(9)
そこは、星座ラケルタに広がる森だった。もともと木々が豊かで木材や鉱石の産出を中心に栄えていたのだが、皇太子暗殺未遂事件の後、星司が空位となり、今は賑わいから遠ざかっている。
森はうっそうと生い茂り、昼間でも暗い。慣れない者が入ると迷って出られないとも言われており、定期的に材木や鉱石の調達に訪れる者がいるほかは、ほとんど人けのない場所だった。
いかにも資材となる木を伐りにきたという風情の荷馬車の中で目を覚ました天鵝は、自分を覆い隠している布のすきまから見える木々をぼんやり眺めた。
自分は捕まってしまったのか。
結局、また摩羯の手をわずらわせてしまうのか。
いや、摩羯は今、動けない。衛士は自分の行方を追うだろうが、摩羯はその役目からはずされるはずだ。もしかしたら、摩羯には内緒で捜索している可能性もある。
できれば、そうであってほしい。衛士に迷惑をかけるのは心苦しいが、摩羯には、自分のことなど知らぬまま養生していてほしい。
まもなく、馬車がとまる気配がした。かぶせられていた布をはがされた天鵝は、木こりの姿をした男に乱暴に引きずり下ろされた。
顔は摩羯に似ているが、天鵝への扱いはほぼ正反対だった。天鵝と親しくなろうとしない摩羯ですら対応は丁寧だったのに、この男はぞんざいだ。
目の前に建つのは、木こりたちの休憩場所のような小さな家だった。何度も突き飛ばされて転びそうになりながら中に押し込まれた天鵝は、狭い室内をぐるりと見回した。
棚には酒瓶がいくつか並べられている。そして円卓と椅子が二つ。小さいが暖炉もあった。さらに暖炉のそばに扉がついている。男はその扉を開くと、天鵝をふり向いた。
「ここで蹴落とされたいか、それとも自分で降りる? 僕としては蹴落としたいんだけど」
にやりと笑われ、天鵝はきゅっと唇をかんで男をにらんだ。後ろ手に縛られているし、ずっと荷馬車に転がされていたので体のあちこちが痛むが、おくびにも出さず、できるだけ背筋をのばして自分から扉を抜けた。
下へと階段がのびている。地下があるのか。
怖がるそぶりを見せない天鵝に、男が鼻を鳴らした。そして男は一緒に来ていた者たちを家の中に見張りとして残し、先に降りていく天鵝の後に続いた。
「ここは食料庫だけど、あなたが行くのはこの先だ」
男がすみのほうにある床扉を引いて開ける。一見中身の入っていない床下収納に思えたが、男がさらにその収納箱を取り出すと、また階段があった。しかし先は真っ暗だ。
天鵝は覚悟を決めると、思い切って踏み込んだ。
「お前の名は?」
歩きながら天鵝が問うと、ややあって男が「昴祝」と答えた。
「あの人の名は知ってるのか?」
牛宿は本名ではないよと男が嘲笑する。
「摩羯は摩羯だ」
「それは星司が引き継ぐ名だ。あれだけあの人を追い回しておいて、あの人の本名も、どう育ってきたかも興味がないのか」
そんな女を今までかばってきたなんて、あの人も気の毒だなと昴祝が肩をすくめる。
「興味はある。だが、お前の口から聞きたくないだけだ」
とたん、天鵝は頬をはたかれた。よろめいて壁にぶつかり、あやうく階段を踏みはずしそうになるのを踏ん張る。
「あなたにはもう、あの人から聞く機会はないよ」
昴祝が苛立たしそうに天鵝をにらみすえる。摩羯と関わろうとする者のことが本当に嫌いらしい。
独占欲、なのだろうか。天狼も、摩羯たちが近づくのをひどく警戒していた。天琴もあまりいい顔をしない。それでも二人とも、衛士が天鵝を害さなければ邪険にはしない。
「そうやって今まで、摩羯からいろんなものを奪ってきたのか」
「別に奪ってなんかいないよ。いつだって分け合ってきただけだ。できないものは壊しちゃったほうがいいんだよ。それが喧嘩しないコツなんだから。あの人もそれがわかってるから、自分のものを僕に分けてくれていたんだ。あの人のものは僕のものだ」
だから、あなたも僕の好きにするよ、と昴祝が天鵝に顔を寄せてささやいた。
「……摩羯はここへは来ない」
「来るさ。憎らしいことに、あの人は自分の命よりあなたのほうが大事なんだから」
来るわけがない。来ないでほしい。天鵝は目尻にたまりかけた涙をまばたきで抑えた。
やがて、少し先にほのかな明かりが見えた。
そこにあったのは、地下にしてはまずまずの広さの空間と、鉄格子だった。立ちつくした天鵝は後ろから昴祝に突き飛ばされ、開いていた鉄格子の扉の向こうへ前のめりに倒れた。背後で格子の閉まる音がする。
あごを打ち、痛みに顔をしかめたところで、自分が来たのとは反対側の通路から靴音が響いてきた。
「なっ……!?」
驚きの色をおびた声に顔を上げた天鵝もまた、目をみはった。
「佑角……?」
白髪交じりの宰相府戸籍管理長は、ひどくうろたえたさまでかたまっている。さらにその横では、女性と少女が何の感情も浮かばない双眸で天鵝を見つめていた。
「なぜ姫様がここに……」
