれ」
「別れてくれって……冗談よね? だとしたら笑えないわ」
「冗談じゃねーよ、俺たちもう終わりだ」
「いくらなんでも……急すぎるわよ」
「俺と別れてくれ」
「……せめて理由を教えて。前のデートで私、何かしちゃった? だったら謝るからっ」
「胡桃、浮気してるだろ」
最後だけボリュームを大きく、恭太は核心をついた。
周囲のクラスメイトの視線が集まる。
大方、『浮気』に反応した者だった。
「う、浮気って……何言って」
「昨日、知らない男とラブホテルに行ってたよな」
「み、見てたの……?」
明らかに動揺する胡桃。
クラスメイトはざわつく。
「うそ……花咲さんが浮気?」
「今、浮気って言った?」
「花咲さんが浮気するわけ……」
「でも、あの二人の空気……マジっぽいよ」
恭太が堂々とすればするほど、動揺する胡桃が怪しく見える。
恭太は追い討ちをかけた。
「なぁ、いつから浮気してたんだよ。前にデートしたときどう思ってたんだよ!」
「ちょ、ちょっと! 三橋君!」
胡桃はあたふたと焦りを見せ、やがて黙り込んだかと思うと、恭太の腕を掴んで教室を飛び出した。
いくらか進んだところで恭太は手を振り払い、再度胡桃に告げた。
「俺と別れてくれ」
返事は一瞬だった。拒むか、受け入れるか……胡桃は深く大きくため息を吐いた。
「はぁ……。いいわ、別れましょ」
別れの返事に不相応な胡桃の態度。
ため息を吐きたいのは俺の方だよ、と、喉元まで出た言葉を恭太は飲み込んだ。
「……で、さっきのは嫌がらせ? わざわざクラスメイトに聞こえるように大きな声で浮気だとか……」
「ああ、そうだ」
「――っ! あなたね……」
学年のマドンナらしからぬ形相で睨まれる。
浮気相手に乗り換えればいいだけの胡桃にとって、恭太との別れは惜しくない。ただ、『学年のマドンナ花咲胡桃』のイメージに傷がついたことが、気に入らないようだった。
「じゃ、用が済んだならもう帰ってくれ」
立ち去ろうとした恭太は腕を掴まれる。
「……待ちなさいよ。もしかして、仕返しでもする気? ……だったら意味ないわ。私には先輩がいるもの」
「先輩?」
恭太の目的を見抜いたのか胡桃はニヤリと口角を釣り上げた。
「とにかく、この程度なら私は何とも思わないわ。仕返しなんてやるだけ無駄よ。浮気したことは謝るわ、ごめんなさい。……ほら、これで終わりにしましょ」
意外だ、と恭太は思った。
校内であれほどの地位を築いていれば、胡桃は手放すのを恐れるものだと勝手に思っていた。
けれど浮気女のレッテルを貼られても動じない、あるいは虚勢を張ってるだけか。いずれにせよ、恭太のやることは決まっていた。
胡桃に復讐をする。
何とも思わないのなら、手段を変えるまで。
恭太の決意は、より一層固くなった。
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何卒。。