section4
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マーチングのメイン練習場は、建物の中央にある正方形の形の広大な空間だった。
3階建の建物の屋根までが吹き抜けで、天井、壁には独自の防音と反響加工が施され、大会の会場の環境を再現するとともに、夜中であっても問題なく練習できるようになっている。
左右の壁は、2メートルをゆうに越す全面鏡張りになっており、姿勢やライン、隊形がものを言うマーチングにおいて、その形が逐一チェックできるようになっている。
このメイン練習場をぐるりと取り囲むように、更衣室や顧問室、そして、小さな”サブ練習室”がいくつか設けられていた。
私立大学とはいえ、一つの部活にこれほどまでの設備が与えられているのは全国でも極めて異例なことであり、それも、このマーチングバンド部の功績を認められての結果たった。
広い空間と、防音設備の整った環境でなければ、マーチングバンド部が十分な練習をするのは難しいのだ。
そして、マーチングバンド部がそのような功績を上げ始めたのは、十数年前、現顧問の石神が就任してからだった。
それまでは、単に趣味として吹奏楽とマーチングを行う、いわゆるサークル的なポジションであったマーチングバンド部は、石神が就任した数日後から、驚くべき変化を見せるようになった。
その変化とは・・・。
メイン練習場の、分厚いガラスが張られた自動ドアが開くと、レオタード姿のサマープログラム先と、下着姿の蘭、そして愛華が入ってきて、一例に並んだ。
「ハヨウゴザイ、マッ!」
「ハヨウゴザイ、マァ〜ッ!」
“SP1”と書かれたゼッケンのサマープログラム生が言うと、他のサマープログラム生達も声を揃え、90度にお辞儀した。
サマープログラム生達が声を張る先には、同じく蛍光色のレオタードと、ベージュのタイツに身を包み、艶やかな黒髪をピッタリとお団子にまとめた女の子たちが、ズラリと並んでいた。
膝と爪先を一様にピタリと揃え、針金のように直立する女の子たちは、いずれもゼッケンをつけているが、そこに書かれているのは、”A1”や”B14”などと、サマープログラム生とは違うものだった。
彼女たちこそ、館花大学マーチングバンド部の正部員たちだ。
一年中、大学生活をマーチングの練習に捧げ、マーチングバンド部の輝かしい歴史を今に引き継ぐ、全国トップクラスのアマチュアバンド。いや、その実力は若い女性だけのバンドでありながら、プロにも通用するとまで言われている。
そんな部員たちは、全員キリッとした表情で天井を見上げたまま、サマープログラム生たちの、すっとんきょうな挨拶にもまるで耳を貸していないように無反応だった。
「遅れて、申し訳アリマセッ!すぐに、掃除と、準備をさせて頂き、マッ!」
「イタダキ、マァッ!」
サマープログラム生たちは叫ぶように言うと、駆け足で散り散りになり、それぞれの持ち場に向かった。
愛華も、まるで今日が初めてではないように、キビキビと動くと、倉庫から巨大なモップとバケツを取り出すと、水道でバケツに水を汲み、モップを濡らすと、広いマーチング練習場をひとりでモップがけし始めた。
蘭は、これまた大きな雑巾を持ち出し、自分の背丈を遥かに越える鏡を拭き始めている。
他のサマープログラム生は、部員たちの使う楽器を運んだり、練習場の奥に置かれたテーブルに、冷蔵庫から飲み物と軽食を取り出してセッティングしたり、忙しいが、愛華や蘭たちと比べると、比較的軽い作業だった。
マーチングの練習には、設備が必要であると同時に、その設備を遺憾なく使うための準備も肝要となる。
そのため、一度ごとの練習の準備、そして後片付けはかなりおおがかりなものになるのだ。
その準備と片付けを円滑なものにすべく、この部では、詳細な役割分担が成されていた。
といっても、単純な分類だ。縦社会の定番。”下位の者がキツイ作業をし、上位の者ほど楽になる”というものだ。
部員たちは、いくつかの階級に分類されていた。
上から”A”、”B”、”C”、”D”。そして、それぞれの階級に、数字で序列がつけられ、数字が若い者ほど上位である。
これらの上下は、マーチングのパフォーマンスにおいての重要な演奏ポジションを決めるためのものだが、このように他にも部内での様々なルールに活用されていた。
年齢や大学での学年は関係なく、階級と数字が上の者が、誰であろうと先輩として、絶対服従、そして身の回りの世話をするのだ。
そして、夏場は期間限定で、その下にさらに”サマープログラム生”という階級が設けられる。
つまり、サマープログラム生たちは、その期間中、部員全員の下級生として位置され、絶対服従の日々を送ることになるのだ。
その中でも、今日入部した愛華と、その一つ上の蘭には、比較的キツイ作業を強いられるのだった。
自動ドアが開く音がすると、今まで微動だにしなかった部員たちが、一斉にドアの方へ駆け出した。
ドアから入ってきたのは石神だった。
部員たちは石神の前に整列する。
蘭や、愛華、サマープログラム生たちも、持っているものを投げ出し、部員たちの列の横に並んで直立した。
「ハヨウゴザイ、マッ!!」
「ハヨウゴザイマァ〜ッ!!」
「ネガイシ、マッ!!」
「ネガイシマァ〜ッ!!」
サマープログラム生たちのそれとは比べ物にならない挨拶が、練習場に木霊した。
(ネガイシマ!あ、あれ・・・?)
