雨の声
何か小さな物音がカタカタと聞こえるかと思ったら、次の瞬間に地面がぐらりと大きく揺れた。
地震だ。
僕は賃貸マンションのリビングルームでテーブルの縁につかまり、彫像のように固まったまま揺れが収まるのを待った。テーブルの下に潜り込むべきだったのだろうけど、突然の事で驚いたのと、内心でどうせ大した地震ではないだろうと高を括っていた事もあって、そうするタイミングを逃してしまった。だが実際には地震はかなり大きかった。おそらく震度五か六はあるのではないかと思う。棚の物がバラバラと落ちて来て床に散らばった。
突然部屋が暗くなった。停電するのなんていつぶりだろう? 揺れはなおも続き、暗闇の中でガチャンと何かが割れる音がした。
ようやく揺れが収まった時、僕は暗闇の中で安堵のため息を吐いた。暗くて顔は見えなかったが、君も同じようにため息を吐いたのが音で分かった。
「大きな地震だったね」
君のその言葉に僕も頷いた。ポケットからスマホを取り出して周囲を照らすと、キッチンのカウンターの上で花を活けておいた花瓶が、今は床の上で無残な姿に変わっていた。
震度は幾つだったのだろう? そう思って僕はスマホで調べようとしたが、圏外になっていてネットに繋がらなかった。停電の影響で基地局に繋がらなくなったのかも知れない。
テレビで確認しようとリモコンのボタンを押して、自分の馬鹿さ加減に苦笑した。停電が続いているのだからテレビが点くわけが無い。
そうだ、ラジオがどこかにあったはずだ。どこに置いただろうか?
掌に乗る大きさの携帯ラジオは掃除をしているときに良く見かけるが、いざ使おうとするとどこに置いたか分からなくなる。
棚から落ちた物の中に埋もれているかもしれない。そう思ってスマホで照らしながら、床の上に散乱した物を漁っていると、探している物とは別の物が出て来た。
指輪のケースだ。
なんでこんなところに指輪のケースがあるのだろうか? そう思いながらケースを開けると、ケースの中にはしっかりと指輪が鎮座していた。僕が君に送った指輪だ。スマホの光で君を照らし出すと、君の右手の薬指にもしっかりと同じ指輪がはまっていた。
なぜ同じ指輪が二本あるのだろう?
いや、疑問に思う事なんて何もないんだ。君が僕の傍に帰って来てくれたから、指輪が二本あるんだ。当たり前の事じゃないか。
「どうかしたの?」
君の声に思案から引き戻されて、何でもないと答えると僕はラジオの捜索を再開した。程なくして、小さなラジオを発見した。
ラジオのスイッチを入れてみる。だが何も音が聞こえてこない。使わないでいるうちに、電池が切れてしまったのだろうか?
ラジオの電池ボックスのカバーを開けて、僕は落胆の声を上げた。電池が液漏れをして、真っ白い塊が電池ボックス内にこびりついていた。しばらく使わないでいるとすぐにこれだ。
「はい」
何も言わないのに君が気を利かせて単三電池を差し出してくれた。君は本当によく気が利く様になったね。出会った頃は、勝気な君がきつい言葉で僕を詰ったりして喧嘩ばかりしていたけれど、近頃ではそんな事はなくなった。君から電池を受け取って、僕はラジオの電池を入れ替えた。
ラジオのスイッチを再び入れると、ザーザーと雨のようなホワイトノイズの音がした。
この音は嫌いだ。
この音を聞くと、あの雨の日の事を思い出すから。
僕はラジオのボタンを押して周波数を切り替えた。自動選局のラジオは、ボタン一つで流す放送局を変えられるはずだった。だけど、いつまでたってもホワイトノイズ以外は聞こえてこない。
小さなラジオが周波数を次々に切り替えるのをじっと待つ。こういう時は昔ながらのダイヤル式の方が良かったと思う。ダイヤルをぐるりと回して人の声を探すだけで良いのだから、すぐに済む。
そういえば、君と一緒に深夜ラジオを聞いた事があったね。ずいぶん昔の事だったように思う。二人が好きなアーティストがラジオ番組に出演するっていうので、二人で肩を並べてラジオを聞いた時の事だよ。あの時君は、ラジオのアンテナの先を摘まんで、こうすると雑音が減るのよって自慢げに胸を張ったね。
そんな事を考えていたら、ホワイトノイズばかり流していたラジオから不意に人の声が聞こえた。
『あなたの事、絶対に許さないから』
僕はその声を聞いて凍り付いた。言葉の内容が恐ろしかったわけでは無い。こんな言葉、ラジオドラマのセリフだとしたら珍しくも無い。
だけど、ラジオから聞こえて来たのは間違いなく君の声だった。
「消して!」
君が金切り声で叫んだ。
「早くそのラジオを消して‼」
取り乱して僕に言う君の言葉に従って、ラジオのスイッチを切った。
暗闇の中に沈黙が満ちた。
「一体何だったのかしら? 怖いわ」
君がポツリとそう言う。僕も同じ思いだ。まるで怪談話に出て来る呪いのラジオの様だ。もしそうだとすると、聞こえて来たのは死者の声という事になるのだろうか?
