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section8

♭♭♭

自宅のドアを閉めるなり、愛華は崩れるようにして玄関にうずくまった。


体が重い、頭が痛い。


それでも、自由の効かない体を引きずるようにして、洗面所に向かう。


洗面所もリビングも、全ての部屋に明かりが点いていた。そういえば、部屋のカギも閉まっていなかった。


自分がそうしたのだと、今ではわかる。


やっとの思いで洗面台の前に立ち上がると、鏡の中に、不気味なピエロの姿が映り、愛華はドキリとした。


ややあって、それが自分の姿だと分かったとき、愛華は無性に悲しくなった。


大学の推奨する、徒歩圏内という条件からは少し離れるが、この、大きな鏡のあるドレッサーと、駅からも大学からも少し遠いという理由で、セキュリティも万全のアパートの、街が見下ろせるこの階でも、親にキツイ負担をかけない程度の仕送りで大丈夫な家賃が、この部屋を選んだ決め手だった。


だが、それが今はどうだろう。


真夜中に、疲れ果てた身体で、なかなかの距離を歩かなければならない辛さ。


自分の部屋の階までエレベーターに乗る時間。


そして、入り口の警備員や、すれ違う住人と出会ったときの、ギョッとしたあの表情。


それも無理もない。自分自身が、鏡に映る自分の姿にギョッとしたのだから。


ねっとりと固められたお団子髪に、真っ白に塗りたくられた素肌に浮かび上がる、黒く縁取られた目と、大袈裟に盛られた、まつ毛と眉毛。それと真っ赤な唇。


身にまとっているボロ布は、一日で、どうすればここまで汚れるのかというほどになった、数日前に蘭とみのりと一緒にショッピングに行った際に買った、真っ白なワンピースだった。


この姿を見れば、誰だって驚くだろう。ただの、ホラーやサスペンス映画の悪役(ヴィランズ)だもの。


だが、彼らはまだ知らない。このワンピースの下に隠された姿を。


彼女が何者なのかを。


愛華はボロボロのワンピースをゆっくりと脱ぎ捨てると、その下には、蛍光色の水色の、長袖のレオタードが現れた。


身体にぴったりと張り付く、なんの変哲もないレオタードだ。生地も作りも安っぽいせいか、愛華の身体のライン、そして乳房や乳首の形までも、くっきりと(あらわ)にしてしまっている。


ハイレグのVラインの下には、光沢のあるベージュのタイツに包まれた脚が伸びている。不思議なもので、愛華はバレエや新体操の経験もないため、決して”美脚”とは言えない、平凡なスタイルなのだが、こうしてタイツに包まれた脚を見ると、どこか美しく、(なまめ)かしくもあった。


レオタードの胸元には大きなゼッケンが縫い付けられており、本来、名前や名字を書く欄には、マジックで下手くそな字(本人は知らないが、操られた愛華の字である)で、”SPの5”と書かれていた。


加えて、一日中、激しい練習を繰り返した汗にまみれ、

それが乾いたことにより、ツンとした匂いが愛華の鼻を刺したとき、愛華の脳裏に、いくつかのビジョンが浮かんできた。


(ワタクシ、ハッ!マーチングバンド部、ノッ!メンバーで、スゥッ↑)

(タチバナ大学、マーチングバンド、”ド・レ・ミ”!)


それらが思い出される度、無意識に愛華の背筋は伸びていく。


(ハァ〜↑かしこまり)

「やめてぇっ!」

思わず叫んだ、自身の声で、愛華は我にかえった。


愛華は鏡を見ないようにレオタードとタイツを脱ぎ捨てた。

レオタードとタイツの股間の部分には、妙なシミと、汗とは違う何かの匂いが残っていた。


シャワーを浴び、髪にベッタリと塗られた整髪剤と、明らかに化粧品ではない顔の塗料を、時間をかけてやっと落とすと、愛華はパジャマに着替えるのも、髪を乾かす気力もなくなり、下着姿で、濡れた髪を垂らしたままで、ベッドに寄りかかった。


どうして、こんなことになってしまったんだろう。


あの夜、蘭の電話に出なければ?