「彼が教えてくれたのよ。姫様も同い年だって。お父様ったら、姫様の名前はわざとはずしていたのね」
「だめだ。姫様は……姫様はいかん。すぐに放してさしあげるんだ」
後ずさる佑角に、女性が首をかしげた。
「あら、どうして? 姫様なら輝力もあまるほどお持ちのはずよ。もしかしたら、張女の病も治るかもしれないわ」
佑角はかぶりを振った。
「喰血病は完治しないとあの薬師が言っていただろう。よくて延命だと」
「今まで解明されていないだけで、これから治療法がわかるかもしれないじゃない。大丈夫よ、姫様の遺体は彼が引き取ってくれるそうだから」
女性が昴祝に流し目を送る。
「姫様を手にかけるなど、わしには耐えられん。他にしろ。まだ同い年の者はたくさんいるだろう」
「お父様、姫様と他の子供と何が違うというの? 姫様は助けて他の子は殺してもいいなんて、それこそ他の子がかわいそうじゃないの」
女性は佑角の娘だったのか。そしてその脇にいる少女は――自分と同年齢の、喰血病をわずらった者。
顔色が悪くやせた少女と、天鵝は視線をあわせた。この娘を生かすために、今まで数多くの少年少女がさらわれてきたのだ。
「さあ、張女。行っておいで」
女性が少女の肩をたたき、鉄格子のほうへうながす。少女はこくりとうなずくと、少しこころもとない足取りで扉を引き開けた。
「待て、張女! やめるんだっ」
「お父様は黙ってて。そんなに見たくないなら、出て行ってちょうだい」
女性が佑角を叱りつけ、ふところから小刀を取り出す。
あれで、娘がかみついた跡をえぐって証拠を隠滅していたのだ。喰血病だとばれないように。
そして額を切り裂いて星魂も奪っていたに違いない。
牢内に入ってきた少女から逃げようと、天鵝は足をずりずりと滑らせて動いた。
少女の手がのびる。かがみ込んできた少女を蹴り飛ばすと、少女より先に女性が悲鳴をあげた。
「張女! 私の張女になんてことを……!!」
「よせ!」
小刀を手に牢に入ろうとした女性を、佑角がはがいじめにする。天鵝は何とか体を起こそうとしたが、手を後ろで縛られているせいでなかなかうまくいかない。その間に再度近づいてきた張女が、背後から天鵝の腕を引っ張り起こすと同時にその肩口にかみついた。
痛みは一瞬だった。抵抗する力が急激に失われていく。くらりと目がまわった。
「一気飲みはやめてくれよ。見せたい人がまだ到着してないんだから……って、やっとお出ましか」
壁にもたれて腕組をしていた昴祝が階段を見やる。かろうじてその声が聞こえた天鵝も、半分ぼうっとした状態で視線をずらした。
一歩一歩、壁に寄りかかるような姿勢でゆっくりと降りてきたのは摩羯だった。呼吸すら苦しそうにしながら現れた摩羯は、天鵝を見るなり目の色を変えた。
摩羯、と唇を動かしたものの、音にはならない。代わりに涙が天鵝の頬を滑り落ちた。
ガンッと激しい金属音がした。鍵のかかっていなかった格子扉を開けて中に入ってきた摩羯が、天鵝の肩に食いついている少女の髪をつかんだ。
無理やり引っ張られた少女が顔をゆがめて天鵝からわずかに口を離す。暴れて再度天鵝の血を飲もうとした少女に、摩羯が自分の腕を割り込ませた。
摩羯の腕にかぶりついた少女が、やがてびくりと体を揺らした。摩羯の手を振り払い、急にその場に倒れて転がりもだえはじめる。
「張女!?」
佑角を押しやって女性が牢内に入ってこようとしたため、摩羯は衛士の鎖を扉へ放った。鎖が格子を絡めて閉まり、鍵の代用となる。
「張女! どうしたの!? 張女!」
開かなくなった扉の格子をにぎりしめ、女性が必死の形相で叫ぶ。
「悪食がたたったな。ヒカリススマダラの毒入りだ」
おぞましい悲鳴をほとばしらせてもがく少女を冷ややかに一瞥し、摩羯が短剣で天鵝の縄をほどいてかかえ起こした。
摩羯の手が天鵝の肩の傷口に触れる。ぽうっとやわらかい光が放たれ、垂れていた血がとまった。青冠薬師以上が使える止血の術を天鵝に施した摩羯は、次に天鵝の額に触れた。血はかなり吸われたが、輝力はまだしっかりしているのがわかったのか、ほっとした容相になる。
「ヒカリ……ススマダラ?」
女性が呆然とつぶやいた。佑角も蒼白している。
「そんな……嫌よ、張女! ここを開けて。張女が死んでしまう! やめてっ。いやああっ!!」
女性が鉄格子を揺するが、鎖はびくともしない。そうしている間にも黒い斑点が顔や手に浮き出てきた少女は、最後に醜いしわがれ声で一声大きくわめくと息絶えた。
少女の額からふわりと抜け出た星魂が粉々に砕ける。弱々しい光を空中で散らした少女に、女性がその場にくずおれた。
「張女……張女……ああああっ」
天を仰いで泣き叫んだ女性が、ゆらりと立ち上がった。自分の外套を脱いで鉄格子へと放り捨てると、そばの燭台へ手をのばした。
「馬鹿、やめろ!」
昴祝の制止は間に合わなかった。女性は自分の外套に火をつけた。