でも、もしそうだとしたら、ラジオから君の声が聞こえて来てもおかしくはないね。
いつまで待っても停電が直らないので、今日はもう寝てしまおうと思った。棚から落ちたものやキッチンの花瓶の破片の後片付けをしなきゃならないけど、暗闇の中でそれを行うのは気が滅入った。明日、明るくなったら仕事を休んで後片付けをするのが良いかも知れない。会社の方も大変な事になっているかも知れないけど、こんな大きな地震があった翌日だから休んでも誰も文句は言わないだろう。
「それがいいわ。今日はもう寝ましょう」
立ち上がった僕の傍に君がついと寄って来て、僕の胸に手を当ててそう言った。
僕は君の肩を抱くと、床に散乱した物を踏まない様に気をつけながら寝室へと向かった。
ベッドの上で僕たちは激しく体をぶつけて快楽を貪り合った。
どれほどそうしていただろうか? 丸一日は経っていたと思う。停電はもうとっくに復旧したのだろうけど、寝室の中は暗くしたままだ。
君の中で何度も何度も果てたというのに、不思議と倦怠感も空腹感も無かった。
そういえば、仕事を休むと連絡はしただろうか? 連絡をしたような気もするし、していない気もする。でも、そんな事どちらでも良いのだ。今はただ、君とこうやって肌を重ねる事が出来れば、それで。
君を上に乗せて絶頂を迎えそうになった時、リビングからホワイトノイズの音が聞こえてくるのに気付いた。
あのラジオだ。でも、一体どうして? スイッチは切ったはずなのに。
ホワイトノイズの音は聞きたくない。土砂降りの雨に似たこの音は。
あの日も土砂降りの日だった。
ザーザーと叩きつけるように雨が降っていた。
その雨音の中に自動車の高いブレーキ音が響いて、君がさしていた傘が宙に舞った。
その後の事はよく覚えていない。
君の家族と何か話をした気はするけれど、その内容すら思い出せない。気が付いたら君は小さな白い壺に入っていて、そのまま家族に引き取られて行った。
僕の手元に残ったのは、僕が君に送った指輪だけ。だけど、その指輪を見ていると辛くなるから、ケースに入れて棚の中に仕舞いこんでいたんだ。
でも、僕はもう寂しくないよ。
君が居なくなった次の日に、君は帰って来てくれたから。
二人の思い出の写真の中の、そのままの姿で。もちろん右手の薬指にはあの指輪をはめて。僕は写真の中よりほんの少しおじさんになっていたけど、君は若々しいままだった。
それから毎日が幸せだった。
君は前より優しくなって、僕の言う事を何でも聞いてくれた。何でも望みをかなえてくれた。毎日二人で、眠る暇も無いほど愛し合った。
この日々がずっと続くなら、僕は他に何も要らない。
君が何者だろうと構わない。
だってそうじゃないか? 君はもうとっくに死んでいて僕の所へ帰ってくる事は無いのだから、僕の所へ帰って来てくれた君こそが、君なんだ。
僕はきっと、ゆっくりと時間をかけて君に殺されるのだろう。漠然とだけど、僕には分かっていた。
でも、構わないよ。君がいない世界で生き続けるくらいなら、いっそ君に殺された方が良い。それで楽になれるなら寧ろありがたいくらいだ。
『意気地なし!』
リビングに置いたラジオから君の声がした。
そうやって僕を詰る君の声。そう、これは紛れもない君の声だ。もう失われてしまって、二度と聞く事が出来ないはずの声だ。
君の凛とした声を聞いた途端、今まで白い靄がかかった様にぼんやりとして、ただ死ぬ事ばかり考えていた僕の思考が明瞭になった。
僕は一体、今まで何をしていたのだろう?