蘭が戻ってこなかったとき、彼女の言う通り、助けを呼びに行ってたら?


色々想像するが、やはり、諸悪の根源は、あの、あの・・・


「ワタクシ達、ノッ!素晴らしい、顧問(マスタッ)!石神さ、マァ〜↑」

石神の顔が思い浮かんだとき、愛華は無意識に声を発していた。


ハッと我にかえると、たった今、自分の言っていたことに、愛華は戦慄する。


もうダメだ。私は、おかしくなってしまった。


いったい、こんな日々が、いつまで続くのだろう。


愛華は部屋の壁にかけた、時計を見上げた。


まずい。少しでも眠りたい。髪も、下着もこのままでいい。とにかくベッドへ・・・


♪〜


スマホの着信音が鳴ったとき、愛華は身体を(こわ)ばらせた。


こんな時間の着信。愛華は、スマホの画面を見るのを躊躇(ためら)った。


その画面に、親友であるはずの”蘭”という文字が表示されるのを、彼女は本能的に恐れていた。


それでも、恐る恐る画面を覗き、”みのり”と表示されているのを確認すると、愛華はすぐさま、スマホを手に取った。


『やっと繋がった』

愛華が返事をする前に、気だるそうな、それでいて、しっかり者のみのりの声が聞こえてきて、愛華は安心感に満たされる。


「み、みのり?」


そんな愛華の心中も知らずか、みのりは変わらず気だるそうな声で続ける。

『あのさぁ、「旅行はなくなったけど、夏休み、遊びまくろー!」ってこの前言ってきたの、誰よぉ?あの日以来、あんたも蘭も全然電話出ないしさぁ』


みのりの言う、”あの日”とは、おとといだ。蘭から電話がかかってきた日のことだった。その次の日から、愛華も蘭も、石神の操り人形にされてしまっている。


『まぁ、蘭はマーチングバンドで忙しいのかもしれないけど?あんたは何やってんのよ?人に遊ぼうとか言っといて、バイトに明け暮れてたりしないでしょーねぇ』


「み、みのり、聞いて!」

みのりの言葉を遮るように、愛華は切り出した。

『聞いてるよ。遊びに誘っといて音沙汰ないヤツの言い訳でしょ?』

みのりの言葉は辛辣だが、その声色にはおどけたようなニュアンスがある。彼女が怒っているわけではないことは確かだった。


「あのね、アタシ、実は、マーチングばばばばばばぁ」

愛華の頭に、キリキリとした痛みが走ると共に、愛華の口は自由に言葉を(つむ)げなくなった。

『え?マーチングババアって、まさか蘭のこと?』

みのりは少し語調を強めた。

『やめなよ、愛華。いくら旅行の計画フイにされたからって、蘭のことそんな風に言うなんて、らしくないよ?』


「ち、ちが!ちがうの!」

愛華は自由にならない口で、必死に事実を伝えようとする。

「あ、あたし、らん、まーちんぐ、やらされてブゥ!」

『はぁ?』

みのりの怪訝な声が、スマホから聞こえてくるが、愛華の意識は、すでにモヤがかかったように、それを遠くでしか聞き取れない。

『ちょっと待って?マーチング?”やらされてる”ってなに?』


脳にチクチクと何かがうごめくのを感じながら、愛華は声を振り絞る。

「い、い、いしがみ、みんな、あやつっ、にんぎょゴボォ!」

そこまで言って沈黙した愛華は脱力し、手からスマホが滑り落ちる。


乳房はブラジャーからはみ出すほどに張りつめ、パンティはじっとりと湿(しめ)っていく。