「あの二人を一緒に死なせるな! 引き離して別々に殺すんだ!」
しかし女性は聞かず、棚にあった瓶を次々に火の中へ叩き割っていく。火は一気にふくらみ、あっという間に牢の表面を飲み込んだ。
「くそっ」
大きく舌打ちした昴祝は、女性を連れて逃げようとした佑角をまず切り捨てた。さらに狂って高笑いをしている女性を、燃え盛る炎のほうへ蹴る。
肉が焼ける臭いとすさまじい悲鳴があたり一面に満ちた。無残な姿に変わっていく女性から、天鵝は顔をそむけた。
と、そこで佑角たちが入ってきた通路側から誰かの声がした。
「昴祝、衛士がラケルタに入った。こちらへ向かっている。急げ!」
仲間の警告に昴祝が顔をさらにゆがめる。最後に視線があった昴祝は、憎しみをたぎらせた緑色の双眸で天鵝たちをとらえていた。
昴祝が去り、二人残された牢内で、天鵝が立ち込める煙に咳き込むと、摩羯がよろよろと立ち上がった。入り口に巻き付けていた鎖をほどき、奥の壁際へと天鵝を導く。
鎖で輪を作りながら壁にもたれて腰を落とした摩羯が、天鵝を自分の前に座らせてから輪を閉じた。
「畢子に居場所を伝えていますので、まもなく助けが参ります。それまでのご辛抱です」
息切れの合間にそう告げて、摩羯は左手で鎖に触れた。とたん、鎖が淡い黄色の光をくゆらせはじめた。呼吸が楽になったことに天鵝は驚いた。
「結界をはりました。絶対に鎖の外に出ないでください」
「なぜここがわかったんだ?」
「昴祝が私宛に手がかりを残していました。あの男が姫様に害をなすと知っていたのに、姫様の御身を危うくさせてしまったのは、私の責任です。申し訳ありません」
「違う、悪いのは私だ。私がお前の忠告を聞いていれば、お前を巻き込むことはなかったのに。いや、そもそも、お前が耳飾りを返すと言ってきたときに受け取っていれば、お前の家族が犠牲になることはなかったんだ」
「それは誤解です。私は人に知られてはいけない存在でした。『牛宿』としてあなたにお会いするわけにはいかなかったから、一度お返しするよう促されたのです。まさか昴祝が立ち聞きしていたとは思わず、あのようなことに」
「お前が名乗り出なかったのは、闇使だからか」
摩羯が目をみはった。
「姫様、ご存じで」
「昴祝に聞いた。私を守ろうとして死んだ者も、お前と同じ闇使だったと」
摩羯はため息をつくと、当時のことを話した。天鵝から返却を拒まれた耳飾りはひとまず父が預かることになったが、そこへ昴祝が賊を引き込んで襲ってきたのだと。
「父も母も、妹も弟も、昴祝たちの刃に討たれました。せめて昴生……人馬だけでもと思い応戦しましたが、隠していた姫様の耳飾りを見つけた昴祝がそれをつかみ取ろうとして……耳飾りが昴祝の左目を焼いたのです」
そして怒り狂った昴祝は、代わりに摩羯の左目を奪い去っていったのだ。
騒ぎを知って赤冠薬師の祖父が駆けつけたとき、家は焼かれ、金目のものはほとんど盗まれていた。摩羯が左目を失ったのを見た祖父は、すでに息絶えていた父の目を摩羯にはめたのだという。
その後、天鵝の耳飾りは封印の箱に収め、猟戸に預けた。
「長い間、姫様の御心を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」
摩羯の返答に、天鵝は困惑した。
「あやまるな。私は、お前が私に出会ったことを後悔していても文句は言えない」
「私は後悔などしておりません。あのとき、あなたをこの手でお守りできたことは私の誇りです。耳飾りも、昴祝の件が片付いたら宰相に返していただくつもりでした。闇使としての名はごまかさねばなりませんが、いつかお話しできればと……それまではできるだけ遠くで……私から離れた安全な場所で、健やかでいてくだされば、それでよかった」
式典のとき、兄弟仲良く笑って話をしている天鵝を眺めているだけで満足だったのだと、摩羯は目を細めた。
「それなのに……大きくなられたのに、姫様は変わっておられなかった。落ち着きがありそうで、意外と気ままに駆け回られる。再会してからどれだけ気をもんだことか……本当に、心配する者の身にもなってください」
苦笑した摩羯の体がびくりとはねた。苦痛に顔をゆがめ、脂汗が噴き出している。
「摩羯、薬は持っていないのか?」
「ここに……入る前に、建物……に置いてきました。袋を……背負っ……は、立ち回るのに、邪魔……なりそう……ので」
声に力がなくなってきている。さらに尋ねようとした天鵝は、首元や手首にまで黒ずみが現れたことに悲鳴を上げかけた。
毒が全身に広がっている。そして天鵝は気がついた。摩羯は鎖に自分の輝力をそそぎ込んで結界をつくっているのだ。
「摩羯、結界を解け。力を使えば、お前の体力がもたない。そんなことをしたら、お前は……!!」