頭の中にもすっとんきょうな声が響いていた愛華の意識が、再び戻ってきた。
(あ、あたし、また違うところにいる・・・)
混乱する愛華をよそに、石神が口を開く。
「今日は随分、遅れてしまった。部員のみんなには申し訳ない。このサマープログラム生たちのせいだ。あとでしっかり反省させておく。許してやってくれ」
「ハァ↑↑カシコマリマシ、タァァ!」
部員たちの返事が響き、愛華は突然、申し訳なさと、激しい自己嫌悪に陥った。
「申し訳、アリマセッ!」
「申し訳、アリマセェッ!!」
サマープログラム生たちは深々と頭をさげ、愛華も倣った。やはり、意識は戻っても、体の自由は効かない。
(な、なんでアタシ、申し訳なくなってるのよ!コイツにおかしくされてるだけじゃない!)
「ところで、この二人が、なぜこんな”みっともない”格好をしているのか、気になる者もいるだろう。直接二人から説明するがいい」
石神が言うと、愛華の体は、サッと背筋を伸ばした。その隣で、蘭も同じことをしていた。”みっともない”格好の二人とは、紛れもなく自分たちのことだった。
「ハァ↑カシコマリマシ、タッ!」
「ワタクシ達は、本日、制服を持っておりませんでし、タッ!」
「そのため、体のラインを、見て頂けるよう、下着で練習に参加させて頂くことを、お許しくださ、イィッ!」
自分で言って、愛華はたまらなく恥ずかしくなった。
「そういうわけだ。まぁ、所詮はサマープログラム生だ。お前たちの練習には影響はないだろう。早速、練習に取りかかろう」
ボロカスに言ってくれる石神に、愛華が心の中で悪態をつくまもなく、
「ハァァッ↑↑カシコマリマシ、タァァッ!!マーチングバンド部、”ドォッ・レェッ・ミィィィッ”!!」
“A1”と書かれた部員が一際甲高い声で言うと、全員がスイッチが入ったように、一斉に姿勢を正した。
(ま、また”これ”!?これをやったら、さっきみたいに・・・)
愛華の思考をよそに、先ほどの部則の斉唱が始まった。
「”ドォォッ”!!」
「操られるまま、”動”き、マァァァッ!!」
(ちょ、ちょっと、待っ、マァァァッ!!)
「操られないとき、”動”きま、セェェェッ!!」
(お、おねがい、やめ、セェェェッ!!)
先ほど比べ物にならないくらいのボルテージで繰り返される、部員との”ドレミ”は、愛華の意識をどんどん押し流していく。
「パペット!マペット!マネキン、デェェェッ!!」
(デェェェッ!!)
「”レ”ェェェェッ!」
「”礼”に始ま、リッ!!”礼”をし続、ケッ!!”礼”に終わりは、ありま、セェェェッ!!」
「マスタァァァ!リィィダァァァ!シスタァァァ!全ての方、ニッ!”礼”ッ!”礼”ッ!レェェェェッ!」
(あ、あ、あ、レェェェェッ!)
もはや体でも、頭の中でも、愛華は”ドレミ”を復唱することしかできない。
「踊るための、トゥゥゥル!!奏でるための、ケィィィス!!」
(わたしの、この”み”はぁぁぁ)
「ニンギョォォォ、デェェェッ!!」
部員たちの激しい声が、防音の壁に、天井に吸い込まれると、練習場は水を打ったような静寂に包まれた。
天井を見上げたままの愛華の心も、それと同じくらい、静かになっていた。
焦点の合わない目を、ピクピクと揺らす愛華を見て、石神はほくそ笑んだ。
「下着の二人は、作業が遅すぎる。モップはもういいから、二人は練習の間、鏡を舐められるほどに綺麗に磨いておけ。私は、チャンスは何度でも取り返せると考える質だ。先の失態は、次の成功で取り戻せ。”ドレミ”で言ったように、私の従順な人形であると証明してみろ。行け」
石神の言葉、愛華は自動的に頭の中で復唱する。
(かがみ、みがく、なめる)
まるで、コンピュータの二進数のような、単純な思考しかできない愛華だが、しかしそれ故に、その思考は確実に愛華の意識を支配していた。
(どれみ、いった、にんぎょう、しょうめい)
それらと共に、愛華の胸には、強い気持ちが生まれていた。それが、石神の支配によって作られた感情であることを、彼女は自覚できないが。
(しったい、せいこう、とりもどす!)
復唱を終えると、まるでプログラミングが終わったように、愛華は断固とした意思の元、行動を始めた。
「ハァ〜↑カシコマリマシ、タッ!」
隣で声を揃える蘭とともに、伸びやかな返事が響いた。
石神は少し表情を緩めると、
「いい返事ができるようになったじゃないか」
と声をかけた。
その言葉を背に、勢いよく方向転換すると、蘭と愛華は迷いなく鏡に向かって歩きだした。
今の、二体の下着姿のドローン人形たちには、ひたすら鏡を拭き続けることしか頭にないのだった。