『愛華?ちょっと大丈夫?あんたもマーチングやってるってことなの?』

スピーカーからみのりの声が響くスマホを、白い手がガシリと掴んで持ち上げた。


愛華だった。


愛華はスマホをしっかりと耳に当てた。

「そうです」

先ほどとは打って変わって、落ち着いた声が、みのりに届く。


「わたしは、きのうから、マーチングバンド部の、メンバーに、なりました」

短く、棒読みで、しかしはっきりと、愛華は断言する。


『え、どういうこと?わけわかんないんだけど』

みのりの困惑した声が返ってくるが、愛華は意に介さない。


「わたしは、きのうから、マーチングバンドぶの、メンバーとして、かつどうさせて、いただいて、おります。わたしたちは、”サマープログラム”せいで、ありながら」


『待って、愛華!なに言ってるかわかんないよ!なんでマーチングバンド部に入ったの?』

みのりの訴えを無視し、愛華は続ける。

「マスター、の、おこころづかい、デ、こんどノ、ほんばン、に、さんカ、さセテ、いタダク、コトニ」

愛華の声は、どんどん機械のような、一本調子になっていく。


『愛華、愛華!聞いてよ!”やらされてる”って言ったよね!?なんかあったの!説明して!ねぇ愛華!』

スマホ上では、もはや会話は成り立っていなかった。


機械のようなだけでなく、みのりの声がかき消されるほど、愛華の声は大きくなっていた。

「マスター、ノッ!ゴキタイ、ニッ!コタエラレル、ヨォッ!ガンバリ、マァァァ!!!」

愛華がそう叫んだときには、みのりは通話を切っていた。


♭♭♭

ピンポ〜ン。


部屋のインターホンが鳴る。


ガチャリとドアが開くと、気の強そうな20代の女性が立っていた。


愛華の隣の部屋の住人だった。


「ごめんね〜。ちょっと、声が大きいかなって。今、何時だと思ってる?一人暮らしよね?こんな時間になにしてんのかな?ま、どうせ、カレシでも連れ込んで・・・」

そこまで言って、女性は、ひっ、と声をつまらせた。


部屋から出て来たのは、ベットリと固められたお団子髪に、真っ白な顔。隈取(くまど)りのように黒く縁取られた目と鼻筋に、真っ赤な唇の少女だった。


茶色?のボロボロのワンピース姿のその少女は、絶句する女性の方をグルリと見た。

「え、あ、あの、この部屋の子、よね?」

女性がやっとそう言うと、少女は真っ赤な唇をニッと歪ませ、背筋を伸ばした。


「ハヨウゴザイ、マァァ!!」

少女の甲高い声は、女性を震えあがらせた。

「ひぃっ、あの、なんか、ごめんね、サヨナラっ!」


女性がそそくさと自分の部屋に戻ると、少女は部屋のカギも閉めないまま、誰もいない廊下を歩いて、白みかけた夜の闇へ、今日も練習に出掛けていった。


♭♭♭

石神が練習場に入ると、サッと横隊が出来上がる。早朝のしぼんだ目に、蛍光色のレオタードが痛い。


石神は、朝が得意な方ではなかった。


それでも、こうして足げく人形たちの様子を見に来るのは、念を押してのことだった。


本人の意思と関係なく、思いのままに操る。間違いなく”ヒ・ジンドーテキコウイ”に他ならないだろう。


この”ヒ・ジンドーテキコウイ”の実証においての”失敗例(ミスケース)”を見ると、被験者たちが操り人形と化したことで慢心し、被験者たちを徹底的に管理することを怠った結果であることが多い。