天鵝は鎖に触れる摩羯の左手を放そうとしたが、どこに力が残っているのか、摩羯の手はびくともしなかった。
「摩羯、やめろ。お前を死なせたくない」
「……あな……のこ、と……は……必ず、守り……す」
「だめだ、摩羯。お前の命と引き換えに助かりたいとは、私は思わない!」
「……私を、信じ……とは……おっしゃって……けない、のですか?」
あのとき、そう答えてくれた天鵝の言葉が活力になったのだと、摩羯が弱く微笑む。
「信じてほしいなら生きろ! 生きて、もう一度私の耳飾りを受け取れ!」
天鵝は輝力の流れをとめようとしない摩羯の胸倉をつかんで揺さぶった。
「輝力の放出をとめるんだ、摩羯。お前を失いたくないんだ。頼むから……摩羯!」
泣きながら必死に呼びかける天鵝に、半分瞳を閉じかけていた摩羯の右手がゆっくりのびた。黒い染みの浸食した指で天鵝の涙をぬぐう。八年前の脱出の際に見せたやわらかい笑みを口の端に乗せ、摩羯は天鵝の髪をなでた。
後頭部に添えられた手に押されるまま、摩羯のほうへ傾く。
重なった摩羯の唇は乾ききっていた。その感触に天鵝が反応する間もなく、目の前で摩羯の体がずるりと沈んだ。
「摩……羯? しっかりしろ、摩羯! 死ぬな、摩羯!!」
嫌だ、という思いとともに、天鵝の輝力がはじけた。生まれてはじめて爆発させた輝力が、力なく壁にもたれる摩羯を包み込む。
まばゆいながら温かい波動が、摩羯の顔にまで現れていた黒ずみを薄め、徐々に数を減らしていく。ぎゅっと精一杯の力で摩羯を抱きしめていた天鵝の耳に、複数の足音と大声が届いた。
「火を消せ! 早く!」
室女の声だ。畢子や、視察の際に護衛についていた衛士たちのものも聞こえる。
地使団が来てくれた。
「姫様!? 団長!!」
摩羯が外に置いていた荷物だろうか。勢いの小さくなった炎の間をぬって牢内に入ってきた畢子は、袋を持っていた。
続けて姿を見せた室女たちが、光り輝く天鵝に目をみはっている。
「姫様……?」
とめようとしてもとめられなかった。一度噴き出した輝力は柔らかくあたりを満たしながら、あふれ続けている。
これでは、制御できずに仙王宮を破壊した天狼のことを言えないなと思いながら、天鵝はふうっと意識を手放した。
視界がゆらゆら揺れている。薄闇に、白い天井がぼんやりと浮かび上がってきた。
指を動かすと、「気がついたのね」と安堵の響きある声が聞こえた。
「……姉上?」
肩の上で外巻きにされた金の髪がまぶしい。目をすがめる天鵝に、寝台脇の小椅子に座る天琴は天鵝の手をとって微笑んだ。
「よかった……なかなか目を覚まさないから心配したのよ」
薄く涙目になっている天琴の手を、天鵝もにぎり返した。確かなぬくもりに、生きている実感がわいてきた。
やがて室女も姿を見せた。天鵝と摩羯を救出した衛士たちは、星座ラケルタに近い天鵝の星座に二人を担ぎ込んだのだ。
「摩羯は無事なのか?」
「団長は、姫様のおかげで一命をとりとめました。意識はまだ戻りませんが、今は畢子が付き添って別室で休んでおられます」
地使団を代表して御礼を申し上げますと、室女が恭しく頭を下げる。摩羯も助かったことに天鵝はほっとした。
「昴祝は、行方をくらましたのか」
「残念ながら……申し訳ありません」
室女たちが森の小屋に着いたとき、見張り役らしき男は室内でこと切れていた。おそらく摩羯が始末したのだろう。そして地下のほうからもくもくと立ちのぼってくる煙に気づき、急いで下に降りてみると、檻の中にいる天鵝と摩羯を見た。誰かに切られて倒れ伏している佑角と、黒焦げになった女性らしき遺体、さらに摩羯たちの近くで苦悶の表情で死んでいた少女の姿があり、まだかろうじて息のあった佑角から昴祝が反対側の通路を使ったことを教えられた。
その通路は鉱山につながっており、追跡を逃れるためか出入口が崩れてふさがれていたため、結局昴祝を捕らえることはできなかった。
佑角は最後まで天鵝への謝罪と、自責の言葉を口にしていたらしい。孫かわいさに愚かなことをしたと。
天鵝は涙ぐんだ。自分には摩羯をはじめ衛士がいた。しかし、犠牲になった子供たちには、身を守る術はなかったのだ。あの女性が言ったように、他の子供は殺してもよいということはない。命の重さは等しくあるべきだ。
「喰血病については、赤冠薬師並の知識がいったな。佑角たちに手を貸していた薬師がいるはずだ」
この事件に関わったすべての者を必ずつきとめてやる。そう心に決めた天鵝の言葉に、室女がうなずいた。
「それについては現在調べを進めておりますが、畢子のように赤冠薬師を目指す者も読む書物ですので、青冠薬師も調査範囲に含めたほうがよいと存じます」
ただ、青冠薬師までとなるとかなりの数になるという。
「例の男も、実は青冠薬師の資格は持っております」
摩羯は家族を惨殺されるずっと前に青冠薬師に合格していて、昴祝も後を追って試験に通っていたのだと、室女がけわしい顔つきで答える。