僕の上に乗る君の姿をした者は、一体誰なのだろう?
「駄目! あんな声聞いちゃ駄目よ!」
僕の上の誰かは、腰を揺らしながら高い声を出す。
でも僕は聞きたいんだ。君の声じゃなくて、本物の君の声が。
『許さないからね。私の分までちゃんと生きてくれないなら、あなたの事、絶対に許さないから』
ああ、そうだ。君はそうやっていつも、強い言葉で意気地のない僕の背を押してくれたね。僕は、君が居たからいつも前に進む事が出来たんだ。
「駄目よ! 聞かないで‼」
僕の上に乗る誰かは、腰を激しく振りながら、その白くて細い両腕を伸ばして僕の首を絞めた。
僕はその腕をつかんだけれど、細い腕でどうやっているのかと思う程その手の力は強く、満身の力を込めても僕の首を絞める手を外す事が出来ない。
息が出来なくて意識が朦朧とする中、僕はとにかくもがいて、何とか体を反らせると僕の上に乗った誰かごと、ベットの下に転がり落ちた。
立ち上がると、裸のままで寝室を飛び出した。後ろで君によく似た姿の彼女も立ち上がったのが気配で分かった。
リビングに逃げ込むと壁のスイッチを押して明かりをつけようとした。だが、何度スイッチを操作しても、明りが灯る事は無かった。ただ、窓の外から差し込む暗い光で僅かに部屋の中の様子を知る事が出来た。
『いつまでも逃げられないよ。立ち向かうしかないの』
ラジオの君の声は今までより一段と大きな声でそう教えてくれた。
僕は、戦うのなんて嫌いだ。人と争うのは得意じゃない。逃げれば済む話なら、どこまでだって逃げたら良いと思う。
でも、この時ばかりは君の言う事が正しいと分かっていた。
足の裏を花瓶の破片で切るのも構わずに、僕は最短距離でキッチンに駆け込んだ。そして、我が家でおそらく一番殺傷力が高いであろう、牛刀を包丁立てから引き抜いて、両手で構えた。
僕が閉めたリビングの扉が音を立てて開く。君にそっくりの彼女が、裸のままでリビングの中に入って来た。ゆらゆらと体を揺らしながら、何かをブツブツと呟いて僕に近づいて来る。
「ねぇ、どうして逃げるの? 私はこんなにあなたを愛しているのに、どうして逃げるの? あなたの為になんだってしてきたのに、どうして逃げるの? あなたの言う事をなんでも聞いてあげたのに、どうして逃げるの? こんなにもあなたに尽くしてきたのに、どうして逃げるの? 私以上にあなたの事を想っている人なんて居ないのに、どうして逃げるの? あなたに似合うのは私だけなのに、どうして逃げるの? あなたの傍に居るべきなのは私なのに、どうして逃げるの? 私はあなたの好みを知り尽くしているのに、どうして逃げるの? 私にはあなたしか居ないのに、どうして逃げるの? ねぇ、どうして? どうして? どうして? どうして? どうしてなのよぉぉぉぉおおお! どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……」
美しかったはずの彼女の顔が怒りで歪んでいた。
彼女は足を傷つける花瓶の破片にも気づかない様子でキッチンの中に入って来る。
「許さない! 私から逃げるなんて、絶対に許さないから! 殺してやる! あなたが私から逃げるなら、殺してやる! ずっと一緒に居てくれないなら、殺してやる!」
彼女は金切り声で叫び続けた。
僕は彼女と同じように金切り声を上げて、ゆっくりと近づいて来た彼女の白いお腹に、包丁を突き立てた。彼女の柔らかい肌を無機質な刃が貫く感触が手に伝わって来た。