こうして、石神の忠実な奴隷のようになっても、彼女たちは心の奥底で、この支配からの解放を目指し戦っているのだ。


フランス革命下のパリのように。


そのことを忘れてはならない。


------"現実は、小説よりも奇なり”。よく言ったものだ。君も気をつけることだね--------


石神は、一人の男のことを思い出していた。


お前のようになど、なるものか。


心の中で、石神は呟いた。


顧問(マスタッ)!ネガイシマッ!」

「ネガイシマァ〜!!!」

部員たちの挨拶で、石神は我にかえった。


キリッとした表情の、指揮者(メジャー)と楽器隊。反面、不気味なメイクの上に、満面な笑みを浮かべたダンス隊。


特に、ポンポンを持たない、”サマープログラム生”たちは、この数日の特別練習で、すっかり正規メンバーと引けを取らない様子になってきた。


昨晩も日付が変わるまで練習し、今日も、午前5時から練習。常人なら発狂するレベルのスケジュールにも、笑顔で取り組む。当然だ。彼女たちは、体こそ人間ではあるが、今は疲労も苦痛も感じず、教育(プログラム)通りに動くことしかできない機械人形なのだから。


楽器隊のメンバーには、”笑顔”は教育(プログラム)していなかった。

どうせ、楽器のマウスピースになっているディ○ド型コントローラを咥えれば、表情など作っている暇はないからだ。


その分、ディ○ド型コントローラを咥えない、ダンス隊のメンバーが、貼り付けたような笑顔を、バカの一つ覚えのように振りまく。


楽器に支配された、哀れな木偶人形の代わりに、一見楽しそうな演技(パフォーマンス)を担当しているのだ。


話を聞くときも、観客に手を振るときも、大袈裟に頷いたり、リアクションを取るのもダンス隊の役目だ。


こんなに不気味で無様なメイクでも、笑顔で反応するだけで、彼女たちの評判は跳ね上がっていた。


人間とは単純なものだと、石神は心底思った。


「”サマープログラム生”、すっかりメイクと制服(ユニホーム)が様になってきたな」

石神が言うと、両手を腰に当て、タイツに包まれたベージュの脚を、付け根から真横に開いた、バレエのポーズにする、ダンス隊の直立不動(テンハット)の姿勢のまま、”サマープログラム生”はガクンと上半身を曲げてお辞儀する。


「アリガトウゴザイマッ♪」

完璧に揃った、5人の甲高い声が、広い練習場に木霊(こだま)する。


「夏期休暇が終われば、さすがに、そのメイクで授業に出ることは免じてやろう。その代わり、開始時間にはきちんと、メイクと髪型(ヘッド)制服(ユニホーム)で待機しているように」


「ハァ〜↑かしこまりまし、タッ!」


ああ、そうだ。と、石神は呟く。

「順序が逆になってしまったが、つまりお前たちは、”サマープログラム”が終われば、正規メンバーとして入部してもらう。だがその前に、初めての本番も迎えられるわけだ。これはなかなか前代未聞だ。私に感謝しろ」


“サマープログラム生”たちはまた、ちぎれんばかりにお辞儀をする。

「顧問(マスタッ!)アリガトウゴザイマッ♪」


“一流の教育者”とやらが、彼女たちの返事や態度を見れば、どう感じるのだろう。


取ってつけたような返事、表情、姿勢、態度。


きっと、「心がこもってない」だの、「尊敬が足りない」だの言い、その批判はそのような態度を教える、我々指導者の方に向くのだろう。


日本の教育は、成長や進歩のためでなく、「叱られないための教育」と呼ばれ、良くも悪くも目立つということを嫌う、”ロボット教育”とも揶揄される。


石神は思わず吹き出しそうになる。


子供たちをロボットの”ように”するのが“ロボット教育”と言われるなら、自分が今、行っているのはなんだろううか。


石神が彼女たちに求めるのは、”心”でも”尊敬”でも、”成長”でも”進歩”でもない。


彼はロボット”そのもの”を教育しているのだ。


「基礎練習が終われば、”サマープログラム生”たちは衣装(コスチューム)のための採寸をするように」

「ハァ〜↑かしこまりまし、タッ!」


“サマープログラム生”たちの返事を背に、石神は練習場をあとにした。


マーチング棟を出ていく石神の姿を陰から見つめる人影があった。

石神はその気配に気付きながらも、全くその素振りを見せず、大学の本棟へと向かった。

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