それならば、昴祝が佑角たちに知恵を与えた可能性も高いということか。しかし、彼らはいったいどこで顔見知りになったのだろう。
今後すべきことについて思案していた天鵝は、ふと入り口に人の気配を感じて目を上げた。火使団員が一人、切迫した容相で立っていた。
あれはたしか、天鵝が衛府を訪れた際に人馬をしばいていた女性団員だ。
室女に用かと思ったが、なぜか天琴が腰を浮かした。
廊下に出て二人が小声で話している。ちらりと室女を見やると、視線があった。
「何かあったのか?」
「ええ、まあ……はい」
歯切れ悪く答え、室女が気まずげに顔をそらす。
「本当にしょうがないわね。あの馬鹿、どこに……」
天琴のぼやきが聞こえ、天鵝ははっとした。天琴が『馬鹿』呼ばわりする者といえば――。
「姫様、まだお休みになっていたほうが……」
とめようとした室女を押し戻して、天鵝は寝台を下りた。部屋を出ると、難しい顔つきで向き合っていた天琴と女性団員がふり返った。
「天鵝、まだ寝てなきゃだめよ」
「姉上、もしかして天狼がどうかしたのですか?」
ぴくりと、天琴の整った眉がはね上がる。女性団員も唇をかたく結んだ。
「何でもないのよ。あんたは体を休めることに専念しなさい」
そのとき、廊下を走ってくる音が響いた。
「白羊、目撃証言が出た! 皇子はケンタウルスに――あっと、姫様」
駆け足を無理やりとめてつまずきかけた人馬に、白羊が苦々しげに舌打ちした。
「まったく、お前は……!」
「ケンタウルス? まさか、天狼はケンタウルスにいるのか?」
今の時世に『皇子』と呼ばれるのは天狼しかいない。猟戸であれば『宰相』となるからだ。
「周りへの配慮と判断が足りないわね。白羊、こっちの馬鹿のことは獅子にきっちり報告しておいてちょうだい」
ぎろりと人馬をにらみつける天琴に、「申し訳ありません」と白羊が深々と頭を下げる。その隣では、人馬は「やってしまった」とばかりに頭をかきながらごまかし笑いをしていた。
「姉上」
追及する天鵝に、天琴はあきらめたようにため息をついた。
「天狼がいなくなったのよ。あんたが行方不明になったことを衛士が兄上たちに伝えるのを聞いていたみたいでね」
天鵝が拉致された恐れがあるという話と同時に衛府襲撃の連絡が重なり、仙王宮が緊迫に揺れる中、天狼が供も連れずに赤馬で飛び出していったという。かなりの速さで駆け抜けていったため、門番もとめられなかったらしい。
「では、天狼は単独で行動した結果、今はケンタウルスにいると?」
「皇子の足取りで一番新しい情報はそうです」と人馬が答える。
「しかし、ケンタウルスは今……」
幻花の花粉が舞っている。日に一度やむ時間帯に入り込まないかぎり、近づくことはできないはずだ。
「やはり何者かにかどわかされたのでは?」
自分もそういう時期のケンタウルスに連れて行かれたのだ。
「まさか、昴祝に連れ去られたのでは……」
蒼白する天鵝に、白羊がかぶりを振った。
「我々もその可能性を考えましたが、天狼様は地使団長と親しくなさっていたわけではありませんので」
昴祝のこれまでの矛先は、基本的に摩羯と親密かどうかが基準となっている。天狼は確かに、摩羯が守ろうとしていた天鵝にとっては大事な弟だが、摩羯自身との交流はないのだ。
「それに、皇子らしきお方がケンタウルスに入って行かれるのを見たという者によると、お一人だったそうです」
「運悪くちょうど花粉がとまっているときにうっかり飛び込んで、出られなくなったんでしょ。あの子のやりそうなことだわ」
うんざりした様子で、天琴がこめかみを押さえる。
「天狼がケンタウルスに入ったのが確かだとして、どれくらい時間がたっているんだ?」
「おそらく二日目かと思われます」
人馬の返答に天鵝は動揺した。
「次に風がやむのはいつだ?」
「あと三刻ほどです。現在、衛府の警護に残った地使団をのぞき、皆でケンタウルスに向かっています」
「ケンタウルスは広い。時間内に見つけ出せるのか?」
「断言はできません」
たとえ衛士を総動員しても、必ず発見できるとはかぎらない。そしてもしこの一回で失敗すれば、明日までまた待たなければならない。救出が遅れれば生存率も低くなる。まして天狼はまだ幼い。大人に比べ、少量の花粉でも命の危険があるのだ。
迷っているひまはない。風がやむ一刻の間に何としても捜し出さなければ――そのとき天鵝の脳裏に、衛士の監獄前で見た大きな犬の姿が浮かんだ。
「北辰……」
そうだ。あの犬たちは月界中に鼻がきくと摩羯が言っていた。
「北辰を使えば……」
「残念ですが、北辰は我々の指示には従いません」
白羊の言葉に望みが断たれ、天鵝は落胆した。
忘れていた。北辰は衛士統帥の命令にしか耳を傾けないのだ。だから衛士統帥が不在の今、北辰を動かすことはできない。
使えない――この、一番必要なときに!