彼女は自分の刺されたお腹を見下ろした。叫び声を発するのは既にやめていた。あろう事か、自分のお腹に突き刺さった包丁を見て、彼女は笑った。
僕は泣いた。
泣きながら包丁を引き抜くと、嗚咽と共にもう一度彼女の白い肌にそれを突き立てた。
もう一度引き抜いて、また刺す。
何度も、何度もそうやって彼女の白い肌に包丁を突き立てた。
包丁を突き刺すたびに彼女の白いお腹から真っ赤な血が流れ出て、彼女の足元に垂れた。
血まみれになった包丁を持つ手が滑ったが、それでも僕は彼女を刺し続けた。
何度も、何度も、何度も、何度も。
彼女は僕が何度も包丁を突き立てる間、全く抵抗をしなかった。
僕の手が滑り、包丁を引き抜けず、僕は床に尻もちをついた。
彼女は自分に突き立てられた包丁を気にも留めずに、傷口から流れ出る血を手で掬いあげると、床に膝をついて僕ににじり寄った。
彼女は悲鳴を上げる僕の上に覆い被さり、僕の顔に自分の血を塗りたくった。そして、屈託のない笑みを浮かべる。
「……嬉しい。あなたがこんなにも私の事を見てくれて、嬉しい。あなたがこんなにも私の事を滅茶苦茶にしてくれて、嬉しい。あなたがこんなにも私の事を愛してくれて、嬉しい」
彼女はそう言うと、飛び散った自分の血で真っ赤に汚れた頬に、涙を一筋流した。
その涙が零れ落ちた時、僕の見ている前で、僕が包丁で刺した彼女の傷口が捲れあがって、赤い血肉がむき出しになった。何度も何度も刺した全ての傷口がことごとく捲れあがって、そうして現れた赤い血肉の部分がどんどん膨らんでいき、遂には彼女を飲み込んだ。真っ白い裸体を見せていた彼女が、今では真っ赤なドロドロとした肉の塊となった。
かつて君の姿をしていた何かは、臓物のような赤い血肉をぼたぼたと僕の胸の上にこぼしながら、そっと僕に口づけをした。
「嬉しい……」
僕はその後気を失ってしまい、目が覚めた時にはキッチンで倒れていた。君の姿をした何かは居なくなっていて、牛刀は元通り包丁立てに収まっていた。あれほど床に飛び散っていたはずの彼女の血は無く、花瓶の破片で切った僕の血がほんの少し床を汚しているだけだった。それ以外に残ったのは、散らかった部屋と、会社からの山のような着信通知。僕が見ていた物は、錯乱した僕の精神が見せた幻覚だったのだろうか? けれど、僕の足にしっかりと傷が残っている事を考えると、すべてが幻覚だったとも思えなかった。
結局、会社には何も連絡せずに無断欠勤をしていた。仕事をクビになる事も覚悟したけど、地震で割れた花瓶で怪我をしたと伝えたらとても心配されてしまった。無断欠勤についても注意をされただけで有給扱いにしてくれて、何だか申し訳ない気分になった。
後で知った事だけど、僕たちが同棲していたあの部屋では以前、痴情のもつれから起こった無理心中があったらしい。男性に別れ話を切り出された女性が逆上して起こしたという話で、女性は亡くなったが、男性は一命をとりとめたらしい。僕の前に現れて君のふりをしていた何者かが、その亡くなった女性なのかは分からないが、そうに違いないだろうと僕には思えた。
その事件があってから僕らが入居するまでの間に何年も経っていたから、不動産会社からの告知義務はないのだという話だった。僕はもちろん、すぐに引っ越しをした。君との思い出のつまった場所から出ていくのは辛くはあったけど、あんな恐ろしい事が起きた部屋に住み続ける事は出来なかった。