うつむいて唇をかんだ天鵝は、そこではっとした。方法ならある。自分にしかできないことが、一つだけ。
ぱっと顔を上げると、室女と白羊と人馬が自分を見つめていた。三人とも天鵝が何を考えているのかわかっているらしく、そのまなざしに期待がにじんでいる。
天鵝は決意をかためると、はっきりとした声で言った。
「衛府へ行く。北辰を放つ」
「天鵝、あんた何を……?」
「私が衛士統帥になります」
天琴が目をみはった。
「では、俺がお供します」
にやりとした人馬は、心配そうに自分を見やる白羊に片手をひらひら振った。
「大丈夫だって。もし姫様に何かあれば、兄さんに殴り殺されるだけじゃすまないから。姫様のことは絶対に俺が守る」
馬を用意すると言って、人馬が先に出ていく。
「どういうことよ? 衛士統帥ってあんた……」
詰め寄る天琴に、天鵝は頭を下げた。
「姉上、申し訳ありません」
「ちょっと天鵝!? 待ちなさいっ」
天琴の制止を振り切って天鵝が外に走り出ると、石畳の上で人馬が二頭の馬を用意して待っていた。一頭は天鵝がいつも乗っている黒馬で、もう一頭は人馬の愛馬だ。
月は西に沈みかけ、周囲には闇が降りつつある。二人は素早くそれぞれの馬にまたがると、出発した。
「衛府へ向かわれる前に、姫様には白馬をおもちいただきます」
星座キグヌスを抜けて衛士の官府がある星座ペルセウスを目指しながら、人馬が上機嫌のさまで言う。黒馬も決して遅いわけではないが、北辰の速さにはついていけないのだ。天鵝はうなずき、人馬の案内に任せた。
白馬を育てる丘は、衛府と同じ星座ペルセウスにあった。ちょうど世話係が柵の中で放っていた白馬を順番に厩舎へ追い立てているところで、天鵝に白馬を見せてやってほしいと人馬が頼むと、まだ自由に歩き回っていた数頭の白馬が猛然と天鵝に突っ込んできた。
一番に天鵝のもとへたどり着いた駿馬は鼻づらを天鵝にぐいぐい押し当てて甘え、後から寄ってきた他の白馬を威嚇している。複数の白馬に気に入られた場合、どうやら主の奪い合いになるらしく、遅れてきた白馬があきらめ悪く天鵝の周囲をうろつくさまに、「さすが姫様、もてますねえ」と人馬が笑った。
世話係が鐙や鞍を取りつけて乗れる状態にすると、天鵝はさっそく手に入れたばかりの白馬にまたがった。名前は自分で決めていいと言われたので、皓露と名付けると、馬が返事をするかのごとくブルルルッと鼻を鳴らした。
そして二人は世話係に別れを告げ、衛士の官府があるアルゴル市へ急いだ。
衛府はいつ修繕したのかと思うほど、襲撃の爪痕は見られなかった。人馬は天鵝を監獄へ導くと馬を下り、監獄を取り囲む柵の前にいた鍵番に命じて、柵の鍵を開けさせた。
天鵝も白馬を下り、人馬の後に続いて柵の中に入る。はじめて踏み込んできた天鵝に犬たちが反応し、犬舎からぞろぞろと出てきた。
犬たちは犬舎の前で立ちどまった人馬に寄り集まった。耳は天鵝のほうへ向けながら、人馬にじゃれつく。毛の色や模様はさまざまだが、どの犬も立ち上がれば天鵝の背を越しそうなほど大きい。
人馬は群がってくる犬たちを適当にかわいがってから、犬舎の奥に呼びかけた。
「北辰、新しい衛士統帥をお連れしたぞ」
ふっとその場の空気が変わった。犬たちがいっせいに人馬のそばを離れ、左右に分かれて一列に並ぶ。その場に座った犬たちは背筋をすっとのばし、犬舎に注目した。
犬舎の奥で二つの光がゆらいだ。足音はしないが、何かが出てくる!
緊張にこわばっていた天鵝は、やがて姿を現した純白の大型犬に息をのんだ。月よりも白く輝く北辰は、ゆっくりと犬舎を出ると、人馬をちらりと見てから天鵝に視線を投げた。
「天鵝皇女、お前たちの主だ」
人馬の言葉に耳をひくつかせ、金色の瞳でじっと天鵝を見据える。天鵝も負けじと見つめ返した。
と、不意に北辰が牙をむいた。唇をめくらせてうなる北辰に、他の犬たちも尻を浮かす。
「やはり星杖がいるか……」
人馬が顔をゆがめる。衛士統帥の証である星杖がなければ、統帥と認めないのか。天鵝は瞳をすがめ、踏み出した。
「姫様っ」
自分よりも前で出た天鵝に、人馬が警告の声をあげる。北辰のうなり声もますます高くなったが、天鵝は決して北辰から目をそらさなかった。
人馬より二歩ほど前に進んでとまり、天鵝は片膝をついた。
「おいで」
北辰は変わらず低くのどを鳴らしている。大きな口からはいくつもの鋭い歯がのぞいていた。一度食いつかれれば即死かもしれない。
「来るんだ」
天鵝は北辰に向かって両手を広げた。
北辰のうなり声がやんだ。それでもまだ警戒している。
「来い、北辰っ」
何かがはじけ飛んだかのように、北辰が駆けた。人馬が腰の剣に手をのばす。しかし天鵝は両手を広げたまま北辰を迎えた。
天鵝を押し倒すほどの勢いで、北辰は天鵝の胸に体当たりした。そのまま前足を天鵝の肩に乗せ、よだれまみれになるほど天鵝の顔をなめる。尾を激しく振っているのを見て、人馬がほっとした容相で剣の柄から手を離した。
「いい子だ。お前に捜してほしい者がいる。私の弟の天狼がケンタウルスにいるんだ」
北辰のふさふさの毛をかきなでながら天鵝は言った。小首をかしげる北辰に、人馬が寄ってきた。
「姫様、これを。仙王宮より借りてきました」
人馬が差し出してきたのは、天狼が行方不明になる直前に着ていた寝衣だった。
「用意がいいな……人馬、お前もしかしてわざと私に聞こえるように大声で言ったんじゃないか?」
北辰を動かすために衛士統帥になると、天鵝から言わせる方向にもっていったのではなかろうか。
「嫌だなあ。勘ぐりすぎですよ、姫様。まあ、そうなったらいいなあという希望はもっていましたけどね」
人馬はにこにこしている。最初は摩羯も笑うとこんな感じだろうかと思っていたが、訂正だ。摩羯はからかいをちらつかせることはあっても、うさんくさい笑みを堂々と人に見せることはしない。
天鵝は寝衣を受け取って北辰の鼻に近づけた。臭いをかいだ北辰が首をのばして遠くを見る。他の犬たちもそろそろとやって来ると、同じように臭いを確認した。
北辰がのそっと歩き出した。他の犬たちも後に続く。天鵝と人馬も北辰を追って柵を出ると、馬にまたがった。
「行こう」
天鵝の呼びかけに、北辰たちはケンタウルスへと走りだした。
星座ケンタウルスの付近で最終の打ち合わせをしていた天蝎たちは、背後でざわめく衛士たちの声にふり返った。
「姫様!?」
「白馬に乗っておられるぞ。おい、あれ、北辰じゃないかっ」
衛士たちが開けた道を、人馬と北辰を連れた天鵝が白馬で悠然とやって来る。出迎えた三人の団長は、天鵝と白馬と北辰をかわるがわる見て、最後に人馬に尋ねた。
「人馬、これはいったいどういうことだ?」
「姫様が衛士統帥になられることを決意されたんです」
人馬が皆の耳に届くように声を張り上げる。情報は瞬く間に衛士たちの間に広まった。
「よく北辰が動いたな。まだ星杖をお持ちではないのに」
天鵝にぴったりと寄り添っている北辰を眺めながら、双子が感心したさまで言う。
「俺も正直賭けだったんですが。北辰を従わせたのは姫様のお力です」
歴代の衛士統帥は初対面の際、その位の証である星杖を見せることで北辰の心を得てきた。逆に言えば、北辰は衛士統帥の星杖を授与されていない者を己の主とは認めなかったのである。
しかし天鵝は星杖なしで北辰と向き合い、心服させた。天鵝をめぐる白馬同士の争いや、北辰が天鵝になついた瞬間を皆や兄にも見せたかったと、人馬は得意げに破顔した。
「摩羯はきっと、渋い顔をするだろうな」
それどころか、怒りすぎて口をきいてくれなくなるかもしれない。天鵝は苦笑を漏らしながら自分の白馬のたてがみをなでた。
「激しくお怒りになるのは金の姫様かと存じますが」
天鵝を衛士に引きずり込むなと以前釘をさされたのだと、天蝎が肩をすくめる。
「そう言えば、もしまた姫様がさらわれるようなことがあれば、衛士全員を縛り首にするとおっしゃっていたな」
この仕事が終わったら、俺たち全員命がないぞと獅子が発笑した。
「そんなことはさせない。私はお前たち衛士に助けられたんだ。だから、お前たちの身は私が保証する」
信じてほしいと力説する天鵝を、団長三人が見つめる。近くに控える副団長や小隊長、団員たちの目も天鵝に集まった。
やがて「姫様」と天蝎が呼びかけた。
「金の姫様の御意向に背くのは我々も心苦しいのですが、姫様を衛士統帥としてお迎えできることを嬉しく思います」
「……本当にいいのか? 私が統帥に就けば、昴祝との争いは間違いなく激しくなるぞ」
「あの男はできるかぎり早く捕らえねばなりません。衝突の回数が増えるのはむしろ好都合です」と双子が口角を上げる。
「摩羯のことは俺たちが責任をもって説得いたしますので、ご安心ください」
獅子が胸をたたく。見回すと、団長の背後にいる衛士たちのまなざしも温かかった。
「ありがとう。お前たちに少しでも報いることができるよう、努力を惜しまず任にあたる」
よろしく頼む、との天鵝の言葉に、衛士たちが一斉に一礼した。
「状況はどうなっている?」
「風はもうまもなくやみますので、三方面から各団を突入させます」
天鵝の質問に天蝎が答えるそばから、舞い上がる花粉の量が減ってきた。衛士たちの間に緊張が走る。天鵝の指示で北辰が三つの隊に分けられ、それぞれ団長に連れられて散っていった。
「頼むぞ、北辰」
天鵝は手綱をにぎる手に力を込めながら、傍らの北辰に声をかけた。純白の毛をわずかに逆立てている頭目の北辰は、金色の瞳でケンタウルスをにらみつけている。それにならうかのように、他の犬たちも耳を立て、命令を待っている。
ついに風がやんだ。乱舞していた花粉がひらひらと落ちていく。
「行けっ」
天鵝のかけ声に北辰がいっせいに駆けた。天鵝が後を追い、獅子も続きながら腰の剣を抜く。宙に向かって突き出された獅子の剣先から赤い光がパアッとのびると、二方向からそれぞれ別の色の光が宙に打ち上げられた。白緑色の光は双子、青い光は天蝎の剣から放たれたものだ。団長の合図に、衛士たちもケンタウルスに突進していく。
速い。本気になった白馬の速さに天鵝は驚惑した。黒馬など遠く及ばない。速すぎて呼吸するのも難しいほどだ。
北辰たちはどんどん先を進んでいく。頭目の北辰を先頭に、隊列をまったく乱さず走る犬たちの姿は圧巻だった。
墓地へ続く一本道をひたすら駆けていくと、前方に分かれ道が見えた。北辰は迷わず右へ流れていく。
天鵝は振り落とされそうな勢いに歯を食いしばった。この速度で落馬すれば命取りだ。だが北辰は天鵝をかえりみることなく走り続けている。後ろの獅子や人馬たちをちらりと見やれば、皆平気そうな顔でついてきていた。
衛士統帥になれば、鍛えなければならないことがたくさんありそうだ。天鵝は気を引きしめなおし、前に集中した。
やがて北辰の速度が少しずつ落ちはじめた。目的地が近いのか。心臓がバクバク鳴り響き、口から飛び出てきそうだ。
(どうか無事でいてくれ――天狼!)