あのラジオから君の声が聞こえる事はもう二度となかった。それどころか、あのラジオはスイッチをつけてもザーザーとホワイトノイズを発するだけで、どの放送局も流す事が出来なかった。おそらく電池が液漏れをした時に基盤の一部がショートして、既に壊れてしまっていたのだろう。君の声がまた流れる事を期待して、捨てずに引っ越し先に持って来たけれど、それも無駄になりそうだ。
『いつまでも逃げられないよ。立ち向かうしかないの』
結局この言葉が最後に聞いた君の声となった。何とも勇ましいものだと思う。最後にもう一言くらい、僕に優しい言葉をかけてくれても良かったんじゃないかと思うけど、それをしない所がかえって君らしいのかも知れないね。
きっとこの言葉は、不甲斐ない僕に対してずっと君が言いたかった言葉なのだと思う。僕は君の死からずっと逃げていた。だから、あんな得体の知れないものに付け入られたのだろう。
だけど、もう逃げないよ。本当は残酷な現実から逃げたくて、眼を瞑ってしまいたくてたまらないけれど、君が最後にかけてくれた言葉を無駄にしないためにも、逃げずに戦っていこうと思う。正直言って、勝ち目があるかどうかは分からないけどね。
僕はそう決意を新たにし、よれよれのメモを見ながらお寺へ続く階段を上った。照り付ける太陽が僕の背中を焼く。暑い日だった。
君のお葬式の日に着たダークスーツはクリーニングにも出さずにクローゼットの奥に放り込まれていて、ポケットの中からメモが出て来た。君の家族に貰ったお墓の場所が書かれたメモだ。
手には君が好きだったピンクのナデシコの花。可憐で、儚げな花。いつだったか君が、気恥ずかしそうにしながら、この花の花言葉を教えてくれたね。意外とロマンチストなんだねって言ったら、むくれた君に背中をつねられたっけ。
お寺の住職に場所を確認して君のお墓へ行くと、お墓はきれいに清掃されていて草一本生えていなかった。
ごめんね、お墓参りに来るのが遅くなって。
心の中で君に謝ってから、お墓に花を供えて長いこと手を合わせた。
これからは出来るだけお墓参りに来るよ。君のお墓が遠くて、電車を何本も乗り継がないといけないのは大変だけどさ。それじゃ、またね。
お別れを言って立ち上がった時、日傘をさした見覚えのある女性が君のお墓に近づいて来るのに気が付いた。
「あら、あなたは……」
僕はこんな時に何て言えば良いか分からなくて、御無沙汰してます、とだけ答えて会釈をした。
「来てくれたのね。あの子が好きだった花……きっとあの子、喜んでるわ」
「その……すみません、今までずっと、お参りに来なくて」
その人は静かに首を振った。
「良いのよ。良かったわ、あなた、前に進めるようになったのね」
僕はそっと自分の胸に手を当てた。服の下には、鎖で首から下げた君の指輪の感触があった。
「……いえ、まだ一歩も前に進めていないんです。ずっと同じところで足踏みしているばかりで……でも、ようやく足を踏み出す準備ができたと思います。こんなに長い時間をかけて、準備だけですけど……」
あら、とその人は寂し気に笑った。
「それなら、私と一緒ね」
僕は返す言葉も無くて、ただ君のお母さんに深々と頭を下げた。
これで、僕の身に起こった不思議な出来事の話はおしまいだ。
誰も居ない暗いマンションの一室で、小さな携帯ラジオからザーザーとホワイトノイズの音が漏れている。
長い間、雨のような音を立てていたラジオから、女性の声が漏れ出た。
『ねぇ、どうして? どうして? どうして? どうして?』
女性の声は、どうして、どうしてと繰り返す。
何度も、何度も、何度も、何度も。
『ねぇ、どうして? どうして、これでおしまいだと思ったの?』