前方に、背の高い木々に覆われた小さな洞穴が見えた。北辰の脚はさらに遅くなってきている。
北辰がついに駆け足から歩みへと転じた。あの洞穴に天狼がいるのか。天鵝ははやる気持ちを抑えきれないまま洞穴に近づいた。
先に頭目の北辰が洞穴に入る。他の犬が外で待つ中、天鵝たちも馬から下りたところで、北辰が吠えた。
足がもつれそうになりながら洞穴に走り込む。花粉にまみれて倒れている天狼と赤馬の姿がそこにあった。
北辰はかたく目を閉じている天狼の顔に鼻を近づけたが、花粉を吸い込みそうになったのか、顔をそらしてくしゃみをした。天鵝はふところから布を取り出して鼻と口に当て、天狼にまとわりついている花粉を払い落とした。そうしている間も、天狼はぴくりともしない。
「天狼、しっかりしろ! 天狼っ」
肩を揺さぶるが天狼は目を覚まさない。脈を確認すると、かなり弱いがまだ動いていた。
隣に膝をついた獅子が、腰にさげていた水筒を取ってふたを開けた。直接天狼の口に緑色の液体を流し込む。しばらくすると天狼がむせた。
大きく咳き込んでから、天狼は緑色の液体ごと、体内に入り込んでいた大量の花粉を吐き出した。
薄くまぶたが開き、薄紫色の瞳が一瞬だけ天鵝をとらえた。唇がわずかに動く。姉上、と呼ばれた気がした。
「急いでここを出ましょう」
またすぐに目を閉じる天狼を横抱きにして獅子が立つ。天鵝も腰を上げた。
「天狼は無事なのか? 助かるのか?」
「今の薬は体内の異物を吐き戻させるものです。手遅れならば吐くことはしませんので、おそらく大丈夫でしょう。ただし応急処置ですから、きちんとした治療を早くおこなわなければなりません」
獅子は洞穴の外に出ると天狼を縦抱きにして、自分の愛馬にまたがった。白馬は主以外の者が乗るのを嫌うため、獅子の馬も最初は抵抗して足踏みし、首を左右に激しく振っていたが、獅子が言い聞かせ、何とかおとなしくなった。
「そろそろ風が出てきました」
白羊が周囲に目をやりながら警告する。確かにそれまでぴたりとやんでいた風が、さやさやと木々の葉を鳴らしはじめていた。
「ケンタウルスを脱出する」
獅子が腰の剣を抜いて掲げる。突入時と同じく赤い光を空へ放つと、応えるように、離れた場所から残る二つの光がパアンッと吹き上がった。そして天鵝たちは北辰を先頭にしてケンタウルスを走り抜けた。
全員がケンタウルスを出たところで、風がきつくなった。静まっていた花粉の嵐が復活する。力をためていたかのように、いくつもの花粉の渦がうなりながら激しくぶつかりあった。
衛士たちと北辰はひとまず衛府に引き上げさせ、天鵝は天狼を抱いた獅子と人馬の他、火使団員数名とともに星座ケフェフスに向かった。星座門をくぐり、人けのない裏道を駆ける。
そうして仙王宮に着くと、仙王帝が女官長を連れて姿を見せた。
「無事だったか」
安堵の容相で迎える仙王帝に「ご心配をおかけしました」と頭を下げ、天鵝は女官長を見やった。
「すぐに天狼の手当てに入る。獅子の指示に従ってくれ」
天狼の侍従も出てきて、天狼を寝所へ運んでいく。天鵝はついていきたい気持ちをこらえ、報告のために仙王帝の私室へ移動した。
「湯の用意を頼む。それから薬草庫に案内してくれ」
獅子は必要な調剤器具を女官長に伝えながら、薬草庫へ向かった。
獅子の処置のおかげで、天狼は翌日には目を覚ました。完全に体力が回復するには数日かかりそうだったが、後遺症もないだろうとの獅子の診断に天鵝はほっとした。
天狼はやはり、天鵝が行方不明になったという仙王帝たちへの報告を立ち聞きしていた。まだ自分が赤ん坊の頃に天鵝が誘拐されたことがあり、星座ケンタウルスで監禁されていたという侍従の話を思い出し、また今度もそこにいるかもしれないと向かったのだ。ちょうど幻花の花粉がやんでいたときに入ったものの、まもなく風が起こり、花粉で前が見えなくなったので、仕方なく近くの洞穴に避難したのだという。
その後、乗ってきた赤馬は急に暴れ出したかと思うと泡を噴いて倒れ、そのまま死んでしまった。天狼自身は舞い飛ぶ花粉を吸わないよう、鼻と口を布で押さえていたおかげでしばらくはもったが、それでもだんだん気分が悪くなり、最後には意識を失った。
姉上が心配だったんだと涙目でしがみつかれ、天鵝も怒るに怒れなかった。しかし天狼の行動は決してほめられるものではない。姉弟そろって衛士たちに迷惑をかけたことを後で詫びなければと、天鵝はため息をついた。